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Center:114-「和」の精神と民主主義の定義

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2015年11月12日 (木) 19:41時点におけるMatsu4585 (トーク | 投稿記録)による版
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目次

「和」の精神と民主主義の定義

〔2007年、2011年3月31日に記載〕 

(1)

奈良朝期の「十七条憲法」の第一条「和を以て貴しとし」を、私は「和」の心情と表わすことにします。
この憲法は聖徳太子が書いたとされています。

井沢元彦は『仏教・神道・儒教集中講座』において、「第一条は明らかに仏教ではありません。もちろん儒教でもありません。…神道なのです。…ここで言っている神道とは、明治以降の国家神道ではありません。日本人が古代から信じていた神の道という意味」(121ページ)と述べています。

『日本学事始』は梅原猛の著作ですが、その冒頭は梅原猛・上山春平の対談です。上山説は少し異なる意見を述べています。

十七条憲法は、『日本書紀』の編者と同じという考えに「傾いている」し、梅原猛が『日本書紀』の編者は藤原不比等であるという説を受けて「記紀神話(すなわち古事記と日本書紀にある神話)には、たしかに藤原氏の影が濃く落ちている」(59ページ)としています。

梅原・上山説では8世紀のはじめに日本古代国家が成立したことに関係して、一種の宗教改革があったと考えているようです。

すなわち日本古来の神道をベースにして、政治場面の哲学として儒教がとり入れられ、さらに仏教や老荘思想も入ってきて、混合的な神道ができたということです。
これを日本学の原精神というべきとしています。

梅原猛は、この古代国家の成立とは、一方では天皇の統治権が確立する過程で、藤原不比等が政治的な実権を握り、他方では中臣氏(藤原氏の宗教的別部隊)が神道の祝詞(のりと)の主管者となり、宗教的権威を打ちたてた時代であると分析しています。

上山説では、日本学の原精神を生み出したのは、稲作が日本列島に導入される以前に1万年続いた縄文文化、すなわち狩猟採集文化にあると予測しています。
梅原はこの説を「どう考えていいか」(43ページ)保留しています。

ともかく「和」の精神は、井沢説にしても、梅原・上山説にしても日本人の古来からのものであって、明治期の国家神道によってゆがめられる以前から続いているものと考えられるようです。

「和」の精神は、行政的・法律的世界では表立っていませんが、いまなお共同体的な世界では作用しています。
たとえば家族や親族のなかで、地域の共同体や職能的団体で、比較的事業規模が小さな会社や団体のなかでは、有効に機能しています。

私は、これを広義の儒教文化圏に日本が入っていることと考えます。
日本における儒教文化は、神道的ベースに儒教も着色されたものであるという特色があるからです。

朝鮮は儒教が最も表立って表われる儒教文化という特色を、中国は、社会主義的外形をもつ社会基盤に儒教的色彩があるという特色をもちます。
これら全体が儒教文化圏なのです。

日本における儒教精神は、「和」の精神の下に、仏教などとも組み込まれています。
その実例は、たとえば「仲間うちでは、相手を互いに思いやり、譲り合い、出すぎず、分をわきまえて振る舞う」という精神状況になります。
これは、個人の尊重に基づく民主主義の感覚とは違っています。
私の推測では、この違いが生まれる理由は、比較的小さな共同体原理を、普遍的な社会一般の原理にしようとする無理に関係しているように思えます。

(2)

この「和」の精神が個人の抑制になる限り(といってもそれは自分を律していく肯定的なレベルから、多数者や上位者が圧力によってある個人を抑えていく否定的なレベルまでの幅広い様相を示します)、ある種の精神文化的な対立・衝突を発生させるのです。

「和」の精神がこのような状態を容認するものであるならば、それは旧態依然の反民主主義的なものとして放棄する、打破するという意見もあると思います。

しかし私はそれにはにわかに賛同できないと考えるのです。
それはおそらく個人あるいは独立した個人の成立に関係しているのです。

ヨーロッパ、あるいはキリスト教的精神状態では、神の契約者の主体として、個人が確立してきました。
それだけでなくヨーロッパ世界の歴史がそれを促すようにしている気がしています。

中国を例にとると、ヨーロッパとの違いを感じさせます。
中国は1930~40年代に外国支配からの解放と内乱における人民戦争という激しい時代は経ています。

しかし、ヨーロッパ的個人の確立は未成熟で、加治伸行『儒教とは何か』によると中国は、社会主義体制にある儒教の人々の国となります。

日本もある意味では中国と同様に、近代的個人が未成熟です。
ただし1947年に成立した日本国憲法は、近代的個人に基づく民主主義を宣言しています。
「和」の精神をこの憲法にある近代民主主義と統合するのが現実的であると考えるのです。

上山説を大筋で認めるならば、日本人が長い歳月のなかで、生活に根ざした精神的な知恵をここでも時代的要請に応じて発展させる必要があると考えるのです。
もし神道を宗教と考え、宗教として受け入れてきているのであれば、それは宗教改革になるでしょう。

しかし私のように、それをいわば自然教のように受けとめ、むしろ無神論者と自覚するならば、それは社会思想的な、あるいは哲学的な発展になるのではないでしょうか。
仏教を信仰する人もまた宗教改革に直面し、儒学を修めた人には思想的・哲学的(あるいは考え方)の変革になるでしょう。
このような様相が同時に発生するのが日本的な特徴のように思います。

そしてこの事態はすでに現実化しているのです。
社会のいろいろな方面で生じていることで、私が日常的に関係している引きこもりも一部は精神文化的にこれに関係しています。
近年食品メーカーで、内部告発による不正が発覚しています。企業内の利益と社会の利益はときどき相反します。

食品の安全という社会的利益を企業の収益増よりも優先することで事態を処理しているのです。

ここでの企業というのはいわば共同体であり、その利益を図ることは共同体的な原理です。従来は多少粗悪品が混じっていても重大な問題を起こさなければよかったのですが、いまは社会の利益が優先し、その下位にある企業は社会の利益と反する形ではその原理を発揮することはできないのです。
旧来の日本社会では告発者は共同体の裏切り者です。
いまなおそのように考える企業や官公庁や共同体があるように思います。

それが社会にとっては勇気ある行動として評価に変わってきています。
これが共同体を超えたときの基準にこたえる「和」の精神であり、それは民主主義を進化させ強めていく「和」の精神に違いありません。

もう1つの例をあげましょう。近年、全国各地の祭りが荒れるようになっています。
儒教や仏教的精神と組み合わさった神道精神、これが「和」の精神です。

その「和」の精神が身につかず、他者の迷惑を考えない、自分勝手の振る舞いになり崩れている、その表われが祭りの荒れなのでしょう。
しかし、祭りで荒れる人たちに旧態依然とした「和」の精神に向かわせることはうまくいかないでしょう。
それは強圧的であり、しかも空文句に聞こえてしまいます。
個人を尊重する民主主義と矛盾するし、その弾圧的行為自体が非難されるべきものでしょう。

現代文明はその強圧的方法を、非暴力的に、精神的に追い込んでいくやり方をします。
祭りの荒れへの対処をみるとき、警察力で囲んで、封じ込める姿にそれを感じます。
最悪ではありませんが、健全な出口を見出していない気がします。

祭りの荒れに表われる負のエネルギーを、各人の意志が尊重され、祭りの参加者全体を活性化させる方法、それを支える考え方が、「和」の精神を民主主義と統合させるものだと思えるのです。

(3)

民主主義にも言及しましょう。
すでにフライングをして民主主義にも少しはふれていますが、本格的にふれておきましょう。

高校の授業で民主主義とは何かを問いかけたところ、「民主主義とは多数決のこと」という回答が多く出たそうです。
もし多数決が民主主義であるならば、食品会社で不正を告発した人はその会社内では民主主義に反した行為をしたことになりかねません。
企業を超えた社会全体で多数を得、ここでようやく民主主義として認められるという相反する結果が出るかもしれません。

小さな共同体原理と共同体を超えた社会の原理が一致して認められる民主主義を考えるとき、「多数決原理」を単純に民主主義というわけにはいかないのです。
現行の日本国憲法は、そこを明確にしているように思います。
憲法には国民の権利として、民主主義的条項が列挙されています。
たとえば表現の自由が保障されています。

これらの権利、個人の自由は、国家(公権力)が侵してはならない対象として認めているものです。

これが個人を尊重することを基礎とした民主主義です。
日本国憲法が生まれて60年、これらの民主主義的権利は、国民の中に広く深く定着しているかといえばそうではありません。

企業の内部告発がある、伝統的な自己規律が崩れて祭りが荒れている、このようなこと一つひとつを前進的に解決していくなかに、民主主義が国民の中に定着するのです。
社会のあちこちで問題が発生し、いま日本は大変な状況を迎えているといっていいでしょう。

それは民主主義を定着させていくチャンスの到来を告げてもいるのです。
社会が安定し、平穏のなかでは、従来の習慣や考え方などを根本から考え直してみる機会は少なかったのです。

このように日本社会が動揺し、多くの人が不安をもち、とくに子どもや若者が多くの社会的影響を受けた事件を引きずっていく時代だからこそ、チャンスなのです。

個人の尊重に基づく民主主義の国民への定着の条件は広がっている、それは旧来の「和」の精神を生かし、活性化していくものになる。これが私の確信です。

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