社会保険労務士
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ページ名 社会保険労務士 (発達障害のニュース、)
50歳で「社会保険労務士」合格した発達障害男性~昨年ADHDと診断されて勉強法を徹底的に変えた
苦楽を共にしたテキスト。
ミツルさんは「年金や労働関連の法律はよく改正されるので、これからも勉強は続けなければなりません」と話す
(写真:ミツルさん提供)
今回は、ADHD(注意欠陥・多動性障害、発達障害のひとつ)と診断された人の“成功体験”を紹介したい。
昨年、10回目の挑戦で、社会保険労務士の試験に合格したミツルさん(仮名、50歳)だ。
10回目の挑戦でようやく手にした社会保険労務士の合格証書
■難関試験に合格も、周囲の反応は…
社会保険労務士は合格率6~7%ともいわれる難関資格である。
取材の際、まず「おめでとうございます」と伝えた。
すると、ミツルさんは丁寧に「ありがとうございます」と応じた。
ただ、その後の話ぶりは意外なほど冷静だった。
「確かに社会保険労務士になるパスポートは手に入れました。
でも合格することが目標ではありませんから」
発達障害と診断された人の中には、いろいろな会社に勤めても、ケアレスミスが多かったり、人間関係がうまく築けなかったりして解雇や雇い止めにされる人も少なくない。
そして転職するたびに困窮度が増していく。ミツルさんもそうだった。
組織の中でうまく立ち回れなかった自分が、社会保険労務士としてやっていけるのか――。
そうした疑問や不安を抱いているのはミツルさんだけではないという。
「両親に合格を伝えたときは、『お前が本当にADHDなら、社会保険労務士なんて受かるはずがない』『やっぱり甘えていただけだ』と言われました。
離婚した元妻には今も養育費を払っているのですが、『頼むから、独立して開業なんてやめてくれ』と言われています」
ミツルさんの周囲はお祝いムードからは程遠いのだという。
ミツルさんの半生とはどのようなものだったのだろう。
ミツルさんはある地方都市でそば店を営む両親のもとに生まれた。
小学生のころから宿題や教科書をたびたび忘れたり、物をよくなくしたりする子どもだった。
授業に集中することができず、隣の子どもに話しかけては先生から怒られた記憶がある。
小学6年生のときの担任が両親に対して「とても私の手には負えない。転校を考えてみてもらえないか」と相談していたことを、後になって伝え聞いた。
母親も「これほど手のかかる子は見たことがない」とお手上げ状態。
父親は和食料理人として修業した経験を持つ苦労人でもあったことから、ミツルさんに対する評価は母親以上に厳しかったという。
このため、中学からは東海地方にある全寮制の中高一貫校に入学させられた。
当時は超スパルタ教育を行う私立学校として知られ、後に教師や生徒によるリンチや事故死などが起きていたことも明らかになった。
「実際、軍隊のような生活でした。
冬の朝4時から裸足で雑巾がけをさせられたり、トイレを素手で磨いたりさせられました」とミツルさん。
高校に上がるときに両親に地元に戻りたいと懇願したが、「お前が普通じゃないから、わざわざお金を出してこの学校に入れたんだ」と却下された。
ミツルさんは「普通ってなんだよと、子ども心に傷つきました」と振り返る。
在学中の6年間、大勢の同級生が脱走したり、退学したりしていった。
“脱走者”が捕まると、連座制として生徒全員が罰を受けた。
ミツルさんは「周りに迷惑をかけるのが嫌で一度も脱走はしなかった」と言う。
入学時約100人いた同級生のうち、高校を卒業したのはミツルさんを含め10人ほどだった。
一方でよくも悪くも規律正しい生活の中で、ミツルさんの成績は伸びた。
このため高校卒業後は、東京の私立大学の医学部に進学。
実家では親類も含めてミツルさんの“快挙”をたいそう喜んでくれたという。
■「普通のこと」ができない
ところが入学後は、タガが外れたようにパチンコ通いがやめられなくなった
。恐怖によって強いられた“規則正しい生活”は結局ミツルさんの身に付いてはいなかったのだ。
慣れない東京での1人暮らしの中、自身を制御することができず、結局3年で放校処分に。
親族からは「お前のために2000万円は費やしたのに、なんてざまだ」と責められた。
その後、別の私立大学に進学し、卒業後は地元の金融機関に就職。
しかし、ここでは計算ミスや書類の不備をたびたび指摘された。
銀行員としては致命的である。
2年ほどでATMの保守点検をする担当に異動。ほどなくして自ら退職したという。
30歳を過ぎてから実家のそば店を手伝ったものの、ここでも摩擦は絶えなかった。
店は地元では有名な人気店で、食事時には行列ができた。
「お店が混んでくると、混乱して段取りがわからなくなるんです」とミツルさん。
例えば、温かいそばと冷たいそばを同時に出すときは、温かいそばが伸びないように冷たいそばから作るとか、「遅い」と文句を言ってくる客には先に食事を提供してでもさっさと店から出ていってもらうとか――。
父親に言わせると「みんなが普通にできること」や「いちいち説明しなくても、見ればわかること」がミツルさんにはできなかった。
父親から怒鳴られない日はなく、結局、ミツルさんは厨房で製麺だけを担当するように。
父親は10年ほど前、ミツルさんに店を譲ることなく、のれんをたたんだ。
最後まで店の命ともいえる「かえし」の作り方を教えてくれることはなかったという。
当時、ミツルさんは結婚していた。母親の知人による紹介の「見合い結婚のようなものでした」という。
父親が店をやめて失業状態となったとき、子どもも2人いた。
家族を養うために懸命に仕事を探したものの、すでに40歳を過ぎており、働き口は非正規雇用ばかり。
うどん店や小売店、配達ドライバーなどの仕事を転々としたが、月給はいずれも20万円ほどだった。
専業主婦の妻とは、ミツルさんの稼ぎが少ないことや、子育ての分担をめぐり言い争いが絶えなかった。
ミツルさんはすでに社会保険労務士の試験勉強を始めており、帰宅後はすぐに机に向かいたかったが、妻からは子どもの面倒もみるよう求められたという。
「毎日怒鳴り合いのケンカでした。妻も疲れていたとは思います。
でも、私も家族がいたからこそがんばって資格を取ろうと決めたのに……。
妻にしてみたら、地元の有名店の跡取り息子と結婚したはずなのに、気がついたら夫は月給20万円の非正規社員。
向こうにしてみたら期待外れだったのかもしれませんね」
■離婚後も毎年受験、ADHDの診断が転機に
ミツルさんはその後、妻の希望にこたえるため、会社を経営する知人に頼み込み、正社員として採用してもらった。
しかし、ここでもケアレスミスを連発。
しばらくして社長から「将来、社会保険労務士になるということは、うちで長く働くつもりはないのだから」という理不尽な理由で25万円の月給を20万円に減らされてしまった。
さらに悪いことに、そのころ妻との離婚が決定。
月給25万円を基に算出した養育費5万5000円を毎月支払うと約束したばかりだった。
現在まで養育費は一度も欠かすことなく払い続けている。
しかし、「子どもが父親を怖がっている」という理由で、離婚してから5年間、一度も面会を許されていないという。
離婚後はそれまで住んでいた公営住宅に妻と子どもを残し、ミツルさんが賃貸アパートに移った。
給与カットに養育費の支払い、家賃負担――。
急激な負担増に、食費に事欠くこともあったという。
この間も社会保険労務士の試験は毎年受け続けた。
自己採点によると1点差で落ちた年もあり、そんなときはしばらく何も手につかないほど落ち込んだ。
八方ふさがりの状況の中、転機が訪れたのは昨年はじめ。
会社の同僚から「発達障害だと思うから、一度病院に行ったほうがよい」と勧められたのだ。
精神科を受診したところ、昨年春ごろにADHDと診断された。
ミツルさんは「視界が開けた気がしました。
今まではただの性分だと諦めていたことが、障害が原因だとわかったんです。
手品の種明かしをされたようでした。
不思議なことに原因がわかると、パチンコ通いも途端に興味がなくなったんですよね」と話す。
診断後、勉強方法を徹底的に変えた。
漠然と「時間があるときに勉強する」ではなく、出勤前に2時間、帰宅後に3時間、平日は計5時間は必ず勉強の時間を捻出すると決めた。
集中力が落ちてきたと感じたら、近所のファストフード店などに場所を変えるようにした。
自分が計画どおりに物事を進められなかったり、集中力が保てなかったりするのは、障害が原因だという前提で、それまでのやり方を改めたのだ。
ミツルさんは社会保険労務士を目指した理由を次のように説明する。
「人々の生活に密接に関わる仕事だからです。
例えば、父のそば店では私を含めて従業員全員が社会保障に未加入でしたが、そうした問題のある会社を少しでも減らしたい。
それから、障害者雇用助成金の正しい使い方を知ってもらうことで、障害者の働く機会も増やしたい。
制度について知識がないばかりに将来困る人を少しでも減らせる、社会に貢献できる仕事だと思ったんです」
■診断をゴールではなく「きっかけ」に
ミツルさんは終始、落ち着いた話しぶりだった。
ただ、昨年11月6日の合格発表の日は、時間ぴったりに厚生労働省のホームページにアクセス。
自分の番号を見つけたときは、「よっしゃ!」と声を上げ、ガッツポーズをしたという。
ミツルさんは今年秋の開業を目指している。幸か不幸か、現在勤めている知人の会社はつい最近解雇された。
取材中、ミツルさんは自分に言い聞かせるように「大変なのはこれからだと思っています」と繰り返した。
たしかに会社員であれば解雇や雇い止めには労働関連法が一定のハードルを設けている。
しかし、個人事業主である社会保険労務士は通告ひとつで契約解除される。
一方でこれは持論だが、発達障害と判明した人が診断をただの「ゴール」とするのか、それともミツルさんにように今後のための「きっかけ」とするのかで、人生のあり方は大きく違ってくる。
それに本来制度を利用できる人が利用できていない行政の不作為ともいえる隙間は確かに存在する。
そこには発達障害当事者、非正規雇用経験者でもあるミツルさんのような専門家の需要もまたあるのではないか。
50歳の新人社会保険労務士へのエールとしたい。
本連載「ボクらは『貧困強制社会』を生きている」では生活苦でお悩みの男性の方からの情報・相談をお待ちしております(詳細は個別に取材させていただきます)。
藤田 和恵 :ジャーナリスト
〔2021年2/5(金) 東洋経済オンライン〕