Center:132-「貨幣経済と社会」との対比
「貨幣経済と社会全体」との対比
〔2011年5月22日〕 宮城県知事が「水産業復興特区」として、魚業協同組合が管理している漁業権を漁師以外に株式会社などにも開放しようと提言しました。 それにより漁業の再生と再建を図るというのです。 漁師町育ちの私にとっては遠く離れた都会に長年すんでいても、ちょっと不安感を持つ提案です。 漁師町には魚介類を取って販売する以外の生産・経済活動、人々の社会福利に関する役割、自然保護機能があります。 確かにそれらは煎じ詰めれば、漁業の継続と発展につながるものですが、それに限定はされません。 大きな会社組織が漁業に乗り出せばどうなるのか。 海岸や漁港を整備し、海水の汚れや赤潮対策なども機動的・組織的に資金を投入して見栄えのすることをしそうに見えます。 漁獲高も上がるかもしれません。 漁業資源を取り尽くさない対策をそれなりに講じるかもしれません。 ただ鮮やかに経済性が発揮される危険性を感じるのです。
漁師町は数百年、それ以上の年月をかけて出来てきたものです。 地域の行事や慣習の中にそれを継続する方法や対策が無理なく、生活現象のように溶け込み、結びついています。 大きな組織にはそれは非効率で見向きもされない、ときには衰退させてしまうのではないかと危惧します。 魚貝類が取れなくなれば経済法則として撤退します。 他により効果的な漁業基地が見つかれがその漁師町から離れます。 それだけではなく長年その土地の条件に沿って少しずつ積み重ねられてきた社会を壊したまま打ち捨ててしまいます。 法律的な責任は生じないでしょう。 だからこそ不安は大きくなります。 これは経済原理によるものですが、社会の運動法則でもあります。 大きな繁栄は絶滅に直結します。 漁師町が続く限りそのようなことは起こりません。 それが決定的な違いです。
貨幣経済はこの地域社会に生産高、消費高、資産などの経済指標を持ち込みました。 漁業を漁師町という視点から見るなら、それらの経済指標はある真実を表わします。 それは一つの社会の全部を表わすものではないし、漁師町にとっては最も重要な要素に関する指標ともいえないでしょう。 知られた指標以外にその役割や意味を表現する比較可能な方法がないだけなのです。 じつは同じことは近代科学に関しても感じるのです。 ただ近代科学は、真実の事情把握においては経済指標のような役割とは相当に違います。 それでもその有効性と限界性を同時に感じるのは共通しています。 人にとって処理しやすい部分を科学という名で吸収したものは、共通理解の基盤をつくり、広く利用され、人間に大きな福利を与えるものでした。 しかし、人間が科学の範囲で処理しづらいものが残っています。 その残してきたものを無視しえない事情を無視してはいけなくなった、そういう時代が来ました。 というよりも処理しづらいものが有効な材料として科学の外側、科学の底にもう一回りの理解の仕方を設定する時期が近づいているのです。 人間はそれをこれまでは取り扱い困難、混沌としたものとしてどこかでわかっていながら横においてきました。 なかには放置され破壊されたものもあるでしょう。 それを取り扱おうとする一つの視点がシンクロニシティです。
宇宙的な超巨大なものを取り扱うのは人間です。 宇宙と人間というこの対比の広きには驚くしかありませんが、実はそれしかないのです。 人間にとって身近な周辺事情から大宇宙までを知りうるのか感覚です。 それに基づく近代科学により人間は周囲の世界を理解してきました。 現代の特徴は、電子顕微鏡や電波天文台のような高度技術により感覚器は驚くほど補強されています。 それでも身体の一部を構成する感覚器により事態が把握されることに変わりはありません。 この感覚器官がとらえる微妙なものを経済指標や近代科学の外側に補強しなくてはならない。 ある規則性のある受入れ基盤を設定しようという試み、それをシンクロニシティ概念から取り組んでみようというのです。 経済活動を示す経済指標でさえも、人間が知りうる大きな範囲ではその一端をしめるに過ぎません。 では何によって経済指標を超える全体がわかるのか。 これへのアプローチは、人間が周囲の状況から宇宙の様子を知ろうとするときと似ています。 どのような手がかりがあるのかを探るアプローチとある意味では重なると思えます。