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体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(1)

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2011年2月22日 (火) 21:20時点におけるMatsu4585 (トーク | 投稿記録)による版
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引きこもり模索日記(その1)

森田はるか(東京都)

はじめに

私の「引きこもり歴」は登校拒否から始まり、今も経済的に自立している訳ではないので、どこを取って「引きこもり歴」になるのか自分でもよく分からない。「経済的自立」が引きこもり克服の目安だと思っているので、私はまだ引きこもりを過去の事として話せる立場ではないし、「引きこもり克服法」等、偉そうなことを言える立場ではない。精神的な部分での引きこもり。一人で居るのが好き、出不精などは一生変わらないだろうし、それは問題もない。「学校に行かない選択」は出来ても「仕事をしない選択」は出来ない。私が「心の悩み」で引きこもり、仕事に出られないことを両親は「怠け」「甘え」としか見てくれなかった。そして父親との関係は最悪化した。「引きこもり」への無理解により家族関係が悪化したり、一般社会への偏見が広がっていることは大変残念に思う。私は「引きこもり」を肯定したり、正当化するつもりはない。しかしこの問題に関わる人達に「引きこもり」への正しい理解は求めたい。私は引きこもり自助グループ「人生模索の会」を呼びかけ、同じ悩みを持つ多くの人達と知り合うことが出来た。それは私にとって大変有意義であり、大きな出来事となった。「人の中で傷ついた心は人の中でしか癒されない」という言葉があるらしいが、正にその通りだと思う。「経済的自立」のアドバイスは出来ないが、自助グループ、メール、文通などで仲間を作ることは社会参加への大きな第一歩になることは間違いない。今もなお孤独に「引きこもり」で悩む人達に仲間作りや社会との繋がりがもてるような活動をしていきたいし、「引きこもり」への正しい理解を求めた活動をしていきたい。

自分だけだと思っていた…。

学校を辞めて、仕事も続かず毎日家の中にこもっている奴なんて…。誰にも相談出来ず、一人で悩み、苦しみ続けた…。親や廻りの人達からは「怠けている」「甘えている」と責められるばかりだった。誰よりも自分が自分を情けなく、不甲斐なく思って苦しんでいるのに…。出口の見えないアリ地獄の様な毎日…。不安、焦り…自殺する事も出来ないまま時間だけが過ぎていった…。

私は信用金庫に勤める父と専業主婦の母の間に生まれた。三才年下の弟と四人家族。いわゆる中流家庭の中で育った。両親は特に教育やしつけに厳しくはなかったが、とてもまじめな人間だった。仕事人間だった父は私が子供の頃、殆ど家にいることはなかった。父は外面が良くて会社関係や親戚の間では評判の良い人間であったが、家の中ではとても神経質で恐い父親だった。母は私が幼い頃から習い事に通ったり、パートに出たりと活発で、家の中に収まる性格ではなかった。亭主関白だった父は母が家を留守にする事をあまり面白く思ってはいなかったようだ。両親ともに留守が多かった子供時代は常に「お前はお兄ちゃんなんだからしっかりしなさい!」と言われて育った。私は幼少の頃から家の中で一人で遊んでいることが多く、母親からはよく「天気が良いんだからみんなと外で遊んできなさい!」…と言われるような子供だった。自分から友達の家へ遊びに行けるような積極的な子供ではなかった。しかし友達が家を訪ねて来れば、公園に出掛けて楽しく遊んでいた記憶がある。家の中では活発だが、一歩外に出ると「借りてきた猫」の様におとなしくなってしまう内向的な子供であった。犬や猫、動物が好きで母は私の長所を「優しい性格」と言っていた。幼稚園時代は「いじめ」に遭うようなこともなく、無遅刻、無欠席で通った。私の「引きこもり歴」は登校拒否から始まっている。東京郊外の新興住宅地で育った私は「第二次ベビーブーム」のはしりの世代で児童数が多く、1クラスに45、50人は当たり前に在籍している教室で、校庭には臨時プレハブ校舎が立てられるなどした中、小学生時代を過ごした。

今でこそ登校拒否は不登校と呼ばれ、一般にも理解されて学校以外にも受け皿が多くなっているが、今から十五年、二十年位前、登校拒否は問題児とされ、病気とも言われていた。登校拒否、不登校児のその後については、克服したり、学校以外での進路で成功したりの良い例はよく紹介されるが、そのまま引きこもりになる人も少なくはない様だ。今不登校で悩む人達に希望を与える意味で成功した人の話しを紹介するのは悪くないと思うが、その後もうまくいっていない人からすると、引け目を感じ「俺はなんなんだ…」と取り残された気持ちになってしまう…。登校拒否になったのは「いじめ」が原因だった。「いじめ」に遭った原因は学校で先生や友達と喋れない、話せないことにあった。学校外では話せる友達もいたが、学校内では大勢の人の中で極度に緊張していたのだと思う。それが原因で私には殆ど友達が出来なかった。しかし仲良くなれた数人の友達とは放課後普通に話し、公園で野球をするなどして遊んでいた。「○○ちゃんはなんで学校だと喋らないの?」などと聞かれることもあったが自分でもなぜ学校へ行くと話せないのかその当時は分からなかった。小学二年生位までは友達から「いじめ」を受けた記憶はない。最初は教師から「いじめ」を受けた。ババァの教師だったが、私が学校内で喋らない、内向的、消極的なことを責め、授業中に私が発言しなければその授業を終わらせない等、嫌がらせ的行為を受けた。「質問が分からないなら分からないと言いなさい!」…と言って何時間も一人で立たされ、「君一人のせいで皆が迷惑しているのよ!」と言って給食を抜きにされたり、平手打ちされたこともあった。(俺は犬か!?)思わず泣き出すと「泣けば許されると思ったら大間違いだよ!」と言われた。「気が弱く、緊張して喋れない」…が原因だったと思うが、私は子供の頃から偏屈なところがあり、命令に屈するのが嫌で意地になって喋らないところもあった。母はこの教師から「おたくの子供は自閉症ではないのか?病院に通った方が良いのではないか…」と言われていたそうだ。母は随分気にしたらしいが、私が家の中や放課後は友達と普通に会話をして遊んでいたので病院には連れていかなかったらしい。母親の方針でそろばん塾や水泳教室に通った時期もあったが、周りに馴染めず、「先生」という存在が「恐い人」という意識が強く、いつも緊張して嫌々通っていた記憶がある。教師からの「いじめ」が続くと、友達からも学校内で喋らないことを責められ、暴力を受け、仲間外れにされる、「いじめ」に遭う様になった。数少ない友達がクラス代えや転校でいなくなった五年生の頃から「いじめ」はより激しくなっていった。学校で一日なにも話さなかった日は罰としてクラスの男子全員からシッペ、ケツバット。学芸会や球技大会があると最悪である。放課後も生徒同士で集まり、そこでプロレスやボクシングごっこと称して暴力を受けていた。「いじめ」を受けていたことは親にも教師にも話さなかった。教師に話せば余計にいじめられ、仲間外れにされると思ったし、親から教師に話しをされるのも嫌だった。教師など全く信用していなかった。でも教師はいじめを知っていたはずだ。私が内向的、消極的で学校で喋らないのが悪い、「いじめられる側に問題がある」 …と傍観していたのだ。小学六年間で、三人の女教師に出会ったが、どれもろくなババアがいなかった。この頃から私は悩みを吐き出さない、溜め込んでしまう性格だった。そして登校拒否に…。学校が楽しいと思ったことなど一度もない。ただ「行かなければいけない所」だからそれまでは我慢して通っていた。「学校が嫌だから休むことは許されない」と思っていた。休みはじめは頭痛、腹痛の体調不良が原因だった。「行きたくないけど行かなきゃ行けない…」 …というプレッシャーで体調が悪くなったのだと思う。病院で検査を受けたこともあったが、異常はなかった。それが続くと親、学校の連中から「ズル休み」と言われだし、「もう学校なんて行きたくない!」 …とハッキリ母親に怒鳴った覚えがある。これが「登校拒否」の始まりだが、母は「うちの子に限って…」の心境だったという。始めの頃は学校を休むことに大変な罪悪感があった。しかし教師や親に強引に引っぱられ、学校に連れて行かれ、家の廻りや学校内で屈辱的な目に遭い、もう完全に学校には行きたくなくなった。親も教師も「学校に行きたくないから行かないことは理由にならない」絶対に許されない犯罪行為のように私を責めた。特に母親は必死で、泣きながら登校するように説得されたこともある。子供心に親を泣かせて悪いと思ったし、悲しくなったがどうしても嫌で登校出来なかった。部屋にこもり、食事も摂らない日が何日も続いた。しかし母は私の健康よりも「学校に行かない事」を重要視したようで、登校しない日は一言も口を利かず私を無視していた。「自分が学校に行くだけで母は喜んでくれる…」と思うと夜も眠れずに悩んだ。仕事人間だった父親とは話しをする機会が殆どなかったが、たまに顔を合わせれば「今日は学校へ行ったのか?子供は学校へ行くのが仕事なんだぞ…」そんな話ばかりで、会うのが嫌だった。しばらくして、私は神経科の病院に通うようになった。病院の先生には悩みを話せた。心理テストをやって催眠療法、箱庭療法等をやり、薬も飲んでいたがあまり効果はなかったように思う。そして当時、親や教師によく言われた言葉がある。「あまえているんじゃないか…」この言葉は当時の自分には凄く嫌な言葉だった。「自分はなにも悪い事なんかしていないのに、学校に行けばバカにされ、いじめられ、学校に行かなければ親、教師から責められる」「全て自分の責任にされ、全て自分が悪者にされてしまう」自分が一番不幸だと思った。

六年に進級するとまた登校を始めた。「進級」という区切りがあった事や、あと一年で卒業という目標があった事。また登校拒否になってからはいじめがなくなっていたので登校出来た。

しかし中学に進学してからまた登校拒否になる。親は失望し呆れた様子だった。中学時代の教師も最悪だった。当初は毎日家を尋ねて来るなど熱心に見えたが、次第に「私がここまでやってやっているのにいい加減にしろ!うちのクラスには他に誰も問題児はいないのに、お前だけが問題なんだ!」…そんな態度になっていった。「義務教育を受けないと親が逮捕されるんだぞ!お前はわがまま言っていれば済むかもしれないが、親や弟、家族のことも少しは考えろよ!」…そんな脅しも受けた。私の世代の少し前まで、中学校では「校内暴力」が社会問題となっていた。学校の男子トイレには監視のため扉がないのが当たり前の時代だった。荒れ果てた学校にようやく平和が戻り、「問題児のいない学校」が目の前にあるのに、私が足を引っ張っていたわけだ。そして学校側の勤めで児童相談所に通うようになった。児童相談所では同じ登校拒否の仲間と知り合うことが出来た。週一回、卓球やゲームをやり、友達も出来て楽しかった思い出がある。自分の居場所になっていた。母親も親同士の集まりがありそれに参加していた。今考えれば私も母親も孤独から解放されていたと思う。また親が家庭教師を付けてくれていた。決して学力が上がることはなかったが、当時は良い相談相手であり、時々サイクリングやボーリング、学園祭等に連れて行ってもらっていた。中学は行ったり行かなかったりしながら、なんとか卒業はした。中学時代、目に見える暴力は受けなかったが、「あいつがいると暗くなる」「あいつはすぐ教師にチクるから関わらない方がいい」 …と無視されるなど陰口、悪口は言われていた。そしていじめを受けてきた心の傷、人間不信の様なものが起こり始めていて、「こんな事をしたら怒られるんじゃないか…。嫌われるんじゃないか…。またいじめられるんじゃないか…。」 …と常にまわりを気にしてビクビクしながら過ごし、常に教室内で緊張状態にあった。だからものすごく疲れた。それが学校に行ったり行かなかったりの原因だったと思うが、教師やクラスメイトも親も「怠け」としか見てくれなかった。「好きな時だけ来てあとは休んでられるんだからいいよなー」…そんな陰口を聞こえるように言われたりもした。休みがちになると勉強も遅れ、余計に登校しずらくなっていった。また、休みだすとクラスの人が家を尋ねてくることもあったが嫌だった。その中には私をいじめてきた奴がいたり、内申書の点数稼ぎで教師に媚びているのが見え見えの奴等がいたからだ。中学二年の時は移動教室があったが、学校は「創立以来初めての全員参加」にこだわったようだ。「文化祭も体育際も欠席したのはお前だけだ!他の皆のことを考えろ!皆のために参加しろ!」罪悪感もあり、眠れずに当日の朝まで悩んだが結局行けなかった。登校しなければ卒業出来ないと教師から脅かされ続け、中学三年の時は環境の変化を求め、親に無理してもらい転校もした。元の学校の教師は問題児がいなくなるので喜んだようだ。しかし転校した先でも友達は出来なかったし、あまり意味はなかった。同じ市内の学校であった為、私が転校してきた事情を知っている人もいて、ここでも「いじめ」に遭った。遅れている勉強のことでからからかわれるのはしょっちゅうだったし、「勉強も出来ない、友達も出来ない、お前なにしに学校来ているの?」…など毎日言われた。長い登校拒否生活で体力もなくなっていて、体育の授業などは他の人についていくことが出来なかった。それも「いじめ」の理由になった。協調性がなく、集団行動が苦手なことも「いじめ」に拍車を掛けた。体育の授業や文化祭などではチームプレー、共同作業が義務付けられる。その手ことが苦手な私は、まわりの連中から「なぜ協力しない!お前は自分だけが良ければいいと思っているんじゃないのか?」…などと責められることがよくあった。修学旅行には無理して出掛けたが、ここでも教師達は「創立以来初の全員参加!」と自慢気だった。修学旅行は別に思い出もなにもない。ただ無事に終わったことだけが良かった。卒業が決まった三学期は全く登校しなかった。「卒業」だけが転校の目的だったので、もう無理する必要はないと自分で判断した。しかし卒業式には必ず出席するように教師から言われた。これもまた「クラス全員一緒に卒業、皆のためにも必ず来い!」と言われた。しかし私は「こんな仲良くもなんともない、嫌な思い出しかない連中のために、なんで卒業式だけ取って付けた様に出なければならないのか?」「自分自身のためならともかく、私をいじめてきた連中のためになぜ俺がそこまでサービスしてやらなければいけないのか!?」理解不能、「ふざけるな!」と思った。結局卒業式には出なかった。後に卒業証書を取りに行ったが、生意気なアホ教師から「今のままでは君には一生友達が出来ないよ…」等散々嫌みを言われた。「友達なんかいらねーよ!ボケ!」…心の中でささやかな抵抗をした。自分なりに頑張ったつもりだったが、まわりは「怠け者」「ズルイ奴」としか見なかっただろう。当時は「偏差値教育」の真っ只中であった。他の人達が徹夜で試験勉強している時、私は明日学校へ行くか行かないかで悩み、眠れない夜を何日も過ごした。自分でもなんのために学校へ行っていたのか分からない。高校は定時制に進学した。学力、出席日数共に不足していた私には定時制しか進学の道はなかった。私の世代は児童数が多く、受験戦争も過酷で中卒浪人になった人も多くいた。定時制でも進学出来ただけ恵まれていた。学区内にある普通科の学校は「不良が多く環境が悪い」との評判があったことや、知り合いが居ると嫌だったので都内にある職業科の学校へ進学した。

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