当事者が一人称で説明する辞典
当事者が一人称で説明する辞典
―『ひきこもり国語辞典』覚え書き
会報『ひきこもり居場所だより』2021年4月
(1) ひきこもり当事者が一人称で説明する辞書
辞書・辞典というものは、第三者の客観的な説明が基準といえるかもしれません。
しかし、ひきこもり国語辞典ではひきこもり当事者の一人称の説明を貫きました。
これは当初から考えていたことかもしれませんが、それなりの壁はあったのです。
私は不登校情報センターという居場所で生活をしていました。
そこに来るのは間違いなく不登校やひきこもりの経験者です。
彼ら彼女らの話や振る舞いはほぼ自動的に、ひきこもりのつながる言動です。あえて説明を要しなかったともいえるのです。
『ひきこもり国語辞典』の編集者はそうではありません。
ひきこもり当事者のものであると説明する必要を提起してきました。
私にとってはまさに意識の空白をつかれた提起でありました。
その結果、掲載しなかった見出し語を例示してみます。
「T字型」という見出し語。
<思春期から二十歳ぐらいまでの子どもが寝ている母親の布団に潜り込んでくるのはよくあるといいます。
でもうちは三十歳を超えた息子です。
私(母親)と話しているうちに私のおなかあたりに頭を置いてT字型の姿になって眠りこんでしまいました。
ちょっと安らいだ気持ちになったのでしょうね。>
これは母親から聞いたことですが、本人の気持ちになって言い表わすことができませんでした。
できるかも知れないといろいろ考えたのですが、当事者の気分になっての説明は難しく、こじつけがましくなります。
結局、掲載を諦めました。
さらにある当事者の言動を別の当事者が見た場合のことば(感想など)はどうでしょうか?
これも可能でしょうが、すべてができるわけではなさそうです。
「古株さん」という見出し語。
<フリースペースなどを長く居場所にしている人で、知らないうちにできている暗黙の習慣が分かるのでその場を差配するタイプです。
その場で特定なことを縄張り意識にする人がいたり、新参加者に暗黙のルールを持ち出して嫌悪感を表わしたりする人もいます。
その不文律の習慣を超えられるだけのものがないと、逆にこの先輩を煙たく感じてしまいます。>
居場所にやってきた当事者が先輩格の当事者を見た感想ですが、(当事者である)古株さんにはそういう意識はないので掲載しませんでした。
「巣をつくる」という見出し語。
<ぼくは、自分の好きなことを職業や働き方に生かすのが将来の生活基盤づくりになると思いました(うまくいっているかは別ですが)。
ひきこもり気味の彼女がいて、言い分を聞くと巣をつくりたいのではないかと感じます。
家庭という生活拠点づくりですね。
ぼくの生活基盤づくりと彼女の生活拠点づくりは似ているようですが何かが違います。
というか彼女の話を聞くうちにぼくは生活基盤づくりを考えていたとわかりました。
両方の合算が正解になると思います。>
このことばはひきこもり当事者でない男性がひきこもり系の彼女の状態を説明しています。
この見出し語も採用を断念しましたが、彼女の立場から説明することは可能かもしれません。
しかし、うまくいかず(間に合わず)採用になりませんでした。
ひきこもり当事者を一人称の主語にすることばの説明は、これらの壁を超えているものです。
そうはいってもそこが微妙な見出し語もあります。
以下の諸点を知れば想像できるでしょう。
(2) 客観的な基準 = 診断基準・適用要件・定義など
ひきこもりという社会現象を第三者による客観的な説明ではなく、一人称で説明することを言い換えると、個人的・個別的なもので説明するということです。
辞書・辞典と付くからにはそれはダメ、偏るという意見が出るかもしれません。
しかし、私はむしる逆ではないかと考えるのです。
個別的なものを通してしか一般的なものは表われないし、存在しないと思うからです。
理屈めいた抽象的な説明になるので、他の説明に変えましょう。
手元に『DSM―精神疾患の分類と診断の手引き』という本があります。
私が持つのは最新版ではなく1つ前の版です。
ここではさまざまな精神疾患の診断基準が示されています。
個別の人は誰もいません。
だから誰にでも基準になる一般基準です。
実例を引用しますが、なるべく診断基準が短い例を紹介します。
また古い版である点をお許しください。
<身体醜形障害 Body Dysmorphic Disorder
A. 外見についての想像上の欠陥へのとらわれ、小さい身体的な異常が存在する場合、患者の心配は著しく過剰である。
B. そのとらわれ方が、臨床的に著しい苦痛または、社会的、職業的、またはその他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。
C. そのとらわれ方は、他の精神疾患ではうまく説明されない(例:神経性無食慾症の体型およびサイズへの不満)。>
これは“醜形恐怖”を診断するもので、特定の誰かの身体・精神状態の説明ではありません。
これを基準にして目の前の人を医学的に診断する基準です。
ひきこもり国語辞典はこのような基準づくりではなく、理解するためのものです。
基準なら専門家の意見に基づく厚生労働省作成の基準がすでにあります。
この医学医療上の診断基準に似ていると思うものに、行政上の要件があります。
例えば、福祉行政において生活保護を受けるのに必要な要件などです。
こういう一般的な基準や要件に代わる、またはもっと個人状態を織り込んだ説明をしたい、そうでなければひきこもりとは何かがうまく伝わらない、そのためにひきこもりが理解されない・理解できないと考えてきたわけです。
医学医療の分野でもこの点を気にかけて提示されています。
山崎晃資さんは診断というとき、(1)病名をつけること(診断分類)と(2)診断フォーミュレーションがあり、 精神科医療においては(2)の「個別的記載が有用」とする診断フォーミュレーションが大事であると話されました。
<東京都・TOSCA主催の講演会でのレジメ>
実例をあげると子どもの暴力というよりも「完璧癖のある母親により拒否されている学齢期前の子どもの不安定性と攻撃傾向」、 依存というよりも「母親の過保護による極端な依存傾向」、 ひきこもりというよりも「厳格な父親に気に入れられようとして失敗した思春期前のひきこもり状態」 とする診断が大事であるというのです。
診断は病状や状態を背景・経過を含めて記述するのです。
*山崎晃資 (1937年―)は医学者、精神科医。専門は自閉症などの児童青年精神医学。
ここで中村雄二郎『臨床の知とは何か』(岩波新書、1992年)を引用し、意味を示しておきます。
個人的・個体的な説明の役割を深く説明していると思えるからです。
<《生きているものに関する事実は、無生物界の事実よりも高度に個人的である。
それだけではない。
生命(ライフ)のより高いあらわれに昇っていけばいくほど、生命を理解するためには、いっそう個人的な能力、いっそう立ち入った関与を含む能力、を行使せねばならなくなる。》
なぜなら、生命体の活動に関するわれわれの知識は、了解的な認識によらなければならないが、この場合はそれは非個人的な事実の用語では詳しく書けないからであり、そのギャップはより高等な生物になるにしたがっていっそう深まるからである。
さらにいえば、《生きているものの能力についてわれわれ観察することは、同種の能力への依拠と相呼応しなければならない。》
つまり、対象の持つ能力に応じた能力によるのでなければ、立ち入った観察や認識は不可能だというのである。>
(42~43pにかけてのポランニーの説明の引用)。
これは近代科学が客観性を追求するあまり見失ってきたことへの告発でもあります。
もちろん私にその批判に相当する力があるとは思えません。
ただ長くひきこもりに囲まれた生活を続けていたうちに感じ、それをつかみ取ろうともがいてきた結果、この認識に確信が持てるようになったという意味です。
*中村雄二郎 (1925年 - 2017年)は哲学者、明治大学教授。
*M.ポランニー Michael Polanyi (1891年–1976年)は、ユダヤ系ハンガリー人。物理化学者・社会科学者・科学哲学者。
(3) 話しことばと書きことば
Facebookのなかに『ひきこもり国語辞典』(2013年の手作り版)を次のように受け止めた書き込みがありました。
<ひきこもりが良い悪いという二元論のメディアが多い中、中立的な立ち位置のひきこもり辞典は、革新的だったと記憶しています。>
これは私の感覚とは少し違いますが、類似した受け止め方になります。
ひきこもりのいろいろな言動を否定的でも肯定的でもなく、当事者が示す表現から見つけようとしたのが私の方法です。
そして今回の市販版『ひきこもり国語辞典』でもそれは同じです。
当事者が話したことばの雰囲気をできるだけ壊さないこと、そのうえで意味が通ること、ここが基本です。
この場面では書きことばと話しことばの違いを意識せざるをえません。
それは容易なことではないし、たぶん完全にはできないと推測します。
ひきこもりの当事者本人が言ったことは基本的にそのまま表わすことができます。
そしてこの「表わすこと」自体が複雑なのです。
話しことばを書きことばにすることは、一種の飛躍があります。
とくに日本語のばあいはそうかもしれません。
二葉亭四迷が言文一致運動をしたことは中学か高校時代に教科書で習いました。
しかし、ことばコミュニケーションの中心が話しことばになる点に変わりはありません。
SNSが頻繁に使われ活字によることばコミュニケーションが増えている現在でもことばコミュニケーションの中心は話しことばといえます。
むしろSNS活字ことばの中に話しことばが進入・侵食しているといってもいいでしょう。
人が集まっている居場所においては、話しことばと身振り表現が圧倒的であって、書きことばの出る幕は限られています。
『ひきこもり国語辞典』に採用されたことばの中心も、話しことばを書きことばにしたものです。
そういう意味で書きことばとは(直接の本人が書いたもの以外は)二次資料になります。
一次資料とは話が交わされる居場所の現場というしかなく、便宜的にその場で採取したものも一次資料になるのですが、いずれ区別する必要が出てきそうです。
*K.ヤスパースは書かれたものを基礎にして相当に進んだ地点に到達したので、書かれた一次資料に基づく点を否定的にとらえることはできません。
ここで石川九楊『日本の文字―「無声の思考」の封印を解く』(ちくま新書、2013年)を参照にします。
石川さんは日本語において言文一致はありえない、といいます。
「日本語では、文(かきことば)を日常的にしゃべることはありえず、また言(はなしことば)がそのまま文(かきことば)になることはない」(116~117p)のです。
話しことばを書きことば・文字ことばにする場合は、補正が必要です。
そうでなければ意味が分からないことがよく起きます。
私が国語辞典に書き起こすときもこれは避けられませんでした。
元々の雰囲気や語感を損なわないようにしながら、意味が通るようにするのです。
これが編集作業ですし、私はそこに飛躍があるというのです。
言文一致ができないからです。
書いた原稿を読む形の話しことばはこれとは意味が違います。
ものを論理的に考えるタイプの人は、書きことばのように話しましますからこの飛躍は少ないのですが、それでも避けられません。
そして多くの場合これらも一次資料扱いになるでしょう。
『ひきこもり国語辞典』に採用したことばはそういう意味の一次資料です。
*石川九楊(1945年―)は、書家・書道史家。
(4) 感情表現、または活字と手書き文字の違い
説明においては感情表出を削りすぎないようにしました。
話しことばを書きことばにするとき、文法が働くので論理を中心に表現しやすく、感情表現は少なくなるからです。
さらに同じ文字といっても活字になった文字は手書き文字とは違い、絶対性を持ち、攻撃的なニュアンスを持ちやすくなります。
少し前に朝日新聞のテレビコマーシャルで、活字のもつ固定性や攻撃性を自覚しながら、事態を正確に伝える役割訴えているのがありました。
話しことばには一般的にはそのような性格が少ないのですが、活字には自然に備わってしまうのです。
以前に不登校情報センターは文通を仲介し多くの人が参加しました。
この時期に手書きの手紙と活字プリントした手紙の感情表現の違いを知ったのです。
書き文字には書く人の個性がより表われます。
文字の形、大きさ、文字の配置、筆圧などが相まって気持ちが乗り、人物が現われるのです。
活字でもいくぶんは可能で、字体、フォントなどに加えてカラーにし、絵文字を使うのはその工夫です。
しかし、手書き文字にはかないません。
書きことばでも活字と手書き文字では気持ちの伝わり方が違います。
感情、気持ちをことばで表わすことはかなり難しいです。
ことばにしたら何かが違う、そんな経験はあるでしょう。
感情、気持ちをことばにする、特に書きことばにするのはかなり難しいことです。
比喩的な言い方をすれば、雲を描くのに定規やコンパスを使うようなものです。
輪郭がはっきりすると行き過ぎた表現になるのです。
今回の『ひきこもり国語辞典』をまとめるにあたり、感情表現を削りすぎないようにしたのはこの理由です。
しかし、試みが十分に成功しているわけではありません。
他方では正確さ伝えるには活字が優れています。
感情の部分ではなく論理の部分を表わす傾向があるからです。
これらの話しことばと書きことばの役割に加えて、出版物では活字になりますから、これらの条件が備わると承知したうえで、国語辞典の作成に取り組んできました。
* 梅原猛さんは日本語の特色の1つに、ロゴス的なパトスがあるといっています
私はこれを認めるのですが、それでもこの部分を超えることはありません。
(5) エピソードを生かす点の困難
編集者からはある見出し語の説明が「エピソードだけになっている」と指摘されたものがいくつかあります。
オーバードーズ、リスカットなどです。
まず見出し語自体の意味を説明します。そのうえで、(多くは心の奥にある)何かを説明します。
ところがこれは複雑で個人差もあります。全体を書けず短い説明に納めなくてはなりません。
「オーバードーズ」の元々の説明はこうでした。
<夜間にオーバードーズ(薬の過剰摂取)の電話を受けることがあります。
処方された薬を一気に服用して自死を図るのがオーバードーズです。
深夜から明け方にかけての電話が多いです。
眠れないままあれこれの思いが浮かんできてうつが深くなるのでしょう。
眠ろうとして睡眠薬をのみ続けたはずですが、眠れないし薬はどんどん増えていきます。
電話があったのは三十錠を飲んだ頃です。
「何があったの?」と話しかけたら「嫌なことが浮かんできて眠れない、薬を三十錠ぐらいのんだ」と答えます。
話を聞き続けているうちにも薬の量は増えていきます。
「救急車に電話する」と言って、八十錠に近づいたあたりで119番に連絡できました。
「いま救急車に連絡した」、そして百錠に近づいたころ玄関で音がして救急車がきました。
「ありがとうございます」と言って電話は切れました。>
これが「エピソードだけ」の説明文です。
主語が一人称ではない、ひきこもりとの関係性が説明の中にない、そして説明が長い。当然直す対象です。
直して載せたのはこうです。
<オーバードーズ 睡眠薬を常用しています。押し寄せてくる自己否定感やマイナス感情から逃れるために、眠れない夜には処方された薬を大量にのむことがあります。
これがオーバードーズで自傷行為の一種です。救急車で運ばれたことがあります。>
ベストとは言えないでしょうが、改善はされています。
しかし、十分かと問うなら不十分です。
<リストカット 居場所帰りの夜に男女数人でファストフード店に寄りました。
そこを出たあたりでとても不安感が高まり、一人離れてリストカットしました。
ストレス解消のために手首を傷つける行動がリストカットです。
誰かが気づいて止めようとしてきます。
そうしたら男の人が追いかけてきて「やめな」みたいにいわれました。
ストレス解消を超えて周囲人にアピールする形になると問題が広がってしまいます。>
説明を短くしすぎたのかわかりにくいのか、私の気持ちの上では十分に満足はしていません。
しかし、それに代わる説明の仕方はいまでも思い浮かばないです。
このような未完成・未達成があることも白状しておきます。
(6) 嘘は書かない、事実に基づくこと
嘘は書かないこと。大げさにしないこと(大げさもまた嘘の一種です)。
未完成・未達成があるのですが、ことばを弄してそれを糊塗する方法を選ばないことにしました。
どこまで事実・真実に迫った書き方ができるのかは、私の洞察力にかかっているとわかります。
1つの事実を見てどこまでの背景や深さを推し量るのかは容易なことではありません。
当の本人だけではなく、同じような状況にあった他の人が示す反応などを思い浮かべながら、書きことばに変えていきました。
どこまでそれができているのか自分では確定できません。
読者はがきを含む出版後の反応を参考にするつもりです。
◆
『ひきこもり国語辞典』という曲がりなりにも国語辞典と称する辞典を一人の力で刊行することになりました。
もちろん、まとめにおいては担当編集者の役割は大きく、彼女がいなければこういう形にはならなかったことは確かです。
加えて、私の周りに集まってきてくれた非常に多数のひきこもりの経験者、半ひきこもり(ひきこもり親和層)がいなければ、何も始まらなかったことも確かです。
そういう事情を承知の上で、それでも最後の責任を負うつもりで、私はこの辞書をまとめ、監修者に収まりました。
手作り版のひきこもり国語辞典を作成したのが2013年4月です。
時事通信出版局から出版を承諾したと聞いたのが2019年11月です。
その時点からだけでも長い時間がありました。
ひきこもり国語辞典はいろいろな面から評価できると考えています。
今回はそのうちの1つを自分でまとめました。
作成過程で経験した一面を取り上げ、辞書としての特色を紹介したいと思うからです。
今の時点での読者からの反応は、献本した「この辞典作成の協力者」からの読後感想になります。
おもしろい、読みやすくて飽きない…というのが多いです。
手作り本を発行していた時期にも同じであったので、その理由はわかるような気がします。
けれども、今回はもう少し重いテーマも意識して加えています。その中でも男女間の愛情や結婚、死に関する言動、仕事に就く試み、は重い部分に入ります。
このあたりを「おもしろい、読みやすくて飽きない」ということで受け止められるかどうか。
「この辞典作成の協力者」だけではなく、他の多くのひきこもり当事者からの反応を注視したいのはそこです。
ひきこもり国語辞典について書くべきことはまだ多くあります。
しかし、それだけではなく、彼ら彼女らの手助けになる取り組みはこれからも続きます。 ■