Center:2001年2月ー若者は何を表現しているか
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若者は何を表現しているか
〔『ひきコミ』第3号=2001年3月に掲載〕
若者は何をききたいのか
1月20日、日曜日。夕方から深夜にかけて3人の若者からの電話を受けた。 5時すぎに、20代の正雄君。「聞いてくださいよ!」と叫ぶように始まった。しっかり者の妹とふらふらしている自分。これまでずーっとそうだった。わかっている、自分なりにがんばっている。今年に入ってからもある会社にバイトに行っている。そこでずっと働きつづけるつもりはないが、いまはそこが自分を試す場になっている。 妹は順調にきて大学入試を控えている。その妹と比較され、自分なりにがんばっているのにちっとも認めてもらえない。「出ていけ!」と邪険にされている。 興奮気味に話しているので、話の筋道にわからないところもあるけれども、怒りと悲しみが一緒になって訴えかけてくる。途中で嗚咽、しゃくりあげて涙声になり、聞いているうちにこちらもたまらず涙が出てきた。 7時すぎだったろうか。女子大学生の和子さん。「和子です。すみません、とても不安定で……」。「どうしたの」。「ひとの声が聞きたかったんです」。「そうなんだ。いつでも電話してきていいよ」。「ありがとうございます」……この間ほんの2、3分。 夜11時頃。電話の主は20代の通信大学生美和さん。どういう話から始まったのかは忘れたが、約30分余、ずーっと話がつづいていた。人は怖いけど、それでも少しずつ努力して強くなろうとしている。父が怖い。いつ襲われるのかびくびくして安心して眠れない。父はひどい、ずるい。母の話、おじさんやおばさんの話、祖母の話、父の商売がうまくいっていない。そのうえに女をつくっている……。 彼女はいったい何を言いたいんだろう。たぶん何を言いたいのかはっきりできず、とりあえず怖さ、苦しみ、悲しみを思いつくまま口にしているのだろう……か? 3人に対して私は何もできない。アドバイス的なことは意味はない。悲しみと苦しみを受けとめるには理屈めいた言葉は底が浅く、そんなものはない方がよいとしか思えない。 この3人の若者たちの状態は、決して例外とは思えない。非常に広範な日本の若者たちに共通していることだと思う。 若者たちは追い込まれている。ある人は親の考えている道筋から「1ミリでも外れたら」矯正されてきたとも言った。親のレール、安全地帯に囲まれた道の中央を真っ直ぐに進むことを求められる。ゆれて歩くこと、停止して周りを見渡すことは許されない。 そういう成長をしてきて、いざ、ポンッと一人おかれると、自分に自分らしいと思えるものが見つからない。若者たちのいまの感情は、自分が見つからないことによる、怒りと悲しみ、不安ではないだろうか。 そういう若者のある部分は、投げやりになったり、死んだっていいやというあきらめにもなる。よく考えてみると、それはいのちをみつめているだけのすごさもかねそなえている。
いのちを伴って訴えていないか
神戸で少年連続殺傷事件があったとき、大人はその背景が理解できなかった。14歳の少年に秘められた「闇」を大人たちは、人間の感性として自分と重なる部分を見いだせなかった。それはある種、異文化の中のできごとできわめて特殊なことだった。ほかならぬ私自身がそうだった気がする。 しかし、当時からこの少年の同世代の子どもたちは「わかる気がする」と言っていた。去年の秋ごろ、全国各地の祭りが荒れる傾向にあるという報道があった。身近にいる若者たちに聞いてみると、「自分にもそういう場では、何かが起きるんじゃないかと期待する気持ちがある」という答えが返ってきた。それは驚くほどの高い割合であった。 そういう話を聞くなかで、いま私にも、子どもと若者の気持ちが少し見えるような気がする。彼らの心は「いのち」に関わるほどのすごい状態におかれている。 「背水の陣」という言葉がある。戦闘において死力を尽くすために、絶対的な逃げ場のない状況に身をおいて、相手(敵)と向きあうのだ。若者たちはこの状況にいる。自ら選んでそうしているわけではない。逃げ場のない状態におかれ、見えにくい相手に対して、心のどこかに「死」を意識しながら向かいあっている。 見えない相手はとてつもなく大きくとらえがたい。その中でも比較的見えるのは自分の親。しかし自分の親がその見えない相手を形づくっている中心にいるわけではない。親がそれほどのものではないことはわかっている。 しかし、親以外のだれに向かって働きかけをすればいいのだろうか。わからない、見えない。親自身が見えない巨大な相手と完全に同一化し、自分に向かってくるような場合さえある。 いずれにしても彼らの多くは親に向かって、何かをするしかできない。こんなはずではないと思いながら、親に向かうしかなかった。それもたんに言葉や動きをこえた形で……。 日本の子どもたちは70年代の初めに「からだ」のおかしさという形で、社会のおかしさをアピールした。80年代にはいると登校拒否の増大という「こころ」の問題として、社会のゆがみをアピールしはじめた。 しかし大人は、それどころではなかった。子どもたちのアピールを矯正すべき対象として受けとめ、社会の大勢としては、問題にしてこなかった。 90年代にはいると大人(社会)自体が問題に巻き込まれ、火中の当事者になってしまった。その間に子どもたちはもう一段進んで「いのち」をかけて、社会のゆがみを提示し始めた。子どもと若者の自殺や殺人が目立つようになった。いや自殺未遂ともいうべきリストカットや意欲低下の広がり、殺意の広がりは、それが見える状態の人には、驚くべきほどのものになっていることがわかるだろう。
失敗しながら成長できる環境を
「いのち」の次に子どもと若者は何を示してくれるだろうか。このまま子どもや若者を追いつめ、それに勝利することは、要するに社会の崩壊になる。社会が自らの墓穴を掘ることになる。だから、次に来るのは、おそらく反転した明るさだろう……とひそかに期待する。 しかし、ことはそう単純ではないかもしれない。若者たちのおかれた社会状況をもう少し見よう。学校(中学・高校・だいがく)を卒業してからなかなか就職先がみつからない。企業は正社員として雇用するのをますます少なくしている。一方若者には「自分にあった仕事を見つける」「自由な生活を楽しめる」フリーター指向が広がっている。パラサイトシングル(親と同居をつづける成人)という生き方の広がり。学校卒業後も「資格取得」を目標とする準教育期間(社会参加のモラトリアム)の延長。そこにおける子どもたちの青年期の延長(子どもと若者の幼児化はその一面の現象に思える)。それら全体の基盤が豊かな産業社会日本。 このような社会の歴史的な進展のなかで事態を見ると、私にはいのちを呈して若者たちがアピールしていることに、どうこたえるべきかの全体像がわからない。新たな政治的・社会的なリーダーシップが必要なのだろう。 しかし、少なくとも子どもと若者に関わるところでは次のことは必要ではなかろうか。 (1) 子どもたちが安心して失敗でき、脱線したり、体をぶつけあって成長していける環境(大人の精神的余裕、地域の安全な環境)をつくること。 (2) 親たちが築き、いまあちこちで綻び、崩壊している「よい学校(学歴)、よい就職先」指向の人生コースを子どもに引き継がないこと。 結局、日本の未来に必要なことは子どもたち、若者たちが切り開いていくしかない。その切り開いていく力は彼らの経験であって、親や大人から言い伝えられたこと以上のものでなくてはならない。自分で経験していくエネルギーとエネルギーを発揮する場づくりが社会の役割だと思う。 よい就職先に納まっている若者たちよりもフリーターなどで未来をさぐりあっている若者たちのなかに、未来社会の基本をつくっていく力がひそんでいるかもしれない、と思えるから。