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岸和田学園

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岸和田学園

所在地 大阪府岸和田市
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社会福祉法人風土記<38>阪南福祉事業会 中 働く母親の声くみ24時間保育
マスコミは24時間保育を打ち出した八木保育所を応援し、認可しようとしない厚生省に批判的な報道が相次いだ
戦時中、国策の「特別錬成道場」と化していた岸和田の施設は、終戦後すぐに元通りの少年保護団体に復元した。
毎日のように戦災孤児と浮浪児を受け入れ最大200人にまで膨れ上がった。
「入所してくる子どもたちは栄養失調で骨と皮だけだった」と2代目理事長の永野孝が回想する。
食料も不足し配給米とジャガイモ、サツマイモ、大豆、コーリャンといったしろもの。
おまけに水不足。園内に7カ所井戸を掘ったが鉄分が強く、飲用・洗濯・入浴には不向きで、使えるのは1カ所だけ。
リヤカーにたるを積んで保母たちが牛瀧川まで水くみに行く日々が続いた。
そもそも職業を通して少年を更生に向かわせるという趣旨で始まった福祉施設なのに、作業そのものがない状態だった。
「このまま子どもたちを遊ばせておくわけにいかない」と考えた孝は、大阪府林産課に掛け合って、岸和田市河合町の山林を買って薪炭の生産に乗り出した。
山小屋を造り少年たちと泊まり込みで松の木を切っては薪を作り、炭焼きをした。
製材、木材の販売で財政基盤を支えた。
佐野職工学校(今の府立佐野工業高校)を卒業して岸和田紡績のエンジニアとして働いていた孝には、もの作りはお手の物。
園内の倉庫や保母宿舎を建設する際、保母たちと協力して砂や砂利を牛瀧川から採取し、鉄筋工事も自力で完成させたほど。
組織も時代の波に洗われた。
1947(昭和22)年の児童福祉法制定に伴い、翌年に少年教護院「岸和田学園」として認可を得て、さらに48年には財団法人の認可を得て、児童養護施設「岸和田学園」に生まれ変わり、52年に社会福祉法人となり現在に至っている。
「もはや戦後ではない」と政府が宣言した1955(昭和30)年前後から、繊維産業が伝統的に盛んだった泉州地域にも戦後復興景気の波が及んできた。
織機が「ガチャン」と1回音をたてて動くと同時に1万円の利益が出るという意味で「ガチャ万時代」という言葉が生まれたほどだ。
戦前から繊維産業は女工、女性労働者によって支えられてきた。
泉州地域も沖縄、九州、四国、中国地方の中学卒業者が集団就職する時代が長く続いた。
そうした女性たちはやがて地元の男性と結婚、母になる。
子育てしながら夫婦共働きをしないと生活が楽にならない。
「うちの子どもを預かってください」。ある日、岸和田学園に幼児を抱いた母親が相談に来た。
「いやいや、うちはそういう施設じゃないから。保育所で預かってもらったら」と断った。
1958年に施設の創設者であり父親でもある永野勇吉が死去した。
2代目理事長を継いだ孝は、働く母親の声を耳にして、地域の事情を調べてみた。
景気のいい工場では勤務が2部制、3部制で昼夜問わず機械が動いている。
ところが当時の公立保育所は午前8時半から午後4時半までの8時間保育で、早朝と深夜の勤務のある母親たちにとって切実なる悩みだった。
「これは放っとけん!」。
生活・労働実態を知ると、まず岸和田市長に市立保育所の保育時間の延長を要求しに行った。
いい返事はなかった。親譲りの短気である。
「行政に任せていたらあかん!」と自分の施設で保育所をつくろうと決意、「24時間いつでも開放の保育所」を合言葉に1967(昭和42)年、岸和田市今木町に「八木保育所」(定員80人)を新設した。
ところが思わぬ壁が立ちはだかった。厚生省が認可しないというのだ。
「保育所はあくまで児童の福祉のための施設。子どもの面倒を見られない母親は夜間まで働くべきではない」としゃくし定規の言い分。
孝は何度も上京して「地域の実情を考えたら、物価高の今、母親が働かざるを得ない家庭が多い。勤労者が安心して利用できる保育所であるべきだ」と地域福祉の理想を情熱的に説くが、平行線。
そんな激突を新聞、テレビが全国ニュースで報じた。
大半は八木保育所支持だ。
一躍有名になり、「厚生省の横暴に屈することなく大衆のために戦い抜いてほしい」など全国から激励の手紙が231通も届いた。
当初、無認可でスタートしたが、マスコミの応援もあって、3カ月後に認可は下りた。
補助金をもらうという妥協の産物で保育時間は午前6時半~午後8時となった。
ただ日本で初めての長時間保育を行う認可保育所として、歴史の扉を開いた。
翌年、国の施策に「延長保育」という言葉が出てきた。
岸和田の小さな保育所の先駆的な取り組みが保育行政を動かしたのだ。
「誰のための保育所なのか」「福祉とは何なのか」という孝の根源的な問いと権威におもねらない情熱とが、新たな現実を生みだした。
八木こども園の藤縄貴司園長(左)と妻の綾副園長
その八木保育所は現在、「八木こども園」となって51年目を迎えている。
藤縄貴司園長(47)綾副園長(47)夫妻をはじめ、25人の保育教諭が0歳から就学前までの乳幼児139人を午前7時~午後7時預かる。
「伝統的に音楽活動が盛んで、昨年まで合奏のマーチングバンド大会で子どもたちは張り切っていました。これからは新たな遊具を入れて広い園庭を活用していきたい」と藤縄園長は、少子化時代を迎えた次の半世紀の夢を描く。
  〔2018年07月12日 福祉新聞編集部【網谷隆司郎】〕

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