LITALICO
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ページ名LITALICO、、(、障害者のニュース、発達障害のニュース、人物紹介)
修学旅行でいじめ自殺、ショックで「不登校部屋」へ 私がコンサルになったワケ
省庁や自治体による雇用者数の水増しが明らかになり、障害者雇用のあり方があらためて問われている。
LITALICO(りたりこ)は「障害のない社会をつくる」をビジョンに掲げ、教育から就労支援まで、幅広いサービスを提供し、課題に向き合ってきた。
執行役員の深沢厚太氏は東大卒業後、大手コンサルティングファームに就職し、NPO設立、海外留学などを経て2016年、同社へ転身した。
高校時代から一貫して「教育」とは何かを問い続けてきた、ぶれない思いの原点に迫る。
LITALICO執行役員の深沢厚太氏
■子どもと家族の居場所をつくる
LITALICOは2005年に設立。
障害者の就労支援からスタートし、多様な社会課題の解決を目指して事業を広げ、10年余りで東証1部上場を果たした。
深沢氏は発達障害や学習障害の子どもに対する学習・教育支援を行う「LITALICOジュニア」の責任者を務める。
同事業の中心は、子どもの特性に合わせた教材を駆使しながらマンツーマンやグループでのソーシャルスキルトレーニングや学習支援を行うというもの。
全国に約100拠点を展開する。
発達障害児の支援の難しさは、その子どもが困っていること、苦しんでいることの見えにくさにある。
周囲の理解が不十分な環境では、物ごとの認識やコミュニケーション上の特性について「暴れん坊」「親のしつけの問題」といった言葉で片づけられてしまいがちだ。
「常に、子どもたちや家族の皆さんに居場所と思ってもらえる存在でありたい」と語る深沢氏。
そう力を込めるのは、居場所を無くした人間が、ときにどこまで追い詰められてしまうのか、身をもって知った経験を持つからだ。
■修学旅行で経験した悲劇
高校生のとき、修学旅行中にそれは起こった。
旅程も半ばに差し掛かったある日、大型バスで高層ビル内のレストランへ移動。
同級生とそろって食事をしていると、周囲がどこからともなくザワザワとどよめき始めた。
「誰か飛び降りたらしい」「え、どういうこと?」――。
断片的な情報が飛び交い「初めは様子が分からなかった」。
少し経ってから、飛び降りたのは隣のクラスの男子生徒だったことが分かった。
男子生徒はそのまま、帰らぬ人となった。
「かろうじて名前と顔が一致する程度の面識しかありませんでしたが、とてもショックで。事情を知る友人に理由を聞いたところ、彼はクラスでいじめに遭っていたのだということが分かりました。自分と同じように入学して学校生活を送ってきた彼が、どうしてその道を選ばなければならなかったのか。彼の気持ちをたどりたい一心で、不登校の生徒が出入りする校内の教室に顔を出すようになったんです」
■仲間との出会い
その部屋は、いじめや精神面などさまざまな事情でクラスになじめない生徒たちのために設けられたものだった。
サッカー部に所属し、同級生からはどちらかといえば活発な性格として知られていた深沢氏だったが、意外にもその部屋に“居場所”を見いだすことになる。
「初めこそ『なんだ、こいつ。不登校でもないのに』という目で見られたし、僕の方も偏見がなかったと言えばウソになる。でも、何度か出入りするうちに、1対1の人間として分かり合えるようになっていきました」
「社会や教室で与えられる一律の物差しになじめなくても、自分は自分らしくいていい。僕自身、懸命に周囲の空気を読んではいましたが、いわゆるスクールカーストといわれるような独特の学校の人間関係に、息苦しさを感じていた部分があったのだと思います」
そこで友情を築いた仲間たちは、高校卒業後も定期的に連絡を取り合う仲になった。
共に輪に加わったある教師からも大きな影響を受けたという。
「クラスの担任ではなく、倫理の授業を受け持っていた先生でしたが、その教育姿勢を心から尊敬しました。僕は高校卒業後、大学進学といういわゆる普通の進路を選びましたが、フリーターをやっている仲間もいたんです。けれど先生は、一人ひとりの進んでいる道を否定したり、裁いたりすることを絶対にしませんでした。その代わり、口癖のように『どうしてそう考えるのか』と問いかけてくれた。そして僕たちが答えると『そうか、そうか』とただ受け止めてくれたのを覚えています」
自分は、他人と違っていい。そう認めてもらえる場所だった。
それと同時に、自ら命を絶ってしまった彼も「ここに来ていたら、助かったのではないか」と感じた。
自分が触媒になって、そんな場を増やしていく道もあるのかもしれない――。
ぼんやりと、教師という道を思い描くようになったのはその頃のことだ。
教育の魅力は相手にも自分にも変化を起こせることだと語る
■「教壇に立つ資格があると思えない」
しかし、結果的に教師にはならなかった。
大学卒業後は、マッキンゼー・アンド・カンパニーの経営コンサルタントという道を選択する。
深沢氏は、当時の心の動きを次のように振り返る。
「大学4年のとき、教育実習で初めて教壇に立ちました。ところが、単純に全く面白くなかった。決められた教科の内容をティーチングすることには関心が持てなかったんですね。教壇の上から数十人の生徒を見下ろしたとき、自分がそこに立つ資格があるとも思えなかった。20代もそこそこ、人生経験も乏しい僕が、彼ら一人ひとりと向き合うことはできないのではないか。であれば、教師にはなるべきじゃないな、と」
とことん自己分析をするのは前出の恩師の影響が大きいが、大学時代にイギリスへ留学した際、寮で相部屋になったスウェーデン人学生からも刺激を受けた。
「彼は僕に、大学で経済を学びたいこと、そしてその理由は、将来銀行員になって国の発展に貢献したいからであるということを、理路整然と説明してみせたんです。漠然と教育に携わりたいと考えながらも、将来に対して明確なビジョンを持てていない自分が恥ずかしくなった」
長らく新卒一括採用の慣習が続く日本では、まずは初めに就職した先で一定期間、経験を積むべきだとする“石の上にも三年”の意識がいまだに根強い。
しかし、深沢氏にその発想はなかった。
ビジョンにまっすぐでいたい。当時感じたその思いは、今もキャリアを貫く芯になっている。
■自分にとっての“教育”を実践できる場所
教育の何が魅力か。改めて自分に問い掛けたとき、「目の前の相手と向き合うこと。それによって、相手にも自分にも変化を起こせること」という原点を確認できた。
その上で視野を広げてみれば、自身の考える教育とは、必ずしも教室の中で行うものではないことに気付いた。
「就職活動にあたり、いろいろな業界の情報を集める中で、コンサルティングも人を変える仕事だと考えるに至りました。例えば、自分のアクションによって経営層が変われば、その先にいる何百人、何千人もの社員の行動や思考に影響を及ぼすことになる。安易な考えと思われるかもしれませんが、当時の僕にとっては、自分の中で筋が通った実感があったんです」
マッキンゼーの採用面接で、真正面からその思いをぶつけた。
「君、変わってるね」。初めはそう首をかしげていた採用担当者も、熱心な深沢氏の決意表明に、だんだんと顔色を変えた。
「いいじゃない。コンサルタントとして経験を積んでみたら」
教育への志を胸の片隅で燃やし続けながらも、「それまで思い描いたこともなかった」業界でキャリアの一歩を踏み出した深沢氏。
その経験が、理想を形にするスキルの習得につながっていく。
〔2018年9/12(水) NIKKEI STYLE(ライター 加藤藍子)〕
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