Center:106-儒教文化圏について少々
儒教文化圏について少々
〔2006年7月頃〕
先日書いた文章に、私は儒教文化圏という言葉を使いました。日本人の日常生活に無意識に表れてくるいろいろな判断や好みや違和感をもたらす精神的な源流というべきものを私は、儒教文化圏と表現しました。
といっても私たちは(いや私は)儒教という宗教を信仰しているわけではありません。
儒教だけではなく仏教や神道が日本人の精神生活になにがしかの役割をもっていることも承知しているつもりです。その上で、そしてはなはなだ申しわけないとさえ思いますが、その輪郭を自ら明確に知らないまま儒教文化圏ということばを使いました。使ったことを否定的に感じてもいません。ただ、もっと明確にしていかなくてはならないとは考えてはいます。
記憶では、自分の意見に儒教文化圏ということばを使ったのはこれが二度目です。
一度目は、もう20年近く前の、いわゆる「教科書問題」のときです。
第二次世界大戦の一部として日本軍は東アジア、南方アジアに侵略をしました。このことを歴史教科書で扱ったとき、中国、朝鮮では問題になりました。しかし同じ日本軍の侵略を受けたフィリピンやマレーシアなどではそう大きな問題になりませんでした。
それは中国、朝鮮に対する日本軍の侵略がより撃烈であり、他はそれほどではなかったためとは理解できなかったからです。それは、教科書という公的な文書が、中国、朝鮮という儒教文化圏では特別の意味をもつと考えたのです。亀鑑(きかん)ということばに示される手本が教科書にはあり、儒教文化圏ではその役割が特別に大きい。だから教科書の記述は大きな問題になる、そこを考えた記憶があります。
二度目は先日のことです。対人関係における他者への配慮的性格が儒教文化圏の心情に根ざすものと述べました。
そのほかにもいろいろなことを考えています。たとえば政治上の重要な選択である選挙において、有権者は必ずしも立候補者が何を政策に掲げているのかを基準にしていません。これは政策が理解しづらいとか他の人の政策との違いをイメージしづらいとか、政策自体のなかに決心を曇らす要素が関係することもあります。
しかしそれだけではなくてもっと奥が深いようです。たとえば信用・信頼性、政策の実現性、政治団体とのかかわり、政策による直接的な利益ではなく社会生活上のいろいろな利益を総合的に考慮するなどです。そしてその一つに、いやいろいろな思惑の奥に、この儒教的な心情や発想が働いているように思えます。
先日、企業買収のために株の買い取りをすすめたところ「経済原則」というべき、より高い株価で購入しようとする企業買収集団に株の売却をしなかったという報道がされました。日本では,この手の企業買収は成功していないようですが、私はここにもまた、おそらくは儒教的心情がはたらいているように思います。
企業買収が成功しなかったこの例に、私は本心から安堵しました。私のこの気持ちの何たるかを、自分で確かめてみたい気持ちになったほどです。
この儒教文化、儒教文化圏に関することは実は大テーマのような気がしています。これからもまた体系的なことは考えずに思いついたことを、ときどき書いていくつもりです。