体験記・ナガエ・私の物語(4)
目次 |
私の物語(4)
著者:ナガエ(女性)
第2章扉
相談電話
スマートだった猫は丸みを帯び、毛はふさふさとして冬の支たくをはじめた。またストーブやこたつなどの暖房器具を出すほどではないけれど、半袖の服を着ている人はもうみかけない季節になった。
診察室にある外界へと繋がった小さな窓からのぞく風景も青々としげった木ではなく赤や黄色の葉をつけ、ぴゅうと風が通りすぎると渇いた音をたて、はらりと舞い、そして散った。
私はもう学校へ行こうという気になれず、病院と家を往復するだけの生活をしていた。数日間は学校へ行こうと思ったこともあった。
教科書をそろえて制服を着、玄関に立つのだが戸を開けて閉めて、また開いて閉じたりしていた。
そうこうしているうちに時間は過ぎていってしまい、家の中から出ることも困難になった。
そういう毎日を過ごしているうちに、私にとって学校とは何なのだろうという疑問にぶちあたり、最終的に社会的接触を積極的にしなくなったというわけだ。
学校へ行っている生徒たちよりも、不登校で苦しんでいる子たちの方が、学校とは何か、“教育”はどうあるべきなのかなど真剣に掘りさげて考えている人が多い気がする。それは逃避しようとするため、よけいきわだってそうなってしまうのかのしれない。
おそらく私もそのうちの一人ということになるだろか。家から出られなかったので、私は電話帳を持ってくるとそういった関連の話のできる相談機関はないかと調べた。すると相談電話というものが専用に設置してある機関を見つけることができた。
少し緊張したおももちで一呼吸してから電話をした。受話器からトゥルルル-トゥルルル-という呼び出し音が聞こえる。どんな人が出るのだろうと、ドキドキし身構えていた。
何秒ほどコールしただろうか。ふと呼び出し音は途切れ、しんと静まり返り、いくつぐらいだろうか、男の人の声が受話器からひびいた。
「はい。もしもし××教育事務所相談です」
男の人はやんわりと言った。
「あ、あのぅ。学校へ行けなくてどうしたらいいのかわからないんです・・・・・・」
私はあたふたとし、答えた。もっとこうなめらかに言うつもりだったのに舌がもつれてしまった。だが中年ぐらいの声を持った電話ごしの男性は、意に介さないようで、にこやかに続けた。
「大丈夫ですか。一緒におじさんとがんばりましょう」
それから学校へ行かなくなったのは、いつ頃からか、親はそれについて何と言っているのか尋ねた。
私は緊張の糸がぷっつり切れ、安心しせかされるように喋りまくった。不平や不満、親について家族について、そして学校について、電話ごしから聞えるおじさんの声はとてもあたたかく感じられた。“一緒に”私はそう言ってくれる人が欲しかったのだ。親でも家族でもなく、それから精神科医よりももっと何か頼れる安心感があった。名前も知らない顔も見えない人の存在がこんなに大きく感じられるなんて不思議だった。
話しに切りがつき「ありがとうございました」とお礼を言うと、おじさんは「かけてきてくれてありがとう。勇気がいったと思う」と言い、最後に「僕は吉田といいます。またかけてきて」と告げると受話器を置いた。
その後、少しぼうっとした。人とこんなに力を入れて話したのは久しぶりだった。話し終えた後、胸につっかかっていたものが、吹き飛んでいったような感覚がした。また何かあったとしても、電話をすればなんとかなる。久びさに盛り上がった気分だった。
人間が嫌いだと私はどこかで思い込んでいただけで、実際は人から安らぎを得ることができる自分がいた。人は人にいやされるそんな話を聞いたことがある。人は人に救われる。私にとって吉田のおじさんは救世主だろう。
過食そして退学
“閉じこもり”という状態から何日が経っただろうか。家にかかってくる電話には出ず、太陽の光を浴びることを嫌がり、まるで自分などいないかのように、ひっそりと暮らした。何をしてもおもしろくなく、テレビを見る気もしなかった。
そのかわり、そのどこへ向けてよいのか、わからないパワーは“食”へ向かった。
食べて、食べて、日がら一日中食べられる限り食べつくした。
たいして体を動かすわけでもないのに、ご飯を何杯もおかわりし、ポテトチップスやチョコレート、甘いお菓子やラーメン、高カロリーものも関係なく食べた。
こんなに、食べては太ってしまうと自分にブレーキをかけようとするのだが、自転車が自然に坂で勢いがつき、スピードをあげるように猛烈に下っていく。“食べたい”という欲望を止めることはできなかった。
体重計に乗ってみると60キロ近くになっており、腹に脂肪がついて、股もすれるほどになっていた。
母はそんな私の様子を見やると、「何もしないくせに、食べるばっかりで。まるまる肥えてきた」と言い、「極道、怠け者、もっと働け」と尻を叩いた。
そう言われると少しは茶碗を洗ったり、洗濯物を干したりすることもあったが、余計に食べる量は増え、体重計の目盛も右側に動いた。ほぼ、食べて寝ての日々。
いまから思えば、私は時間を無駄にせず、何かしていればよかったのにと思ってみたりすることもあるが、まぁそれなりに今の私にたどりつくためには、その“何もしない時間”というのは大切だったのだろうと思い改める。
デブになった私は、さらに家から出るのが苦痛になり、家に中では居間をさけ、自室に居ることが多くなった。
しかし、嫌でも自室にじっとしてこもっているわけにもいかなくなった。家を取り壊すことになったのだ。あの“おんぼろ屋敷”である。
生まれてから私は16年間、この家に住んでいる。どんなに古く、ぼろく、豚小屋のようでも私にとっては“家”なのだ。近所の人たちには、せせら笑われ、友達を連れてくることさえ恥ずかしく思い、早く建て直したいと幼いころから願い続けていたが、いざそれが実現してみると、空しい気もする。
空き箱をスーパーなどからもらい、いらない物は捨て、必要なものはそれにつめた。家を取り壊すことが決定したのは、私が中3の夏休みの終わりのことだった。
つまり、だいぶ前から荷物については準備をしていたが、家中全部の物をつめきってしまうまでは、時間がかかったのだ。
生活に最低限必要なものも箱や袋に入れると、わが家は新しい家が建つまで、小さなそれこそ小屋のような一軒家を借りて、引越しした。家を建てようというプランがたつきっかけとなったのは、台風が日本に到来したためであった。
“おんぼろ屋敷”だったので台風の強風にあおられて屋根がはがれ飛び、雨も降っていたので家中が水びたしになってしまったのだ。
不幸中の幸いとでもいうのか、家は広かったので屋根が飛んでしまっても、残っている部分に住むことはできた。仕事の都合上、遠方にアパートや家を借りることは考えられなかった。だから新しい家を建てることになったのだ。
引っ越した家には長年、誰も住んでおらず、古臭いカビやほこりの臭いがした。さらに、引っ越す前に何度か足を運び、ダニアースをしたり、カーテンをつけたりしに行ったが、まだ、すっきりとしていないようだった。
布団を敷き、一晩眠ったが翌日、吐き気と目まい、それから頭痛をもよおした。これではまるで中毒である。あれほど気にしていた人の目どころではなく、あわてて窓を全開にし、階段をかけおりるとドアを開け、外のすがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。頭がすっきりとするまでその場に立っていた。
目覚めたのは、まだうす暗い景色の時間帯だったが、家へ入ったのはもう日が出て、あたりは明るい朝をむかえていた。こんな家で、何日も暮らさなければならないのだろうかと、ため息が出そうだった。一日が長く、日が経つのは早いと感じられた。
そんな、だらしのない生活を送っているだらしのない私に、あるニュースがとびこんできた。それは学校からだった。ため息がこぼれる量がますます増えそうなニュースだった。
「このまま休んでいたら留年です」
私は電話に出なかったので、母からそのことを聞いたが、聞いたときは“留年”という二文字を耳にしてとまどった。高校は義務教育ではない。欠席日数、単位がとれなくては落第なのだ。だらけていた気分が一ぺんにひきしまる声だった。留年なんてハジである。留学ではなく一字ちがうだけで、ずい分違う、留年なのだ。
だが、学校へは行けそうにないと思った。長く休んでしまったので、なおさら行きづらいのだ。おそらくクラスの子たちは、好奇の目で私を見るだろう。冗談ではない。そんな好奇に目にさらされ笑われるくらいなら、絶対に行きたくない。
もし、留年し来年の4月から新たに登校するなんて、とんでもない話だ。だってそうなれば、一学年下の子たちと混ざってスクールライフを送らなくてはならないのだから。“プライド”を捨てることができず、捨てようとしても、たこの吸盤のようにしつこくまとわりついて離れてくれなかった。
一つ年が違うというだけで、きっと避けられるだろうし、敬遠され友達だってできそうにない。しかも、それを卒業するまで3年という短くも、おそろしく長く思われる日々を過ごさなくてはならないのだ。
私はこの先どうするか、こんつめて考えるようになった。学校を退めようという考えが頭をよぎった。“学校を退める”そんなことをしたら、私の将来は、どうなるのだろうか。中退の中卒では、正規の働き口もごくわずかしかないだろう。
バイトで一生、食べていけないだろうし、何かあった時のために保険もおりない。運よく就職先が見つかったとしても、安い賃金で働くことになりそうだ。
高校の卒業資格ぐらいはとりたい。人並みにいて生きたい。そう思ったが、この高校へ行く気にはどうしてもなれなかった。どうすればいいのだろう。
だけど、もう退めてしまいたい。はじめのうちは不確かだった、その思いは確実に私の頭の中を占拠し、根をおろした。 「学校を退めよう」誰が何と言おうと私はもう決めたのだ。
休学届け
病院へカウンセリングを受けに行くと医者はカルテを書くために持っていたペンの先をひっくり返すと机にこんこんと軽く叩きながら、尋ねた。まるで私に“もっとよく考えろ、そんなことでいいのか”と訴えかけるように。
「学校退めて後悔しない?」
私には頑固な所があるらしく一度決めたことはなかなか曲げなかった。だから当然、学校は退める、そう決めたのだからたとえこの先、生きていく上で後悔することがあったとしてもそれはあきらめなければ仕方ないことだと思っていた。
医者の目を直視し、私はもう決断したのだといい聞かせるようにかたい声で言った。
「後悔しない」
すると医者は、そのことに関してはもう何も聞かず次にこう質問した。
「将来の夢は?」
彼女、つまり私には大きな夢があるからこそ、退めても後悔しないという思いがあると思ったのかそう聞いた。“将来の夢”。今まで生きてきて、いろんな職業についてみたいと、ころころ意見を変えたし、絶対にこれになりたいと思ったものは何一つなかった。
しかし、医者に尋ねられると気分で返事するわけにもいかないので数秒考えたフリをして「ない」と冷たくつきはなすように答えた。
私には、なりたいものは何か、理想も一定に定まらなかった。私は、将来何になりたいんだろう? 私はどの方向へ向かってつき進めばよいのだろう。
この瞬間でさえも私はどこへ進んでいるのかわからないままつき進んでいるのだ。だけどそれは誰にもわからない。“私の将来の夢”は、それに続く言葉をためらうことなくはっきりと言える日がいつかやって来るのだろうか。
カウンセリングのあった日、勇気をふりしぼって外出した。図書館へ情報を調べるために家から出たのだ。私はもうカゴの鳥ではない。“留年”、“登校拒否”、“中退”の文字が録されている書物はないか探した。
意外とその種の本を見つけるのは簡単で、たくさん並べられていた。悪いことをしているわけでもないのに、借りるためにカウンターへその本を持って行くのが恥ずかしかった。
私は何も悪いことをしていないし、罪の意識に悩まされている自分が自分で馬鹿げているとは思ったが、どうしようもなかった。借りてきた本を家に着いてから、片っぱしから読みほした。
読んでいくにつれ、沈んでいた気持ちが少しは楽になっていった。中退してもまた新しく再スタートを切っている人がいるということが何より励みになった。
通信制の高校、定時制の高校そして高卒同等資格の得られる大検などもあり、今の全日制高校にこだわらなくても道は開かれているのだと知った。それ以外にも不登校生や中退生を積極的に受け入れる全寮制の高校があるということもわかった。
本にはそれらの各学校の電話番号と住所、特徴なども細かく記されており、資料やパンフレット、学校案内などを取り寄せることにし、電話で送ってほしいとたのんだ。一週間以内でほとんどの資料は届き、すみずみまで読んだ。
そうこうしている間に、学校からまた連絡があり、学校へ来て休学するか退めるかして何らかの手続を取ってほしいとのことだった。
母と学校へ行き、はじめは同じ部屋で2人一緒に担任と話したが、私に「ちょっと待っていて」と担任が言うと、私をおいて母と2人でその部屋を出て行った。
退めると決断したものの、テーブルの上に広げられた退学届にサインする気になれなかった。一人で待っている間ずっとそのことを考えて、退めてその先の手続に問題があると困ると思い、休学するという結論に達した。
ちょうどよいタイミングで2人は部屋に戻ってきた。私のいない場所で母と担任は何を話していたのだろう。わざわざ別室ではなすということは、私によほど聞かれたくない話題だったのだろう。
休学願いにサインをするとそそくさと学校から出た。この学校なんて1秒たりともいたくなかった。
家に着くとせきを切ったように、母が私に怒りグチをこぼしはじめた。「愛情不足ですって言われたわ。あんだがくよくよ言って学校行かないから、私が責められるじゃない。あんたが全部悪いのに」。
あの担任は何を母に言ったのだろう。図書館で本を借りて読んでいてよかったと胸を撫で下ろした。こういう場合、子どもが問題を起こすのは親のせいだと責められることは私の読んだ本に書いてあった。特に母親。
そう考えると典型的なパターンにはまりつつあるというわけだ。それにしても余計なこと母に言ってくれたものだと開いた口もふさがらなかった。
家の母も、わざわざ私に内緒で担任と話したことをなぜ私に言ってくるのだろう。やはり担任の察するように母が悪くはないにしても、私と母の関係はどこか異常なのかもしれない。
休学届けを提出
「今の学校退めて別の高校へ行かせてほしい」
私は父と母を前にして頼んだ。それから、取り寄せ集めた、それぞれの学校のパンフレットを広げて見せた。母は目が見えにくくて読めないし、忙しくてそんなもの読んでいられない、と主張すると、その場を離れ夕食の支度を始めた。
父は、学費が高く、金のいる学校なんて行かさんぞと言うとパンフレットを乱暴に扱った。私もあまりお金のかかる学校へ行くつもりはなかった。総合的に考えて通信制の高校が最適でそこへ行かせてほしいと父に言ったが「家にずっと居てもらってもこまる」と父は答えた。
じゃあどうすればいい? 私は間を置き考えて、「バイトする」と返事をした。
バイトをしていれば、ずっと家にいるわけにもいかないし、生まれて初めて働くという経験をするのだから、何だかわくわくした気にさえなった。
しかし、父はそんな半端な甘い考えで務まると思っているのかと言わんばかりに、「バイトはさせん」とオヤジくさく言った。
「とうして! いいじゃない。もう16なんだしバイトくらいさせてくれたって。それに今時16でバイトも経験してないなんてダサすぎる」
私は負けじと言い返した。明らかに2人とも興奮している。
「今の高校ろくすっぽ続けられもせんのに、働いて給料もらおうなんざ10年早いわ」
「なんでそんなこと言うわけ。ホントムカツク。何か始めようとしてるんだし、それがいけないことなの」
「お前みたいなのはな、どうせウェイトレスやったって皿を落として割ったりな、注文間違えたりして、人様に迷惑かけるだけだ。何やったって成功しない。お前はそういう子だ」
「そこまで言うかなぁ。それじゃあねどうしろって言うの」
めくじらを立てて聞き返すと、ある高校のパンフレットを手にしながら父は言った。
「ここ。この学校へ行け。全寮制の学校。朝から晩まで修業、修業。学費も他のどの学校より安い。お前みたいなのは、こういう自衛隊みたいな場所でしこみ直さんとな」 手に持っていたパンフレットを怒ったようにテーブルの上に叩きつけると、たばこをとりだし火をつけ吸った。もくもくと煙が部屋の中をただよっている。
沈黙を破るように、今の話を聞いていたのか母が料理の手を放し、口をはさんできた。
「そうそう、家にいてもらっても困る。通信制の高校なんか行っても行かなくっても一緒。低レベルの学校。だから全寮制の高校がマシ。そこへ行きなさい」
なんて頭がかたぶつで、古い考えをしているんだろう。また言い返したい気持ちが走ったが黙って聞いていた。
通信制の高校を父や母が安易に思いすぎではないだろうか。入学試験がないぶん楽だと思われがちだが、卒業するのが難しいと言われているのを知らないのだろうか。
家の父と母は、姉と年の離れた妹の私を生み、この年まで育てたのだからもう年輩である。「今の若い子」はと非難し現代社会に目を背け、受け入れるかどうかはともかくとして理解しあえない人たちであることは違いない。
重い空気の中、夕食をとった。その後、風呂へ入り、そのことを考えていたらいつのまにか時間が食われるように過ぎていて、のぼせてしまった。
もう、こうなったら全寮制の高校へ行くしかないだろうか。全寮制ということは、学校でも寮でも同じ友達と顔を合わせなくてはならないのだ。だから苦手なタイプの子たちとも上手くやっていかなくてはならない。
赤い顔をしほてったまま風呂から上がると、テーブルの上に広げたままになっていたパンフレットをもう一度見た。
「全日制全寮制高校普通科、ニーズに応え不登校や中退者も積極的に受け入れている。
試験は作文、面接、実技試験」
この私でも受験したら合格するだろうか。パンフレットに載せられている学校はとても美しく、学校というよりもむしろ大学のキャンパスを思わせる雰囲気が漂っている。
この写真の校舎で、この私が暮すことになるんだろうか。“随時、見学できる”と記載されている。その高校は県外であり、遠方で行くのにはそれなりの気合がいりそうだか、さらに遠く、北は北海道、南は沖縄の人たちも入学した生徒がいて全国各地から来ているふうだ。見学に、行ってみようか……。
私は思いたったら吉日の女である。私は父に連れていってほしいとせがみ、了承を得ると、もう日も暮れた夜だったがアポイントメントをとるのに、学校の事務局に電話をした。
借りて住んでいる家も取り壊している家とたいして変わりなく、窓の枠と枠がうまく噛み合わず冷たいすき間風が室内に入り込み、白い雪が溶けて水になったものがサッシをぬらしている。窓を開けているわけでもないのにカーテンがゆらりゆらり時々揺れるあり様だった。
もう、コートをはおらなければならない寒い寒い1月。私は、中学三年の受験のことを思い出した。テレビのニュースでは受験の情報はまだ流れていないが、キャスターのお姉さんが「受験勉強ラストスパート頑張ってください」と番組の終わりに励ますように言ったりしている。
子どもしだい?!
病院のカウンセリングにはまだ通わなければならなかった。今回のカウンセリングでは進路を相談するために、とりよせた学校の資料を茶色い紙袋に全てつめて持っていくことにした。前回は1人で行ったので終わりに次回は母を連れてきてほしいと医者に頼まれた。だから2人で行った。
「学校どこへ行こうか迷っている、というか検討しているんです」
そう私は言うと持参した学校のパンフレットを医者に見せた。それを目にとめると眉を上げるように動かし、口元をひきつらせるようにして顔全体の表情筋を驚きととも笑みともつかないように変動させた。
「どこへ行きたいと思っているの?」
医者は訪ねた。
「全寮制の高校です」
私がそう言うと、先ほどの顔とは逆のしぶったような表情になった。
「通信制の高校とか……ムリ?」
全寮制の学校は私には務まらないと思っているのだろうか。さまよっていた視線を医者にあわせると、聞き返すように見つめた。
医者はその無言の会話を読むことができたのか答えた。
「どの学校もメリットとデメリットがあると思う。だから僕としては、また同じ人間関係をくり返して失敗するより、通信でゆっくりした方がいいような気がします……。お母さんはどうです?」
家にいてグチをこぼしている母からは想像もつかない態度で、緊張しているのか体を縮こめ、にじむ手汗をハンカチでふきとりながら指を遊ばせている。
「本人しだいですわ。本人が望むところに行けばいいと思います」
母は小さく返事をした。私はそれを聞いて家にいる時言ったことと違うではないかと少しばかり腹を立てたが、他人の見ている前で親子ゲンカなどみっともないと思い、怒りの感情を抑さえるため、口をへの字に曲げ、両目の視線を左隅によせた。
実際はどう思っているのだろう? 母は医者の前に行くと弱った老人か小さな少女のように振るまうのだ。人からの評価を過剰に気にする性格なのだろうか。私だけでなく母も「よい子に見られたい族」なのだろうか。
医者は私の怒りを感じとったのか顔を虫眼鏡で昆虫でも観察するかのように眺めると、カルテに、素早く何か書きこんだ。
今回のカウンセリングで私の意見は全寮制の高校へ行きたいということになっていて、子どもがそう願うなら母はそれを尊重しますよ……という、家で言い争いになったことなどなかったかのように、医者に誤解されて受けとられているに違いない。
人と人との関係が円滑に進んでいない時は、他の人の関係もうまく行っておらず、その関係にも嘘があるという言葉を何かの本でよんだことだあるがその通りだ。誰ともうまくいっていない。
母と父とも学校もそして近所でもよくない私の噂が流れているだろう。私は何もかも置いていかれ、ぐらつく地面の上に取り残されてしまったマネキンのようだった。
人間に似せてつくられた人形。遠くからみるとマネキンは人間そのものだが近づくと、動くことのないポーズをとり続けて、仮面をつけたように表情も変わることがない。 ショーウィンドウで、きらびやかな服を着せられ飾られ、人々に見られるためだけにつくりだされたマネキン。流行の洋服を次から次へと着せられ脱がされて、嘆くでもなくそれは使命なのだろというふうにすましている。
私の着せられている服はどんなのだろうか。売れない服を着たまま、人前でさらされてそれでも誰もその服をとり替えてはくれない。寂しく、悲しいマネキン人形の姿。 今回のカウンセリングで得られるものはなかった。相談もあいまいだったし、なんだか冴えなかった。
病院から帰ってくると、学校のことばかり考えた。親のいうように全寮制の高校を受験してみようか。家にいる時は矛盾した発言を病院でした母に「病院の先生も通信がいいって言ってるんだし、そうしたいんだけど」と怒りの意味の口調で言った。
思えば、医者に家庭内のことについても話せばよかったのだ。親の言いなりになって医者の前でいい子ぶってなく、私は通信制の高校へ行きたいと主張しているが親がもとめていると言えばよかったのだ。
しかし母は「本人が言うようにさせてあげたい」と医者の前にいた態度とは豹変した様子をみせ、
「あんた通信なんかあほの行く学校。価値も何もないのよ。家にずっといてもらっても鬱陶しんだから全寮制にしなさい」
ときっぱりと言った。そしてつけ加えた。
「バイトなんかねぇ、あんた流されやすいんだからすぐ遊ぶようになって変な男につかまるに決まってるじゃない」
言い返そうと言葉を探したが、家にいても鬱陶しいと言われたことがショックだったのか、はねのけるだけの言葉を見つけだすことができなかった。
私の自我ブロックは弱りつつある。言い返すどころか、ひいてしまい固い殻のように閉じこもりつつあるのだ。
私は何だかむしゃくしゃした気持ちになって、ここらで一発気晴らしに出掛けることにしようと思った。何か、変えてみたい。今のままじゃ、今の私じゃ満足できない。そして実行した。