Center:123-シンクロニシティ概念の調査方向
シンクロニシティ概念の調査方向
〔2011年4月17日〕
科学(science)は、ヨーロッパのキリスト教世界が近代を迎えるとき、神(God)はこの世界をどのように創造しようとしたのか、
神の意志を詮索するところから始まったと聞いたことがあります。
神の意志はやがて「自然における法則」に取って代わりました。こうして科学が誕生したのです。
シンクロニシティ(共時性)を考えるときも似た経過をたどるかもしれません。
宇宙はどのような仕組みになっているのかの詮索から始まるように思います。
「宇宙」といっても私たちはほとんど知りません。
大宇宙はもちろん、太陽系が属する銀河系さえも、天文学者がごく一端を明らかにした程度のものです。
宇宙の仕組みも、結局は地球の理解を拡大したものと、その理解を超える“若干の”事情で満足するしかありません。
これがおおよその宇宙の理解のしかたです。
宇宙と地球のあいだの空白は今後の人類の課題として残るのです。
ところで、理解できているはずの地球もまたごく一部を理解しているだけです。
地球について人間の知っていることは限られています。
ここでは立場を変えて見るしかないのです。人間が知りえた範囲の地球と宇宙から問題に近づくしかないのです。
結局は、多少とも論理的、合理的にものごとを理解しようとする人はそうするしかないし、その限界というか特殊な位置をわきまえて事態を展開することが必要なのです。
神の意志を詮索しようとした当時の人と同じようなものです。
シンクロニシティの概念を、勝手放題ではなく、ある機構の中で規則性を持って使えるようにもっていくこと、
言い換えればそれを系統性のある認識論に成り立たせ作業は、このようなポジションにいるのではないでしょうか。
さいわいなことに、ごく一端が明らかにされたにすぎない天文学や物理学上の知見は、宇宙に理解に役立ちます。
生物学の一部になる人類学は、地球生物学の範囲を超えることができないのとは対照的です。
人間が物理学的な知見として知りえた力を種類分けすると、重力(万有引力)、電磁相互作用(電力など)、強い力、弱い力の4つに分けられますが、
もしかしたら単一のもの(1つの数学式で全体を表せるもの)にまとめられるのかもしれません。
この理解が示すことは、宇宙という場における物質と空間とその間に働く作用です。「場の理論」といえます。
世界=宇宙は、物質と物質間の空間で成り立っています。
物質は(星も)離れて独立しているように見えても、目に見える力で互いに影響しあい、さまざまな状態で結びついています。
この物質、空間、力が作用する世界が、すなわち宇宙という場です。
大宇宙にとっても、地球にとっても、もっとせまい町や事業所や実験室においても共通します。
ここに人間が加わります。人間は自然の一部であり、地球においては最大の影響力を持っています。
しかし自然の作用を大きく超えることはできません。
自然のもつ法則性を理解することにより自然を最もよく利用することができる立場にいる精神活動が高等化した動物です。
人間はその面で突出していても他の面は違います。動物の特徴である動く力は魚類には及ばないといいますし、空を飛ぶ行動は鳥類に及びません。
体型、体格はせいぜい数十万年前に現われたばかりの未完成な姿です。
腰痛になりやすいのは大きな脳をもち直立二足歩行を実現するために無理な姿をつくり上げているためといいます。
その人間のいる世界は、大宇宙の場(物質、空間、力)の影響の下にありながら、日常的にはそれらを無視する程度の小さなものに扱っています。
むしろ人間同士が集まり、その場が独自に生み出す力=エネルギー(これは場としては宇宙と変わらない)のなかで格闘しています。
人間のエネルギーは、戦争や政治や経済活動に向けられます。しかしまた芸術や科学や娯楽やその他のことにも向けられます。
それぞれにおいて独自の作用があり、その範囲において規則性や法則性が生まれます。その一部は現代科学の知見に入っています。
その人間同士の集まる場が、宇宙の一端にある地球の作用などということは、日常的には無視できるか無意識に折り込みずみのこと以上ではありません。
そうはいいながら人間はそれらの影響下にあり、その作用がある場面では日常的に、別のある場面では特徴的に表出します。
シンクロニシティとはそのようなもの、少なくともその構成要素ではないかと思えるのです。
決して根も葉もないものではなく、ただ人間の関心や想像力のかなたにあり、知識や理解に欠けるから“わけのわからないもの”に仕分けされているものではないのか。
そうはいいながら、この未解明な分野にすでに着手した人たちがいます。
そう考えて調べて見る価値はありはしないか。価値あるものが潜むのは荒唐無稽や当てずっぽうに満ち溢れた荒野に例えられます。
宗教と信仰(いわゆるアニミズムやシャーマニズムを含む)、伝統的な医療技術、感覚・感情表現としての芸術や技術、自然と“交信している”のではないかと思える人間(精神病者、子どもなど)、
これに東洋の思想も加えてもいいでしょう。
おそらくはまだ他にもあると思います。それらが全部同じ言葉で説明できるのものではないでしょう。
それは科学の誕生における乳児期にあたるものでしょう。
もしかしたらユングははるか先までも見ていたのかもしれません。全く別の方向に進んでいたのかもしれません。
私にはそれはわかりませんが、いまはこのような考えが浮かんでいるところです。
ニュートン力学は量子力学の誕生により、相対化され、物理学の新時代を迎えました。
科学もまた西洋科学が相対化され、新時代を迎える時期に入っているのかもしれません。