Center:2007年12月ーよくわからないから、公平な基準を持ち込もうとした?
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よくわからないから、公平な基準を持ち込もうとした?
ミニ自伝の続きをさっそく書くことにしました。本編を書いている途中からかなり長くなり、これは省略しないと長くなりすぎると思ったのでした。それで中学校時代の一番の出来事を省いたのですが、次のテーマにすすむにしても、ひとまず「ミニ自伝」を終えておいた方がいいと、続編をまとめることにしました。
(1)男子で唯一、叱責を除外された「学級崩壊事件」
中学校3年は2クラスでしたが、音楽は2クラス合同で生徒数は50人余りで、女子が約半分。女性の教科担任はベテランの域に入っていた人です。
3年生のクラスは少々荒れていたのですが、私にはあり得る程度ではないかという範囲です。就職組のなかにはかなり前から授業なんか投げている人もいました。
といっても当時の高校進学者は田舎のことで少なく20人未満、進学率は40%以下だったはずです。就職組全体が半数を占めていたので、そのなかで 授業を投げている人には特別の差別待遇があったように思います。
それが音楽の時間には爆発的に表われやすくなっていたのです。何しろ生徒は50人余りで、教師はベテランとはいえ1人。数学や国語と違って発声の多い科目です。特別教室で席は決っていましたが移動する生徒も出やすい雰囲気がありました。
たぶん2学期のある日のことです。音楽の時間の騒がしさは徐々にエスカレートしていき、その日は授業の初めから荒れ気味です。たぶん中学校卒業後の進路がはっきりしてきた時期だったと思います。女子は音楽の時間が好きですから、ちゃんと授業を受けようとしています。
男子のなかの数人で始まった騒音がだんだんと広がっていきました。ついに先生はきれた状態になり、何か一言発した後、教室を出て行きました。騒ぎはそれで静まるわけではなく、何もなかったかのようにつづいています。
突然、音楽室のドアがあり、1組担任のI先生が音楽教師と一緒に入ってきました。I先生は体育系で、鉄棒の大車輪もこなす剛腕として恐れられていました。
静かに「女子は出なさい」とI先生はまず一言。おおかたの女子が教室をでたところで、「男子は?」と音楽教師に尋ねました。「タケシくんはいいです。・・・あとは、あとはいませんね」。I先生は「タケシも出ていろ」。
私は音楽教室から一人ポツンと出されましたが、女子だけのクラスに戻る気にもなれず、中庭に行きました。その後の音楽室の状態は、もしそれが今日のことであれば新聞ネタになったようなものでしょう。ともかくその日以降の音楽の授業は真実のところはともかく、表面的には平穏になったからです。味気なくなったともいえるでしょう。
あの騒ぎとそれにつづく事態のなかで、私が何かを感じていたのかを口(ことば)で表現するのは、どう表現してみても少しは違和感があります。
なぜ騒ぐのか全くわからなかったといえば、どこかでわかる気もします。授業はイヤなのはしょうがないとしてもそんな格好で発散しなくてもいいのではという思いもあります。
(2)人との情感に基づく結びつきは苦手だから、公平ルールを適用する?
もっ と深いものもある気がします。対抗力のない人のところでその不満を出すことへの嫌悪感(卑怯じゃないかという感覚)、自分はそんな動きに一緒になるのはイ ヤだという客観性の維持、自分の力ではどうにもできない・・・しかし表面的にはその場にいながら部外者、傍観者とみられるのかもしれませ ん。
しかし、妙な公平感もあったようにも思います。その音楽教師のときどきみられる「ひいき」感への反感です。その事件の前だったと思いますが、こんなことがありました。市内の中学校合同の音楽発表会です。
野球部が中学校を代表して市内の野球大会に出場するのはわかりやすいものです。音楽発表会には音楽部といきたいところですが音楽部は存在しません。同級のSくんが「・・・先生から言われたんだけど」と、私にその音楽発表会のメンバーに「参加しないか」と声をかけてきたのです。
教師が声をかけやすいような人に非公式に声をかけてメンバーを決めようとしている、と直感的に感じました。私は音楽発表会にでるような柄ではないし、断ったのですが、そのすすめ方がいやでした。「ひいき」=不公平を感じたのです。私が騒がしい音楽の授業のなかで、何か傍観者的になっていたのは、この先生の日ごろから少しずつもれているこの傾向への抵抗感があったのかもしれません。
私が人に対して「公平らしく」ふるまってい るのは、いろいろな場面でこのような心の働きがあるからではないかと思います。「人は公平でなければならない」という構えたものではありません。私は人と の情感に基づく結びつきは苦手ですが、このような公平ルール、暗黙の約束事によりかかっているように思います。それは正義感を盾にしたものというよりは、 どこか内向きの感覚によっている気がします。
(3)「大人っぽく振舞って孤立させられるタイプ」の子供だった?
この事件のあった音楽の授業の次の授業は英語でした。授業時間になっても男子は音楽室から戻らず、女子だけのところに男子は私一人がポツンと座っている状態です。居心地の悪さはかなりのものでした。
英語のW先生は前に行ったテスト用紙を生徒に返し始めました。女子に返し終えると男子の用紙をめくって「お、タケシの!」と自分で気合いをいれているというか、場の雰囲気を何とかしたいような声を出していましたが、私は何もできません。ともかくこのとき返されたテストの点数はいまでも覚えています。 妙なものです。
しばらくして男子が悄然とした足どりでぞろぞろと戻ってきました。その後も含めてその様子はだれも語っ てくれません。想像するしかないのですが、最低一人一発は炸裂したようです。私はその姿をみながら、改めて居心地の悪さを感じたのですが・・・。情緒的な 人であればその場面ではじっとしておれなかったでしょうが、何もなかったかのように英語の授業はすすめられました。私には不穏な時間でしたが、これまた何 もなかったようにシラけて座っていました。
これと似たことは、理科の授業でもありました。先生は困ったこととは思わ ず、むしろ喜んでいたぐらいかもしれませんが・・・。理科実験で何かの気体で風船を膨らますのがおもしろくて、教室中が大はしゃぎです。私はその騒ぎにむ しろシラける気分でした。その場の雰囲気から超然としていることの中学生版です。
ときどき不登校になる人に、同級生のなかではおとなっぽく 振舞って孤立させられるタイプがいます。もしかしたらこのときの私はそれと近かったのかもしれません。一緒になって騒ぐ(騒げる?)ことのなかには感情的 な同調が働くのでしょうが、どうもそういう機能が作動していく気配がないのです。むしろ反対方向に心が動く気がします。
(4)社会人時代――「ものごとをはっきり言う、日本人らしくない人」
高校を卒業して20年くらいたったとき、東京で田舎を離れた在京者を中心に高校同期の同窓会が開かれました。そのときTくんが高校時代の私の印象をこう言っていました。「ものごとをしゃきしゃき(はっきり)言う人のように思っていた」。私には意外なことばでしたが、もしかしたら自分では自覚しない一 面なのかもしれません。
私は30代のころ教育雑誌の編集者をしていたのですが、同僚の一人がこう言ったことがあります。著者(学校の先生)に原稿の内容を確認するものの言い方が「(直接的で)こわいような気がする。自分にはできない」。
Tくんが評していたことと編集者時代のことがつながっているとしたら了解できるからです。
ある著者(これは高校の先生)が書かれた原稿を、私が半分ぐらいに削って短くしたのを見て「バッサリと削るのにすごさを感じた」。
別のある著者(こちらは小学校の先生)に原稿の書き直しをお願いする手紙を書いたのですが、「こうはっきりと指摘されるとさばさばして気分がいい」と答えました。
これらの答え方は、私に対しては好意的な答え方になっているけれども、意外と私の直接的な言い方をとがめているのかもしれません。そして、私には知られない形で気分を害している人や「えらそうなことを言っている」と感じた人も多くいたのかもしれない・・・と推測できるのです。
相手の気持ちを配慮して遠回しに伝える方法に、以前から釈然としないものをもっていました。私は問題の所在を明確に伝えようとしていたはずだったのですが、案外それだけではなかったように思えてくるのです。そこに相手の感情をよくキャッチできない面や自閉症的な傾向が関係していると思えてきたのです。
その同僚の編集者が私を評してこう言ったこともあります。「日本人じゃないところがあ る」。どういう場面でのことばかを思い出せませんが、他人への配慮的傾向は日本人全体の傾向としていえるし、私のやり方はそれとは違うものがある、という ことかもしれません。
この配慮的傾向とは自閉的傾向につながる わけですから、配慮的でないといわれると私はここで分裂してしまいます。ところが相手の感情をよくつかめないからむしろ、無遠慮な言い方になったり配慮的 傾向になったり、両サイドにゆれるようにも理解できます。
もしかしたら私のなかに相手の気持ちがよくわかる部分と、よ くわからない部分が顕著にあるのかもしれません。それについて1つ思い出すことがあるのですがいまは省きます。そこをときどき自覚できるからこそ、いずれ のばあいでも通用する公平性、あるいは私情をできるだけ除いた客観的な基準を意図して持ち込みつづけようとしてきたのかもしれませ ん。