Center:2003年2月ー引きこもり期の発見
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Center:2003年2月―引きこもり期の発見
(1)必ずしも否定的に考えなくてよい
引きこもりを、人間の成長発達の過程に位置づけるとどうなるのでしょうか。
成長発達過程の停滞、中断あるいは後退さらには逸脱とみる意見があります。
それらを一様に排除するわけにはいきません。
言葉の表現はともかく(停滞、中断、後退、逸脱という言葉は使っていませんが)、感情、感覚としてはそこを心配し、相談に来る人が多いように思います。
一方、引きこもり経験者であって、現在はある程度元気になったり、仕事に就いている人たちには「引きこもりという時期があったから、現在の自分がいる。自分にとっての引きこもりの時期は貴重な意味があった」と、より直接的な言葉で、これを肯定する人がいます。
しかしまた、引きこもり経験者のなかには、より多くの人がそれを肯定的に考えているとはいえず、むしろ否定的にみています。
というよりは、その引きこもりを経験した自分の現在をも否定的なものとみています。
おそらく引きこもり経験者で、それを否定的に見ている(あるいは否定的に考えざるをえない)人は、そのこと自体が現状から前に進みにくくなっている精神状態なのでしょう。
現在の自分を受け入れる、現在の自分から出発するという気持ちとは少し違っているのでしょう。
引きこもりとは、人間の成長発達の面からみて、積極的な面があると私は考えます。
しかしとくにそれが長期化した時には、長期の引きこもり自体が一つの原因となって、人間としての成長発達にマイナスの作用を及ぼすと考えています。
とくに家族以外の対人関係が長期にわたって途切れると、精神生活(より平たくいえば心の発達)に支障をきたすのではないかと考えます。
(2)引きこもりの3つの背景
まず引きこもりには、一般的に人間の成長発達にとって肯定的な役割があることを認めなくてはなりません。
それは子どもにとっての成長発達過程を形づくる家族との関係、友達との関係、場合によっては教師など家族以外の大人との関係を変えようとする表現(おそらく無意識の)であると思います。
私はこれまで引きこもりの背景を大きく3つに分けて説明してきました。
第一が、虐待や長期的な集団からのいじめによるものです。
この履歴のある人のある割合は病的な症状を示します。
しかし、医療機関ではない私たちの不登校情報センターに関わっている人たちのなかでは、きわめて少数です。
第二が、叱咤激励型による親のマインドコントロール指向による、子どもの自然な成長の妨害と思える子育てによるものです。
親はそれを熱心で責任のある子育てとして善意でやっているだけに、子どもの力でその流れを止めるのは容易ではありません。
このタイプの子育て環境に応ずることができ、成長した子どもの特色は、自己否定感がきわめて深くなっていることです。
第三が、過剰な愛情か過干渉による子育てによるものです。
これまた親の善意あふれるものであり、子どもの力でその流れを変えることはとてもできそうにありません。
失敗させてもらえない、危険にふれることのない、いわば枠組みがきめられたなかで成長することになります。
この過程で成長した子どもは受け身人間になりやすいと思います。
失敗しない最良の道とは、無行動です。
この人たちは、失敗に弱い人間、失敗したときに対応のしかたのわかりづらい人になります。
危険を避け続けていた人たちは危険に弱い人間、危険が迫ったときにうまくさけられない人間になります。
このことが、行動するのを困難にしている面もあります。
そして、この第二、第三の子育ての結果は往々にして重なり、自己否定感が強くてしかも受け身というのが、引きこもりの人のなかにかなり多くみられるのです。
引きこもり経験者を私の感覚で表現すれば、このように描くことができます。
引きこもりの時期というのは、この子育ての環境の継続を、子どもの側から(無意識・無自覚のうちに)断ち切ろうとしたものではないかと思います。
(3)引きこもりは反抗期の亜種
ここで初めの提示に戻って考えましょう。
引きこもりを人間の成長発達の過程からみると、どう位置づけることができるのか。
それは成長発達の停滞、中断、後退、逸脱なのでしょうか?
上の(2)の説明との整合性から考えると、これらの位置づけはうまく事態を表わしていません。
ここで引きこもり期というのを設定してみようと思います。
この言葉(引きこもり期)は20代に十年の引きこもりをした人が案出したものです。
私はそれを借用し、意味づけようとするのです。
それは、思春期、反抗期と並ぶ用語として引きこもり期があることを前提としています。
それに関係させて事態を把握しようとする試みです。
人間の成長発達の過程に、この引きこもり期を当てはめると、私にはそれは反抗期の亜種、特別の形のように思えます。
反抗期という形ではなく引きこもり期を通して自立へ向かう道筋がありうると考えたのです。
その特質を列挙してみましょう。
その特質の第一は、以上に述べてきたことを要約するものです。
自分らしさ、肯定感がつかめないなかでの成長過程をふんだ人に表れやすいものです。
通常の成長であれば、思春期・反抗期としてあらわれる自立の時期に、引きこもりとしてたどる方法を選ぶしかなかったということでしょう。
特質の第二は、反抗期の人よりは年齢的には同時か遅くなって表れることが多いように思います。
まるで自分には反抗期がなかったのを見届けてから引きこもりを開始したように思えることもあります。
しかし時期に焦点を当てて考えると、引きこもりのすべてが反抗期がわり(反抗期の別種)というのは言いすぎでしょう。
引きこもりは、人間のいろいろな年代においてそれぞれの理由で表れるのと同じです。
反抗のすべてが反抗期によるものではないように、引きこもりのすべては引きこもり期の所産ではないでしょう。
引きこもり期の第三の特質は、その表現方法、表れ方にあります。
反抗期が爆発型の表現とすれば、引きこもり期の表現は陥没型といえるでしょう。
両者とも、それまでの比較的平穏なものとは異なる、人間の第二の誕生の時期を表わす密度の濃い内容をもっています。
しかし反抗期は外部から見えやすい陽性型、引きこもり期は外部から見えにくい陰性、陥没型といっていいでしょう。
(4)自立の視点から引きこもりをみる
第四の特質を私はとくに大事だと思います。
反抗期が、それを通して、人間が自立と社会性を獲得する跳躍台のような役割をするのに対して、引きこもり期はそうとは限らない、と思えるのです。
人間としての自立と社会性の獲得の前段階の準備、跳躍台の前の踏み板的な役割から始まらざるを得ないと思います。
反抗期は自立と社会性の獲得において、高い成功率、達成度を示します。
引きこもり期は、自立と社会性の獲得自体を内容にするものではありません。
それを経てその次に自立と社会性の獲得に必要な対人関係のできる場面に進んでいくものです。
そして引きこもり期を受けとめる社会的対応のシステム(そこには親がその事態を受けとめることを含む)がきわめて不完全です。
おそらくいま現在、その社会的対応システムが端緒的に形成されつつある時期になるのでしょう。
引きこもりの多くの人は、まだその状態であることの人間の成長発達上の意味を理解されずにいると思います。
特質の第五は、引きこもり期を経て、自立と社会性獲得の達成度は反抗期経由型に比べて高くないことです。
自立と社会性獲得の判断基準をどこに置くのかによって、その達成度は異なります。
私は、それを精神的自立というところにおきます。
社会的自立、経済的自立におくことも一つの意見として尊重すべき内容があるとは思いますが、たとえば30代、40代になってから引きこもり期を抜け出した人にそれを当てはめるのは、機械的すぎる気がするからです。
この精神的自立を、自立と社会性獲得の判断基準にして、引きこもり期を経由した人の達成度を見るというのが、私の意見です。
それは社会的自立、経済的自立を判断基準としたときよりも高くなるでしょう。
反抗期型を経由した人の精神的自立、社会的自立、経済的自立がそれぞれどの程度であるのかを私は知りません。
それでも、引きこもり期を経由した人との対比でみるならば、そちらの方の達成度が高いのは容易に推測できるものです。
引きこもり期を経た人の自立の達成度を高めるのは、個人レベルと社会レベルの両方の対応が必要です。
結局は個人レベルのところでの、それぞれの人の“勇気”と動きが決め手になります。
その個人を取り巻く社会的環境、親や家族の理解と協力、社会のいろいろな人がそれを見る目が育つことが、個人の勇気と動きを支援するのだと思います。
反抗期が社会的に認められているように、引きこもり期も社会的に認められることが必要だと思います。
(2003年2~3月ころ)