Center:(14)「優柔不断であること」
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(14)「優柔不断であること」
優柔不断というのは、ものごとの判断・態度において、好き嫌い、賛否がはっきりしないことです。
私を囲んでいる引きこもり経験者の一面には、この優柔不断があります。
私が観察するところでは、彼(女)らの優柔不断というのは、彼(女)らの生活や性格の中心的要素というのではなさそうです。
いろんなことの結果としてそうなって表われる、それだけにその面だけを衝いても改善しづらいところがあります。
いろんなことのなかには、彼(女)らが受け身の姿勢を常態化していることがあります。
ほかの誰かが提示するのを待って、その責任の所在が自分にはないことが明確になったところで、そのときにまれに応じられるだけのエネルギーがあり、その提示されたことに多少の関心が向けば自分の感覚で動く――ただし、周囲の人からみるときの動きは小さいのでよほど受け取りのアンテナの感度がよくないとわからないことのある程度――だから態度表明がはっきりしないように見えることがあります。
上のことは「受け身の姿勢」に中心をおいて説明したものですが、同じことを、「表現のかすかさ」を中心において説明するとまた別のものになります。
さらに「責任の所在が自分にはない」のところを中心において説明するとまた別のものになります。
「少なくとも受け身の態度」「表現のかすかさ」「責任の所在が自分にはないこと」という3つが重なるわけです。
もちろん個人差がありますし、その態度表明を示されるものごとの性格や自分との距離、さらにはその日の体調や精神状況でさえも左右されるものですが。
「自意識過剰」の項も参考になるでしょう。