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体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(6)

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2014年3月10日 (月) 22:55時点におけるMatsu4585 (トーク | 投稿記録)による版
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目次

引きこもり模索日記(その6)

著者:森田はるか(男性・東京都) 

誤解を助長する言動は困る

 この頃、私は他のいろいろな「引きこもり」の集まりにも参加していた。
しかしどこに行っても中心になって参加しているのは同じ人達が多かった。
引きこもりの世界は広いようで狭く、活動しているのは結局一部の人達だけということか…。
いろいろな集まりが出来て、自分に合う集まりを選択出来るようになったのはよいことだと思う。
またいろいろな集まりに参加して、人間関係を広げるのもよいと思う。
しかしあっちこっちの集まりに参加して、居心地がよくなり、引きこもりを肯定するような考えを持つのは間違っていると私は思う。
「引きこもりの人の中には入っていけるが、一般の人の中には入れない…」「第二次引きこもり状態」の人も多いと聞く。
私は「第二次引きこもり状態」が悪いとは思わない。経済的に問題がなければときどき家から出て、友達がいれば「引きこもり」でもなんら問題はない。
「本人がどこまでの回復、社会参加を望んでいるか…」が問題だが、多くの「引きこもり」の人は経済的自立を目指していると思う。
引きこもりの人の中には生活保護や障害者年金を受けている人も少なくはない。
私はこれを否定できる立場にはない。
しかしこの生活保護や障害者年金が正当に生活費に遣われているなら文句もないが、この金をゲームやパソコン、携帯電話代など小遣い変わりにしていたり、挙げ句はパチンコや風俗代に遣っているような人もいる(食欲よりも性欲が勝っているような人には文句も言わないが)。
「自称引きこもり」の人の中には私から見てまるで危機感のない人、ただの遊び人、怠け者も存在する。
引きこもりへの無理解、偏見を助長するこういった奴等に私は強い憤りを感じている。
そうゆう人達の生き方を否定はしないが「引きこもり」を名乗ってほしくない。
「引きこもり」の定義が難しいのだが、広い意味で「引きこもり」をとらえれば学校でも会社でも人は皆そこに引きこもっていることになってしまう。
糞も味噌も一緒にするのはやめて欲しい。
こういった想いは医者やカウンセラーには分からないことだと思う。
実際に引きこもりを経験して、無理解や偏見に苦しんだ人間にしかわからないことだ。

O君は苦労して働き始めた

 「人生模索の会」立ち上げに協力してくれたO君はその後就職活動で何度も断られ、数十社目でようやく就職出来たらしい。
しかしやっと就職した先では人間関係に悩みすぐ退職。
それを繰り返し、数社目でようやく落ち着いたようだ。
O君は「俺が苦労して貰った給料から税金が引かれて、引きこもりでのうのうと暮らしているような奴等の生活保護に遣われているのは許せない」…と言っている。
確かにO君は自分の努力で就職し、就職してからも決して順調ではなく苦労しながら頑張っている。
O君は偉いと思うし、言い分もよくわかる。
しかし生活保護や障害者年金を受けている人は必ずそのリスクを背負っている。
労働の意欲がなくなるため、社会復帰がより遠のくという話や生活上さまざまな制約があることを受給者から聞いたことがある。
本当にその人達を羨ましいと思うなら皆それを受ければよいのだ。
生活保護や障害者年金を受けて引きこもりを肯定するような活動をする人には疑問も感じるが、そうゆう人もいなければ、自助グループは成り立たないという難しさもある。
仕事を持ちながらの自助会の運営は時間的にも精神的にも負担が大きい。
しかし引きこもりの経験者にしかわからない思い入れが自助グループにはある。

 「引きこもり」を相手にした施設も多くなったが、引きこもりの当事者を実名でテレビ出演させるなど理解に苦しむことをしている。
これは施設の宣伝に利用しているだけで、まったく引きこもり当事者のことを考えていない。
テレビ出演して「引きこもりから立ち直った…」みたいな報道は勘違いもはなはだしい。
家から一歩も外出出来ない人が施設にまで通えるようになるのは大変な進歩かもしれない。
しかしそこから先、就職して経済的に自立することはそれ以上に困難なことだ。
この不況の時代、就職難の問題は引きこもりの人に限った問題ではない。
私は就職活動で引きこもり経験はいっさい隠している。
履歴書には引きこもりによる空白期間は詐称している。
もちろんこれはいけないことだが、何年も引きこもっていた人間や、いい年をしてなんの職歴もない人間をなんの問題ともせず雇う企業、人がいるだろうか?
そんな企業や人はいない。
自分の経験をカミングアウトして就職活動や仕事が出来れば、後ろめたさもなくなるし、楽かもしれない。
しかしそれは甘えだと思うし、とてもではないがそこまで一般に「引きこもり」はよく理解されていない。
振り返りたくない暗い嫌な過去。
前だけを見て前進したいと思っても、過去は一生ついてまわる…。
映画「砂の器」の心境だ…。

 「フリーター」もとかく悪く言われるが、好きで「フリーター」をやっている人ばかりではない。
景気が向上して雇用が拡大すれば「引きこもり」の問題も「フリーター」の問題も少しは改善されるだろう。
政治家にはなんとかして欲しいものだが、この不況の時代に若者の「引きこもり」は都合のよいものなのかもしれない。
どうせ仕事はないわけだし、だからと言って暴動を起こされるよりは引きこもっていてもらった方が政治や社会にとっては都合が良いだろう。
リストラされた中高年のおじさんは自殺していく。
怒るべき人達のエネルギーは外には向わず、内側で自爆してしまう。
「勝ち組み」「負け組み」と言われるが、結局弱い人間が淘汰される時代ということか…。

ホームヘルパー講座に参加

01年春、私はホームヘルパーの講座を受け始めた。
就職するために何らかの資格を持つことは有利だと思ったし、これからの高齢化社会、介護保険の導入などで有望な資格だと思った。
また「人生模索の会」で知り合った人や文通友達にもこの資格を持っている人がいて、「仕事になるかどうかは別にして、とても勉強になる講座」…と勧めもあり、期間や学費も手頃だったので受けてみた。
地元の市民会館で開催される講座で、他の受講者はほとんどおばさんだった。
私はここで知り合いを作りたくなかった。
三十歳を過ぎたフリーター男では周りからろくな奴と思われないだろうし、近くに住む人に自分の素行を知られるのも嫌だった。
それに別におばさん連中と仲良くしたいとも思わなかった。
とにかくなにがなんでも通い通して修了書を獲ることを目標にしていた。
ホームヘルパーの講座は心の問題についての授業が多く、引きこもり問題にも共通するような授業でとても勉強になった。
しかし模擬実習ではコミュニケーションをとりながらの授業のため、嫌でも他の受講生と話しをしなければならなかった。
「これも勉強だ…」と思い、当たり障りのない会話をしていたが、年齢の近いお姉さん方数人とは仲良くなることが出来、飲みに行くような機会も出来た。
飲み会の席で、お姉さん方は自分達のこれまでの経歴を赤裸々に話し始めた。
中学卒業後、親に捨てられて単身上京し働きに出た話。
心や身体の病気、離婚や男に騙された経験など普通なら他人に絶対知られたくないと思うような話を自慢氣にしているのだ。
このお姉さん方はこれまで自分が背負ってきた全ての経験を今の自分の自信にしているのだろう。
私はこのお姉さん方を「すごい!」と思ったし、ショックを受けた。
精神的な強さで敵わないと思った。
私はまだ、自分ばかりが不幸で劣等感や引け目を感じ、一般の人達とは一線を引いて敵対する気持ちがあった。
しかし一見普通に見える人でも、人それぞれの人生を背負っていることを改めて思い知った。
結局、私はこのお姉さん方にも自分の経歴をカミングアウトすることはなかったが、私も自分の経験を「この経験があったから今の自分がある」…と思える時がくれば、引きこもりを克服したと言えるのかもしれない。

人生模索の会でのトラブル

 ホームヘルパーの講座を受け始めた頃から日程の都合上、私は「人生模索の会」にはほとんど参加出来なくなっていた。
その期間に不登校情報センターは大塚から新小岩の大検予備校の空き家を借りて移転した。
移転の詳しい目的を私は知らないが、大人数が集まる「人生模索の会」に対応したものでもあったと思う。
私は日程の都合もあったが、ホームヘルパーの講座などで引きこもり以外の人との付き合いも多くなり、引きこもりや「人生模索の会」の活動への関心も薄くなっていた。
それでも時々メンバーの人から連絡をもらい、「たまには顔を見せてくださいよ…」などと誘ってもらえると社交辞令でも嬉しかった。
そしてこの頃「人生模索の会」内にはある問題が起きていた。
「人生模索の会」に参加する「引きこもりではない人」がある女性にストーカー行為をしたり、引きこもりの人に対して脅迫行為を始めた。
この「引きこもりではない人」は以前から「ナンパ、遊び目的だけで来ている」…と一部で評判の悪い人物だった。
さらには会の存在意義についても「あそこに集まる奴等はお互いの傷を舐め合いに来ているだけ」…など、陰では悪く言っていたらしい。
(だったら来るなボケ!)
こういう人種は一般社会ではバカにされ、仲間外れにされるので、「引きこもり」のような攻撃的ではない人達の中で威張っていたい、優越感を持ちたいと考える最も軽蔑すべき最低な害虫だ。
私は脅迫行為を受けた人から話しを聞き、すでに警察にも相談へ行っているということから松田さんを交えて話し合いをした。
私は「そもそも引きこもりではない人間が来ていることに問題がある」と話した。
松田さんは「では引きこもりの人がこうゆう問題を起こした場合はどうなのか?」。
私は「仮定の話ではなく、今ある問題を話した方が良い」…と話したが、実際ナンパ行為等で問題になっているのは他にも数人いた。
松田さんは「これらの人を迫害するとその人達の行き場がなくなる」…と言った。
私は「<人生模索の会>は加害者とされる人を中心にして考えている会なのか? 被害者とされる人や引きこもりで悩む人の行き場がなくなっても良いのか?」…と話した。
しかし、いずれにしても松田さんは特定の人の受け入れを拒否するようなやり方は自身の意に反することのようであった。
この時、私が確信したことは、「松田さんはいろいろな生き方に対して理解のある人だが、それは決して引きこもりに対しての理解ではない。」…ということだ。
よく見れば松田さんは私などよりよほど視野が広く、大きい人だ。
しかし私には私なりの「引きこもり問題」や「人生模索の会」に対しての思い入れがあり、それが無視されたことは正直おもしろくない。
その後は「人生模索の会」をフリースペースにして、引きこもり専門の会を別の曜日に始める等の試みもあったが、うまく機能しなかった。

「新ファーストステップ」をよびかける

 01年の暮れにはこの問題から他のメンバーを交えたけんか騒動があり、「人生模索の会」は一時休止になる事態となった。
しかしこの「休止」の意味もよく分からない。
02年春に「人生模索の会」は再開するが、結局加害者とされた人物が来なくなっただけで、会則などの改善もなく、相変わらず引きこもりとは関係のない人や興味本位で来る人を受け入れている。
表面上「人生模索の会」は引きこもりの自助会になっているが、現状はそうではない。
「引きこもりに興味のある人、友達が欲しい人なら誰でもどうぞ」…の会である。
不登校情報センターは[引きこもりの人へ自立を促がす」というよりは「受け入れる施設」の方向へ進んでいる。
それはそれで悪いことではないと思う。
「ひきコミ編集作業員」はうまく機能しなかったようだが、書店を開くなど松田さんなりに「引きこもりの人の収入に繋がる社会参加の場作り」を模索してくれているようである。
しかし依存の強い人も多いので中途半端に面倒を見るだけだと逆恨みをされるだけだろう。
またこれらの施設には「引きこもりで商売するな」…という批判も聞かれる。
しかし「ボランティアで引きこもり問題を支援してくれる理解ある金持ち」などこの世にいない。
引きこもりを商売にすることを批判はしないが、金を取るなら責任を持ってやって欲しい。

 02年の春、「人生模索の会」のトラブルを期に、私はメンバー数人と「引きこもり限定の自助会」をセンター内で呼びかけた。
会の名称は「新ファーストステップ」、名称に特に意味はなく、「人生模索の会」の名称が重過ぎるという意見から、以前ある人がセンター内で立ち上げてすぐに休止した会の名をもらった。
「人生模索の会」からはその他にも分派して会が出来ている。
「三十代以上の会」や「女性の会」である。
これらは松田さんが立ち上げた会だが、年齢や性別で「引きこもり」の環境は大きく違うので良いことだと思う。
今の十代後半や二十代前半の人は自分が引きこもった時点ですでに「引きこもり」という言葉があり、孤独に悩んだ経験がほとんどなく、危機意識が乏しいように見える。
また社会復帰にしても、就職の他進学の道もあり、ある程度は余裕を感じる。

体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(1)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(2)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(3)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(4)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(5)
⇒体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(6)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(7)

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