石井正宏
石井正宏
「オジサンの質」が低すぎる~「変な大人」の出番
レインボーフラッグの前でGソンTシャツ着て陽気に語る変な大人
■要するに、『おじさんの質』が低すぎる
僕は毎週いろんな「地方」に行って、ひきこもりや子どもの貧困問題や不登校支援スーパーバイズなどを行なうのだが、その一環で、この前某自治体の女性職員たちと話していた時、こんな一言が出た。
「要するに、『おじさんの質』が低すぎるんですよね」
直接的には、地方自治体にいまだエラソーに残存している管理職オヤジたちのことを指している。
男性ジェンダーの有力性を背景にしたエラソーな物言いや態度やしゃべり方は当然として、それら古典的ジェンダー権力が、たとえば不登校問題であれば、行政機関のネットワークづくりといった古くて新しい問題をストップし続けている。
たとえば、NPO的民間支援機関と上手に付き合っていくことも表面的にはできるのだが、おじさん的権力性が、「問題のもつ根源性」への直視をストップする。
問題のもつ根源性とは、
「学校はそもそも必要なのか」
「いまの教師という職業にどれだけの意味があるのか」
「大学は今の数が本当に必要なのか」
等々の、戦後70年、明治維新(近代化)150年がたち、不登校に象徴される「教育の制度疲労」について現れてきている諸テーマだ。
当欄でも度々触れているとおり、もはや「下請け」化し劣化したNPOにはそれら根源的問題を考える力はなく(代わりに、学校補完的安易な「トーク」授業や自分たちに有利な評価指標を提案したり、困難な貧困支援には目を背け容易な地域コミュニティづくりに進む)、他の力によって150年制度疲労を議論する時が来ている。
が、それを「おじさん」たちが阻む。
それが冒頭の女性職員たちの言う「オジサンの質が低すぎる」という言葉の意味の1つだ。
■変な大人
徹底的に質の低いオジサンたちの特徴は、昨今の中央や地方自治体トップによるセクハラ・性事件にも現れている。
現在メディアを賑わす細かい取材論(オフレコとは何か等)は二次的な問題であり、最大の問題は、これまでは圧倒的存在感によって免除されてきた低いオジサンの質が、これまでのような(あえて例に出すとたとえば田中角栄のような)圧倒的存在感がなくなったことによってその質の低さばかりが浮かび上がっている現状だ。
僕は何事もポジティブに考えるので、こんな今こそ、「変な大人」の出番ではないかと思っている。
変な大人とは、既存の価値観や制度から多少逸脱しつつなんとか今の世界と折り合いをつけながら生きている大人たちのことだ。
こんな大人たちが、現状の価値から逸脱した不登校やひきこもりをなぜか癒やす(変な大人については、僕のだいぶ前の個人ブログなどを参照→癒しのパンダ~究極の「変な大人」)。
そんな変な大人たちは、傷ついた子ども若者たちを一生癒やすわけでもなく、出会って数年たつと子ども若者のほうから離れていく。
現在の価値から逸脱し続ける変な大人に微妙に距離を置き、自分がいったん離れた世界へと戻っていく。
これが10代であれば「学校復帰」になるし、20代以上であれば「ひきこもりからの回復」になる。
それは喜ばしいことで、変な大人(たとえば僕)からすれば、次々と傷ついた子ども若者と出会うから、喜んでその旅立ちを見送る。
■見事に要約
変な大人はもちろん僕だけではなく、たとえば高校内居場所カフェのひとつである神奈川県立田奈高校「ぴっかりカフェ」を運営するNPOパノラマ代表の石井正宏さんなんかもその一人だ。
ここではいちいち具体名をあげないが、全国に散らばりつつも変な大人は、そのロックなコンセプトと価値観で、傷ついた子ども若者を癒やしている。
規模的には、ソーシャルベンチャーでおしゃれで体制補完的で「オジサン」予備軍なNPOたちには圧倒的に負けている。
が、「変」とはそんなもの。変を貫き通すと、どうしても少数派になってしまう。
そんなわけで、質の低いオジサン予備軍は、「社会変革」を担うと自負する団塊ジュニアやソーシャルベンチャーにもたくさんいることは残念ながら事実だ。
日本のいまの問題は何も霞が関や某自治体や某メディアだけではなく、今でもこれからも半永久的に続きそうな勢いだ。
それを、 「『おじさんの質』が低すぎるんですよね」 という一言は見事に要約している。
〔2018年4/24(火)田中俊英 一般社団法人officeドーナツトーク代表〕