日々勉強させて頂いております
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マゴット(滋賀県在住、文通ボランティア希望)
私は現在24歳で、統合失調症とアスペルガーと診断されています。
チック症状やうつ症状、解離症状もあります。
最近は広い意味でのPTSDもあると言われました。
受けた傷は、精神的虐待、いじめ、セクハラ、性的虐待、セカンドレイプ、などです。
生きていくのは難しいし、本当に大変なことだと思います。
保育園に通っていた頃、同じバスに乗る小学生の女の子から暴力を受けていました。
「お前は馬鹿だ」というようなことを延々と描かれた手紙を渡されたり、髪の毛を引っ張られたり膝を抓られたりしました。
何度も同じ場所を抓られたせいで、今もその痕は右膝に残っています。
誰にも言えませんでした。
耐えきれずに出てきた言葉は「保育園に行きたくない」でした。
それを聞いた母は怒って、理由を聞きましたが、私は何も言えませんでした。
よく考えるようにと言われ、泣きながら朝を迎えると私の朝ご飯はありませんでした。
母からは口も聞いてもらえず、話しかけても無視されていました。
父も怒りました。
ごめんなさいと謝っても許してもらえず、私は自分の部屋に逃げ込みました。
父は部屋のドアを乱暴に開けると、私を引っ掴んで外に放り出しました。
そのすぐ後に何故か1足のサンダルが飛んできました。
私が保育園に行くという意思表示をするまで、中に入れてもらえませんでした。
暴力を受け続けて一年くらい経った頃、膝に大きな痣ができました。
それを見た母がどうしたのか私に聞いて、私は本当のことを言ったそうです(言ったそうだ、と曖昧なのはその時の記憶が全くないからです)。
母は保育園の先生に相談しました。
その結果、私はバスの時間をずらして帰るようになりました。
女の子には誰も何も言わなかったそうです。
保育園で熱を出したことがありました。
誰にも気づいてもらえず、走るのが遅い、もっと元気よく、と注意されました。
あまりにも私の様子がおかしかったのか、お昼頃に早退させてもらえることになったのですが、保育士さんは迎えに来てくれた母に「スカートなんか履かせるから熱が出るんだ」と責めたそうです。
私は給食を食べるのがとても遅く、みんなが食べ終わって遊びに行った後も、まだ食べて終わりませんでした。
保育士さんは残ったおかずやご飯をひとつにまとめて、私の口の中に流し込みました。
いつからか忘れてしまいましたが、従兄弟に性的な嫌がらせを受けていました。
トイレのドアを開けて、何度も覗かれました。
写真を撮られたこともあります。
それを見ていた祖母は笑っていました。
母に言っても聞いてもらえませんでした。
小6まで続きました。
20歳を過ぎてから従兄弟の母親に言うと、「なんでもっと早くに言ってくれなかったの?」と責められました。
両親の友達には胸を掴まれたりやお尻を触られたりしました。
卑猥な言葉をしつこく言われたこともあります。
それも中学に入るまで続きました。
父とは小学校を卒業するまで一緒にお風呂に入っていました。
いつも母になにか言われて、落ち込んでいるように見える父をかわいそうに思ったこともありますが、本当は嫌だと言えなくて断れなかった、というのもあります。
従兄弟とも小6まで入らされていました。
小学校、中学校と同じ人にいじめを受けていました。
周りの人達は、またやってる、というような認識でした。
先生方が注意をしてくれたのは、私の名前と一緒に悪口を教室の壁に書かれた時と、死ねと言われた時だけでした。
両親にも毎日訴えていたのですが、2人とも深刻には捉えていませんでした。
中学に入ると摂食障害になりました。
標準よりほんの少しだけ痩せていた私の体重は10kg落ちました。
食べたくてもどんなにお腹がすいても、太る、という恐れが常にあってほとんど食べられませんでした。
学校の冬は寒くて、特に、冷蔵庫だと例えられるほどの冷たい体育館に集まらないといけない日は、痩せている上に食べていないから、本当につらかったです。
いつもは36℃以上はある体温が、35℃以下になったこともありました。
中1の秋頃に初めて通い始めた思春期外来がある病院では、体重を計って、その感想を私が言って、それだけで終わりでした。
そして、いつも私の話は聞いてもらえずに、食べろ食べろと言われ続けました。
私ばかりが責められる、そんな病院は本当は行きたくなかったけれど、私はとても悪い子だから、言うことを聞かないといけないと思って半年以上は通っていました。
中学2年生の夏休みに、母が泣いてもうあんな遠い病院には連れていきたくないと言いました。
父に「お母さんに優しくしないといけない。侑子は元気になってきたし」と言われました。
その頃には、無茶食いや隠れて食べていたせいで、体重は5kgほど増えていました。
誰も私の病気をわかろうとしてくれなくて、母は私のことを難しい子だとよく言っていました。
親戚には反抗的、厄介だとも話していました。
自分(母)が反抗できなかったから、あれ(私)が代わりに反抗してる、とも言っていました。
思春期外来に行かなくなってから、手首を切るようになりました。
思春期外来の先生は、私の自傷行為を否定していたので、ある意味解放された気分でした。
保健室の先生は、自傷行為をする意味がわからないと言いながら、必ず「(切りすぎて)死ぬなよ」と言いました。
その先生の前で、過換気症候群を起こした時は怒鳴られました。