GIGAスクール構想
GIGAスクール構想
子どものいのちは輝いているか? 教育の変わり目に感じたこと
全国の義務教育の児童や生徒97.6%の手元に、1人1台のタブレットやパソコンなどの端末が届いた。
この4月から、文部科学省による「GIGAスクール構想」が本格的にスタートしたからだ。
GIGAスクール構想とは、オンライン化による双方向の学習や、AIを使って基礎的な学力を高めるなど学習の個別最適化を目指すもの。
校内の通信ネットワークを整備し端末を使うことで、日本の教育は大きく変わりはじめている。
10年ぶりに改訂された新しい学習指導要領が施行スタートし、新型コロナウイルス感染症による一斉休校が重なったことで、当初、2018年から5年をかけて整備することが目標とされていたGIGAスクール構想が大幅に前倒しされることになった。
それらの大きな変化がきっかけとなり、これまで覆い隠されていた教育現場の問題が表面化するようになった。
教員の働き方改革、校則の見直しも少しずつ動き始めている。
誰1人として「公教育」から取り残さない
世界中が未知の感染症による不安に包まれ、学校が突然一斉休校になった昨年の春、子どもたちは居場所を失った。
そして、大人たちは「学校とは何か」「教育とは何か」という問いを投げかけられた。
親でもあり、教育問題についての取材に携わる筆者も、あらためてその問いに向かわざるを得なかった。
学校も混乱していた。
オンラインがまだ整備されていない多くの地域で、苦肉の策として配布された大量のプリントや家で過ごすための時間割に、追い詰められた子どもや保護者も多い。
保護者が仕事を休めなければ、家庭では子どもだけで過ごすことになる。
リモートワークだとしても、仕事をしながら子どもに新しい学習内容を教えることは難しかった。
子どもたちの学習環境にも多くの制限がかかるなか、まず学習塾や家庭教師などの教育産業や私立の学校でオンラインへの切り替えがいち早く進んだ。
一方、公立の小中学校は、すでに整備が進んでいた地域から徐々にオンラインの利用や動画配信なども始まったものの、一時的に地域や学校により格差は広がった。
各市区町村の教育委員会は、学校のWi-Fi環境を改善して、タブレットなどの端末の配備を進め、環境の整っていない家庭へのサポートにもできる限り奔走してきた。
そこからこぼれ落ちた子どもたちに対しても、NPO団体などが手を差し伸べ、全力を尽くした。
前述のように新しい学習指導要領も動き出し、公教育は、この1年間でこれまでにないスピードで大きく変わり始めている。
そのこと自体には大きな期待を持ちながらも、ずっと何かが引っかかっていた。
以前から、病気や体調の問題で学校に通えない子ども、発達障害などにより通常の教室でみんなと同じペースでは学べない子ども、さまざまな理由で学校に通っていない子どもたちがいた。
東日本大震災を始め、さまざまな災害で被害を受けた子どもたち、貧困に苦しむ子どもたちや虐待を受けている子どもたち、罪を犯した少年たち──。
すべての子どもたちは未来を生き、社会を構成する大人になる。
誰1人として「公教育」から取り残してはならないはずだ。
マイノリティである子どもたちの存在は、これまでどのように捉えられてきたのか。
マジョリティが効率よく学ぶために、マイノリティの子どもたちが直面する問題は後回しにされ、それぞれの現場で支援する人たちに一任されてきたのではなかったか。
しかし今回、予期せぬ感染症により、その構図が大きく転換しようとしている。
学びの本質を捉え直す
「学びの本質」を捉え直すことが必要
オンラインを利用しての授業、タブレットやパソコンなど端末の導入、AIの利用などにより、利便性は今後も高まっていくだろう。
子どもたちの学びの方法や手段は個別最適化を目指しており、選択肢は大きく広がるはずだ。
環境や手段が整えば、これまで学校に来ることが難しかった子どもたちは遠隔で授業に参加できるようになり、教科書やノートでは学ぶことが難しかった子どもたちはタブレット操作によって学びやすくなるだろう。
身体的なハンディキャップも乗り越えられるようになり、障害のある者と障害のない者が共に学ぶインクルーシブ教育に近づいていくのではないかという期待は高まる。
少数派の子どもたちの支援の現場には、以前から1人1人のニーズにあった学びが必要だった。
入院している子も、障害のある子も、学校に通っていない子も、1人1人の状況は一律ではない。
必要な環境もサポートも、学びのスピードも、誰1人同じではない。
そこには学びの本質が鮮明に立ち上がってくる。
子どもたちのいのちの躍動ともいえる学びへ向かう思いに触れ、それぞれの試行錯誤のなかで非常に先駆的な教育にたどり着いてきた事例も多い。
その子にかかわる教員や医療関係者、支援する人や家族などが、目の前の子どもをよく観察し、その子を人として尊重し、時には本人と話し合い、子どものニーズやその意欲をしっかりと捉えながら、その子なりの学び方やその内容、環境などについて、手づくりで創意工夫をしてきた。
その際の子どもたちへの視線や姿勢は、実はすべての子どもたちにとって必要なものだ。
新しい道具に振り回されることなく、子どもが主体となってタブレットを使いこなすためにも、いまこそ、マイノリティとされてきた子どもの思いや、彼らにかかわるすべての大人たちがこれまで取り組んできた姿勢から「学びの本質」を捉え直すことが必要だ。
人間は本来「学びたい」生き物だ。
環境が整わない子どもたちも、時にはいのちがかかった現場でも、自らの「学びを止めない」ことを望んでいる。
「学びたい」という思いは「成長したい」「生きたい」と同義なのかもしれない。
私たちは果たして、子どもたちのそこまでの思いに触れたことがあるだろうか。
大人である私たちは、それほどの渇望を「学び」に対して抱いたことがあるだろうか。
その思いに触れる前に、過剰なまでに子どもたちを追い立ててはいなかったか。
教育産業は、子どもが生まれた直後から親たちの不安を煽り、感じ、考える機会を奪ってはいなかっただろうか。
実際には、マジョリティである「ふつう」とされる子どもたちをみても、1人として同じ人間はいない。
それぞれが違う特性を持っているマイノリティである。
「ふつう」と呼ばれる子どもたちも、もしかしたら、さまざまな葛藤を抱えながら、我慢してみんなに合わせることができているだけなのかもしれない。
それは、私たち大人にも言えることだ。
私たちができること
連続講座を通して見えてきたもの
新しい社会をつくっていくのは、未来を生きる子どもたちだ。
私たちが、子どもたちの親として、先を生きてきた大人として、できることは何だろうか。
この連続講座を通して、これからの教育において外してはならない大切なポイントが見えてきた。
まず1つ目は、一方的に教えるのではなく、子どもが「学びたい」という思いを持てるように目の前の子どもの姿をしっかりと見ること。
もし子どもが学びへの意欲を失っているとしたら、自ら学びに向かうことができる安全で安心な環境を物理的、心理的に整えるところからはじめたい
(災害や不登校 日常が壊れたとき、「学び」とどう向き合うか)。
そして2つ目に、「ねばならない」から解放され、遊びや暮らしのなかから主体的に自由に、そして楽しみながら学ぶ時間を子どもたちに確保すること。
多世代の多様な人たちの集まる場所で失敗をおおらかに受け止めてもらいながら、たくさんの出会いを体験する機会を増やしたい(子どもたちにとってのサードプレイス。
自宅と学校以外の「居場所」が果たす役割)。
3つ目に、自分自身を知り、困難があればそれを表現し、それぞれの違いを互いに認め合う場を確保すること。
子どもにとって、そうしたことを自由にできるコミュニティがあるか、子ども自身が本当に興味を持ち学びたいことを応援できているかを問い続けたい
(遅れをとる日本の「インクルーシブ教育」。その本質を見つめ直す)。
そして最後に、学校の教室を実際の社会や世界につなげること。
大人である私たち自身が、どんな社会で生きていきたいか、どんな社会に変えていきたいかを考えることなしに、子どもによい教育を与えることはできない
(子どもたちは何のために「学校」で学ぶのか? 学びの本質を問う)。
「学び」は子どもたちだけのものではない。「なぜ人間は学ぶのか」を問うことは、「人間とは何か」を問うことに他ならない。
歴史を紐解いてみても、新しい文化や便利な道具を手に入れたとき、それをどう使うかという姿勢が常に問われてきた。
オンラインやタブレットを教育に導入するこの過渡期に、最新技術を「国家や企業を支える人材を育てるために」使うのか、「1人1人のいのちを輝かせるために」使うのかは、私たちに与えられた大きな問いでもある。
教育のあり方は、国や企業のあり方、人間のあり方につながっている。世界はどこに向かうのか。
未来をつくる教育、目指す社会について、1人1人が自分ごととして根源的に見直すべき地点に、私たちは立たされている。
世界はいま、個人にとっての本当の幸せを捉え直し、互いに困った時には助け合うことができる社会へ転換しようとしている。
持続可能な世界を目指して、さまざま分野の研究者たちが、根源的なものは何か、本当に大切なことは何かを問いはじめている。
停滞せざるを得なかったこの時期を「社会を転換するチャンス」として捉え、新しいマインドに組み替えられるかどうかは、私たち1人1人の行動にかかっているのだ。
連載:教育革命の最前線から
〔2021年4/23(金) Forbes JAPAN 太田美由紀〕