Center:(15)「迷惑をかけることになる」
(15)「迷惑をかけることになる」
しかし優柔不断を招くより大きな要素にも考えを及ばさなくてはなりません。
「自分がそこにいてはそこにいるほかの人たちに迷惑をかけてしまうのではないか」という感覚です。
この感覚は対人関係不安、引きこもりの経験のない人には少しわかりづらいかもしれません。
引きこもり経験者のかなり広い範囲の人に当てはまります。
その表われ方(程度や場面)もいくつかあります。
たとえば、自分の感情、考え方をストレートに出すこと――ストレートといっても私からみればかなり抑制されたものなのですが――それ自体が、周囲の人に害になること、迷惑になること…と考えている人もいます。
おそらく何らかの体験が彼(女)をそうさせているに違いありません。
また、ある数人の人たちが集まっているところに自分が入っていくと、その場の雰囲気を壊すことになる、雰囲気を盛り下げる、暗くする…という思いでいる人もいます。
そう言ってくる人の話を聞いていると、私には一人勝手にコケている感じがします。
この事態を多少嫌味をこめていうと、「だれもあなたのことをそんなに注目していないよ。あなたはそんなにみんなから注目される人なんですか。なぜあなたはほかの人からそれだけ注目されるだけのものをもっていると考えるのか私にはわかりません」ということになります。
もちろん数人いる場面に、新しい一人として加わっていくとその瞬間はその場の多数から注目されることはあるでしょう。
一般には、それは最初の数分、もしかしたら数秒のことでしょう。
ところが自分がそこにいて迷惑をかけている、かけるのではないか、場面を暗くするのではないか…と考える人は、そのことが頭から離れません。
その場が何をするところか、場違いでなければとりあえずいて、場面がわったところで自分なりのしかたで参加しようということにはなりません。
たぶん、“豪快”な人は、多少場違いであっても自分でその場の雰囲気をガラッと変えてしまうでしょう。
ときと場合にはそれは許されるし、もしかしたら歓迎されることですが、彼(女)らにそれを望むことはできません。
しかし、そういうこともあり得るのだというのが人間関係、社会であることは、彼(女)らにも頭の片隅には置いてほしいと思います。
このような人(引きこもり経験のある人の多くに共通するのですが、特にそのことを意識している人)に対して、私はこうすすめます。
「そこに静かに座っていなさい」
もちろんそれは一般の仕事場とか、運動をするグループとか、スターのファンクラブのようなところでは難しいでしょう。
引きこもりの当事者の会のようなところ、自助グループ、サポート役のいる場から始めるのがいいでしょう。
いわば、“場慣れ”の期間が必要なわけです。
その副産物として、実は、そこに静かに座っている人に対しては、だれもそれを迷惑とは思わないことを体感できるからです。
それをある程度の期間くり返すことをすすめます。
当人の気分としては“じっとがまん”かもしれません。
その間だれかが声をかけてくれるかもしれません。
名前やどこに住んでいるかを聞いてくるかもしれません。
それに簡単に答えるだけでいいのです。
たぶん話しかけてくる相手は、より多くを話し合うきっかけを求めているのですが、自分にはまだこれだけの条件がないことを、簡単な答えにとどまるだけの応答をすることによってその気持ちを伝えることができるのです。
そしてほかならないその簡単な答えをくり返す作業のなかに、自分の挑戦の機会があります。
静かに座っていること自体に“場なれ”の試練があります。
それをくぐり抜けることから始める、のがいいでしょう。
[「自意識過剰」の項も参考になるでしょう]
〔3〕コミュニケーションの場
(1)「受け入れの保証を求め、確認する」
(2)「受け入れを求められたBさん」
(3)「確認を求める行動の意味」
(4)「基本的な社交性」
(5)「常識のある人との友人関係を求める」
(6)「本人のもつ力による」
(7)「何でも話し合える友達を募集」
(8)「絶対に自分を裏切らない人」
(9)「心を開けば引きこもりから抜け出せる」
(10)「引きこもりは自意識過剰なのだから」
(11)「被害者意識は自分を正当化できる」
(12)「自分を受け入れる」
(13)「いまいるところが出発点」
(14)「優柔不断であること」
(15)「迷惑をかけることになる」
(16)「断れない」
(17)「言いたいことを言えない」
(18)「相手との間に壁があると話しやすい」
(19)「親しくなるとつきあいづらい」