日本における家族的農業経営システムの成立(ノート)
日本における家族的農業経営システムの成立(ノート)
高校では日本史と世界史のどちらかが選択制であり、世界史を選択した私には日本史の知識は中学校時代の経過的・断片的なものです。
古代史に限らず事件や事項は、名称や年代の記憶はあっても、中身は全く知りません。
さて、宮本常一さんの『日本文化の形成』(全3巻)に、「日本文化と生活基盤」(1980年9月)という講義記録(中巻)があります。
精密な表現というより概略を述べたものです。深い洞察に基づきますが仮説のオンパレード。しかし初心者にとっては斬新なものに見えました。それらを列挙します。
●班田収授法と口分田=奈良(飛鳥)時代の律令制度
「班田収授法で土地をきちんと整理して、割換えができるようにするわけですが、その割換えをする土地、口分田を構築するのに、何によってやっただろうかというと、鉄の刃先のついた、つるはしのようなものとか鍬とか―鋤は田を耕すものですから脇におくとして―そういうものがなければ、田んぼを開くことはできないわけです。
そのようにして条里田が発達して、どれくらいの面積の割換えが行われていたかというと、『延喜式』によって見ますと、だいたい83万町歩(ヘクタール)に上っているのです。この数字は非常に大きなものだと言ってよいと思います」(214p)。
「田のつくり方がありまして、平地ですと1辺が60間(一間はほぼ1.8メートル)、つまり1町、幅が6間、つまり1反という短冊形の田んぼをつくるわけです。面積は360歩(坪)、これも1反とか1反歩といいます。それが10枚集まりますとひとつの区画ができる。それを1町歩というんですが、呼ぶときは坪といっています」(214p)。
田んぼを基礎にして、さらにその1町四方を36集める。1辺が6町になる。だいたい左の隅から数えるんですが、その1町四方を1の坪、2の坪、3の坪、4の坪、5の坪、6の坪と呼び、隣にいって7から8、9と戻っていきます。最後に36の坪となっているのが普通なんです」(215p)。
●条里制(645年の勅令)
「条里制がキチンとした形をとった所もありますけれども、谷間なんかを開いた場合には、そうキチンとできません。真ん中に大きな道を通して、両側に1枚ずつの田んぼをつくっていく。すると1町四方にならない所もある」(216p)。
●戸籍―庚午年籍((こうごねんじゃく)は670年)
「それは奈良時代の戸籍です。その戸籍を見ておりますと、郷戸と房戸が出てくるのです。郷戸を見ると、戸の家族員がだいたい50人ぐらいになっている。非常に多いのです。もともと建物は別になっていたと思います。戸主が50人をひとまとめにして、その上に乗っかっておって、家が成立していた。そういう家が何軒か集まって里をつくっていたと思うんです。
ところがその中に房戸というのが出始めます。郷戸とは何軒かの家が集まって、本家になるものが戸主になって統一していた。ところが一軒一軒が独立し始めます。独立したものが房戸なんです。これは人員を見ますと、だいたい10人から15人ぐらいになります。たとえば15人の房戸が3つあって、郷戸が成立する。
そういうことも考えられてきますが、なぜ房戸に分かれてきたかということは班田です。土地を分けてもらう単位として房戸がひとつの単位になっていった。同時に房戸が中心になって耕地整理をしていったのではないかと思うんです。郷戸では統一がつきにくいけれども、房戸ならそれができる。これはたいへん大事な問題があったと思います。
そうしますと、日本の農民というのは、鉄を使い、そういうようにして水田農業を成立させていったと考えてよかろうかと思います」(217p)。
●庚午年籍と口分田
「水田は毎年ものを作るのであって、同じものを永年にわたって作る田んぼはありません。この水田を均分する制度が日本に植えつけられたということが、実は日本の運命というもの、あるいは日本の文化というものを根本的に決めてしまったんではなかろうかと思うのです。
そのようにして口分田をつくりますと、みなに割当てをしなければならない。そのためには戸籍を作らなければいけません。人数を全部調べなければいけない。これが庚午年籍(こうごねんじゃく)という戸籍になるわけです。これができたのは天智天皇の御代(670年)です。大化の改新は孝徳天皇のときですが、実権は中大兄皇子が握っていたのですから、同じことだといってよいと思います。
このようにして戸籍ができ、それにあわせて土地の割換えができる。それらの水田は、できるだけ早く整理したほうが土地をわけてもらうときには都合がよい。
そうすると、まず割当てをもらった人たちが、整理されていない田んぼを冬の間にどんどん整理して、割当ての可能な土地に切り換えていったんではないか。それが増えていけば増えていくほど、郷戸が解体して房戸に変わっていく。そういうことが国力というか、生産力を高めることになっていったと見られるのです。
大化の改新というものは、このように理解すると、これほど、その当時国民全体をあおりたてて活気あらしめた制度はなかった。みな本気になって働いた感じがするのです」。(217p)
●口分田=日本全土の耕地面積=83万町歩(1町歩=9917.36㎡)(『倭名抄』931-938年)
「このようにして条里田のほかにいろいろな土地がつくられていた。それで一戸平均どれくらいの田んぼを耕作していたのだろうかということを『倭名抄』—承平年間(931-938)成立した最初の辞書―で見てみると、日本全国の耕地面積が出てくるのです。83万町歩という数字が出てくるのです。
それでその当時の水田を人家で割ってみると、平均して房戸1戸当たり3町歩ぐらいになるわけなんです。それで家族人員はかりに1人2反ずつもらったとして15人はいたということがわかりますね。そうすると、家族経営というのは、すでに日本では非常に古いときに成立したんだと見てよいと思います。
ところが飢饉があると米が足りなくなるから、米を政府から借り受けて、生活をたてなければならなくなります。そうでなければ多少余分も出てくる。つまり生活が安定する。安定すれば人口が増える。人口が増えると、新しく増えた人口に対して割当てができるかというと、割当てはできないわけです。というのは新しく開かなければいけないからです」(223p) ⇒農業経営は稲作中心で、家族経営が中心になった。
●三世一身の法(723年)⇒永久所有を認める(743年)=開墾地の私有(私田)が成立する。
「ところが安定してくると人口が増えるのは当然のことです。その増えていった人口がどうしたかということになりますと、政府が余分の労力を持っておれば、労力を使って新たに開墾して口分田にしていくことができましょうが、政府自体が余分の労力を持ちませんね。
それでずうっと割当てている。家々のほうでは人が増えている。それを政府が吸収して土方にして、土地を開くということはあっただろう。それがいわゆる養老7年(723)の三世一身の法と言われるもので、とにかく、余った人たちは土地を開け、そのかわり開いたら三代の間は、その土地を私有にさせてやる。私田にしてやるというわけです。
そうすると税金を納めなくていいんだから、土地を開く人たちが出てくるようになります。ところが三代経ったら取り上げる。すると、あとの人は食えなくなる。
そこでついに、その三世一身の法ができましてから20年ほど経った天平15年(743年)に、新たに開いたものは全部永久に所有を認める、という法令が出ている。ここで墾田がすべて私有され、そうしますと、もうそこまできますと、私らもこの田んぼをそのままもらっておこうじゃないかと、割換えを自然に止め始めるのです。
それで割換えが最後に終わったのは平安の終わりころになるのですが、早く止んだのは大阪平野であるとか奈良盆地であるとか、そこで止んだのは西暦の877年、元慶年間ころに止んでいます」(226-227p)。
●人口の推測
「それのできる人たちがどれくらいいたかというと、さきほど申しました83万町歩を1戸当たりの広さ3町歩で割ってみますと、20何万になります。1戸当たりが3町なら15人ですね。子ども女が入れば17~18人になりましょうか。
それをかけあわせると、当時の班田をつくっておった人たちの人数が出てくるわけですね。その人数が400何万ぐらいかになる。これは割当てを受けていた人で、割当てを受けていなかった人たちがいるはずなんです。つまり、はみ出て私墾田を経営している連中、これがおそらく100万ぐらいいたのではなかろうか。『倭名抄』の書かれたころ―平安の初期に近いころ―には500万ぐらいの人口が日本におったんではなかろうかと推定がつくのです。
そしてその中の400~450万ぐらいの人たちが、とにかく条里田をつくった経験を持ち、もとの口分田をそのまま自己の所有地にして経営していくという生産構造をもった。これはたいへん大事なことだと思うのです」(227p)。
これにより自家経営ができる。平安期の初期の日本人口を500万人ほどと推定。
*吉川洋『人口と日本経済』中公新書.3pによる。
725年.奈良時代 451万2000人
1150年.平安末期 683万7000人
1600年.慶長5年 1227万3000人
1721年.享保6年 3127万9000人
<出所は鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』からの引用>
●畑の開発=在家(ざいけ)・垣内(かいと)と園(その)
「畑はどういう人たちがつくったかというと、私墾田と同じことで、政府に年貢を出さない自分のものとしてつくったんではなかっただろうか。できたものはみな自分のものにした。それを裏付けるものがあるのです。
のちになりますが、家屋敷の周囲に畑があります。そういう屋敷畑から年貢を取らなかったんですね。江戸時代になっても年貢を取っておりません。すると決して私墾田ではないんだけれども、家についた畑から年貢を取らない。
そういうような畑を持った屋敷のことを在家(ざいけ)と言っている。在家とは耕地を家の周辺に持っておって、それを在家と言ったんです。家があって周囲に畑を持っておって、その畑を年貢の対象にしなかった。その畑は政府の管理にならないわけです。
政府の管理にならないというと、その畑にあるものは、誰が穫ってもいいということになりましょう。そうすると「これはわしのものだ」という囲い込みをしなければいけませんね。理由はそれだけではありませんが、囲い込みをするために、畑の外側に垣をした。それを垣内(かいと)と言っている。
垣内というのは私有を表す言葉だったようです。垣内という言葉が記録に出てくるのは1000年ほど前です。垣内の中に柿の木があったとか何とか、作っているものが出てきます。するとこの柿の木はわしのものだということを意志表示するために、外側に持っていって垣を植えた。で、垣の内はわしのものだ、ほかのものは入ってはいけないということです。もうひとつは野獣が多かったからそれを防ぐために垣が作られた。畑はそのようにして発達していったもののようです。
このようにして日本における畑は、水田の付属物として広がっていったと思うんです。ただし京都のような町では水田よりも畑が大事だったはずなんです。それは野菜なんかを作らなければいけない。
そういう畑のことを園(その)と言ったようです。『延喜式』を見ますと園というのがたくさん出てまいります。また園で使う肥料のことも出てきます。馬糞を使って畑で野菜を作ったり、果物を作ったりしていた」(228-229p)。
●地頭(警察権と徴税の役割)=鎌倉時代の農地開墾
「日本の場合に、大土地経営がどうして発達していったかと申しますと、未墾の地を開いていくかたちをとるわけです。
未墾の土地を開いて、その上に乗っかるんですが、その場合に、その土地を開くのに多くの人を連れ込んで、奴隷のようにして使ってその人たちに開かせる。これは手作ですね。そして自分がそれを経営する、そういういき方と―それは少なかったようですー今度は連れていった人たちに、それぞれの土地を経営させる。
広い土地を持つのだけれども、経営は一人一人が別の個体としてやっていく。家族経営的な経営をやっていく。それは、その前の班田収授法の名残りで、口分田を家族経営していくかたち、それに準じたものだと思われます。その一番いい例が次の時代の鎌倉時代に見られるわけなんです。
鎌倉時代は、とくに武士たちが各地方に落ち着いて、しだいに大きな勢力を占めるようになってきて、新しい時代をつくるようになってくるのですが、それはどのようにしてそういうかたちをとったか。
鎌倉から地頭が下がってきます。その地頭は、辺りの荘園、公領の警察権を握って税を取り立てる仕事をするわけです。そして地頭そのものには土地は与えられないで、その年貢を取り立てるときに、1反について米5升を追加して取り立てる。その5升分が自分のものになる。それを加徴と言ったんです。
加徴取り立てによって生活をたてる。しかし自分の土地ではないわけなんです。その加徴を取り立てた米で家来を養わなければいけない。家来を養うということはたいへん難しいことなんです。加徴米がよけいに取れる所はいいけれども、よけい取れない所へ10人も20人も家来を連れていったら、主人のほうが生活に困ってしまいます。
そこで、その家来に、未墾の土地を与えるのです。そして家来たちは開いた土地を自分のものにして住むわけです」(234-235p)。
●名田(みょうでん)開発
「このようにして武士が地頭として派遣せられる。すると地頭は自分の手下を養わなければならないから、未墾の土地を与えて開かせ、それで生活を安定させるというわけです。名田はそのようにして発達していったと見てよいと思うんです。
その場合に、地頭は大将として5人なり10人なり人を連れていったんですから、ひとつの場所に土地を固めて、それをそのまま開かせたら、農園ができはしないかということになりますね。
ところが今言ったように割当てられた土地というのは、あちこちに点々と散っておりますね。その主人は一人であり、その下についている侍たちは人数は多いんですから、それがひとつの共同経営になりそうに思えますが、土地がばらばらだったら、やはり個人経営ですね。家族経営になりますね。
これに対して家族経営にならなかった例はどういうのかというと、力のある者は条件のいい所に家を建てます。そしてそこになお開くべき余地があり、谷があり、そこをだんだん開きそえていって大きくなってくる。そのときにはおそらく日本にも農園的経営があったんだろうと思うんです」(237p)。
●鎌倉時代の貨幣経済の成長と税制度
「お金が入ってきますと市が成立します。ものを交換します。貨幣を通じて交換するわけです。さらに宋の次の元になりますが、…今度は明の時代のお金がまたすごいほど日本へ入ってきます。そのようにして市場が発達すれば、こういう長者の経営というのは必要なくなりましょう。むしろそれがほぼバラバラな経営になっていって、市場と結びつくほうが有利になります。
そういうふうにして見てくると、奴隷制を持たなかった国・社会では、家族経営というのは、ひとつの単位にならざるを得なかったのだということがわかってきます。そしてかりに大経営があったとしても、大経営は単に農業の大経営ではなくて、それ以外のものを抱え込んだ経営であった。それが実は市場と同じような役割を果たしたのだ。そう見てよいのではなかろうかと思うのです。
このように、日本という国は、実に不思議なシステムを持って発達していったわけです。それでは、どうしてそういうものが、日本の場合にずうっと維持されたのだろうかということです。これについてもうひとつ別の理由がある。
それは税の取り立て方と税の使い方に問題があったのだと思うのです。古い時期に、つまり律令国家のときに税を取り立てますね。そうしますと、田んぼから取り立てた税というのは全部国府の倉に納めた。中央まで持っていかなかったのです。
中央まで持っていったものは国が貸しつけた米の利子に当たる米なのです。つまり国の倉に納まっている余分な米は、食うのに困ったときにそれを貸しつけるわけです。いわゆる出挙稲(すいことう)ですね。それを貸しつけ、それに対して利子を取る。その利子が都へ運ばれるわけなのです。税は運ばない。この出挙の量は知れているわけなのです。そう多くはない。つまり都に住んでいる人たちが生活できるものくらい運んだのでしょう。
それ以外は、ご承知のように庸とか調です」(242-243p)。
*鎌倉府租法
「荘園(私墾田開発令が西暦723年以降)=藤原(道長996年)が諸国に多くの荘園領、平家(清盛1167年)が荘園500余か所全国半領、頼朝(幕府1186年)没収、承久乱(1221年)で京方3000余か所庄公没収、貞永式目(1232年)で鎌倉府確立」(山田盛太郎『日本資本主義分析』(岩波文庫の付録.1977、266p)
*太閤検地(16世紀)「1反=360歩」を「1反=300歩」に改める。
●農業基本法(1955年)水田が一番広かったころ=337万ha(休耕地はほとんどない)
「現在の水田の面積は、昭和30年ごろが日本で一番広かったときで、昭和33年は337万ヘクタールだったんです。
そうすると奈良の終わり、平安の初めごろに、83万町歩の水田が開かれていたということは、だいたい水田の4分の1は1000年前に開かれていたということになる。たいへんな開け方だったと見てよいと思います。
昭和40年以降、日本では政府が大きな資金を出しまして基盤整備をやりました。だいたい大阪から東の水田は1枚が3反、30アールぐらいの大きさになってきて、機械が入るようになり、東日本ですと小型トラクターが入って、百姓がトラクターに乗って田んぼを耕している。そのあとイネを植えるのだって、苗植機でやって、女が腰を曲げてやることはなくなっておりますね。西日本はまだ基盤整備がほとんど行われていないから、田植えが行われております。近江から東の辺りは苗植機を使うまでになってきているのです。
政府のねらったことは農業の共同化ですね。ひとつの水田の農園化をはかったわけです。そういうようにすれば水田の経営が農園化するだろう。つまり経営面積が10ヘクタール以上になれば政府としては農園として認める。そういう農園経営に切り換える。すると全国平均が1ヘクタール足らずだから、かりに10軒の家が組んで、水田を耕すようになれば、うんと労力を省くことができるし、それから資本の過剰投資がなくなるということでそれをやった。
ところが現実にはどこの家もトラクターを買うんだけれども、共同経営はやらないんです。一番不思議なことは、理想的なかたちとして八郎潟を埋めてパイロット事業として、とにかく単位100ヘクタールぐらいの農園にしようとしたんです。そうしたら、「わしらあそこに行きません」と、入り手が一人もなかった。一軒一軒に分けるといったら400何ぼ入った。
つまり日本という国が国家らしく成立したときに、班田収授法をとって、土地を小さく分けて家族経営にするというシステムをとった。それで初めてみなが平等という意識をしっかりと身につけて、経営するようになってきた。それが今日まで根深く生きていて、それから、これほど文化が進んできても、一歩も抜け出すことができないんです」(232-233p)。
●総括
八郎潟の埋め立て=農業の共同化を図ったが、各農家はトラクターを買うけれども共同経営にはすすまなかった。各個に分けたら入植者の応募に入った。
これは古代の班田収受法以来つくられてきた家族的農業経営システムが根深く生きていて抜け出すことはなかった(233p)。