体験記・ナガエ・私の物語(3)
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私の物語(3)
著者:ナガエ(女性)
夢の意味
「最近どんな夢を見ますか?」
初診時あからさまに嫌悪感を示していた医者との関係は穏やかなものなっていた。ただ心をのぞかれているような先入観にとらわれて、本来の話し方ではなく、少し声のトーンが高くなり話そうと思う事柄は頭を一度ひねってから口にした。
“どんな夢を見るのか”と尋ねられたが、気になっていた少女のことは内緒のしておいた。そのかわり、自分が殺人鬼になって人を殺す夢を見ると話した。代わりに答えた返事だったが嘘ではない。顔のない人形のような人間と敵対し、私は殺意のとりこになっていた。
「夢は、願望を表すっていうんだよ」
足を組み、手を組むと医者は教師のように言った。そして組んでいた足を解くと私の目をまっすぐ見据え、続けた。
「なんか怒りみたいな。誰かに対して強い攻撃心みたいなものがあるようだね。何か心あたりない?」
「おまえだよ。ムカツクんだよ。誰かに対しての怒りっていう、その誰かっていうのはテメェのことだよ」
あの子だ。影もかたちも見えなかったが声が聞こえた。今の声が聞こえなかったのだろうか。医者はこっちを見つめたままだ。
ふっと父の顔が突然浮かんだ。優しくない能面のように無表情の父。“誰かに対する強い怒り”、手首を切ってもなお心の底でくすぶっているというの? 私は自分ではなくやはり父を憎んでいたんだ。
あのことは忘れたい。だけど忘れちゃいけない。忘れられない。こんなこと誰にも知られるわけにはいかない。私は医者からすっと目をそらすと、強い口調で答えた。
「ない」
すると医者は鼻を意味ありげにすすり「ふぅん」と言った。
にぶい、と思っていた医者だったが、彼は“何かある”と嗅ぎ分けた様子だった。
しかし、あえて追求してこなかった。“言いたくないことは言わなくていい”そういうことなのだろうか。
眼鏡をかけた少女はどこへ消えたのだろうと、ぐるりと広い診察室を見回した。がらんと殺風景なこの部屋には患者の私、それからドクターの2人以外誰の気配も感じることはできなかった。
窓は開けられ、そこから少し肌寒い程度の風が吹き込んで秋の香りを振りまいているだけだった。
「悩んでいることとかない?」
きょろきょろとあたりを見まわしている私を尻目に、医者は語りかけるように聞いた。
“悩んでいること”そんなのたくさんありすぎて、どこから何から手をつけて話せばよいのだろう。家族のこと学校のこと話し始めたら止まらないような気がする。
怖い。逃げてしまおうか。そう思ったけれど、もう口を開けていて私は一気に喋りはじめていた。
「小学校の頃一緒のクラスの子がいじめにあっていたんです。そのこととは直接ないと思うんですが、その子の母親は自殺したんです」
どうしてこの話題を悩みとして話したのかわからないが、ふと口をついて出た。こういう話しをし、考えこんでしまうということは、私は死に親近感を持ち、接近しつつあるというSOSなのだろうか。
「葬儀が終わって、通夜もすんで、それ以来、その母親の子どもは学校へ来なくなりました。実の母が死んでしまうなんて、それも自殺したということはその子にとってどれほどショックになっていたことかは、なんとなくわかります。
でも学校へ来なくなったのはどうしてですか。いじめられていたとしても学校へ来ることができたのは母という支えがあったからですか。私はときどき考えこんでしまうんです。
“お前が殺した”そう私に訴えかけてくるような気がして、自分にはあの家族を救うことができたんじゃないか、私は横目で人が辛い様子になっていくのを見ていただけだった。
いじめにおいて、のけ者にされている人を見ながら、私は何もしなかった。だから私は悪くない、それでは通らない。
なぜなら見ていることはのけ者にしている者の一部に含まれてしまうからだ。何もしなかった、それこそが罪になってしまう。
「自分のことは責め続けていたの? 過去へ時間は戻らないし、死んだ人は返ってこない。自分のことを優しいなんて思ったことある? 自分のことを否定的にみるのはよくないことだよ」
そう医者が話し終えると、私は、昔教会学校へ行っていたことを思い出した。毎週土曜日か日曜日に通っていた。家はキリスト教徒、クリスチャンではないが興味があったので、一つ年上のお姉さんと言って、親しんでいた人に誘われたのがきっかけで通うことになった。
私は、一人ではなかった。小学校時代、私は一人だと、孤独だと思っていた。だが、それは間違いだった。
教会学校へ行くことを心のよりどころにしていた。聖書を読み賛美歌を歌い、私は没頭した。まだ小学生だったわけだから、聖書や賛美歌の意味はさほどわからなかった。 わからなくてもいい、私は読めるものは読み、歌えるものは歌った。イエス様は天からいつも私たちを見て守ってくださっている。だから、あなたは一人じゃない。
私はそれを信じよう、信じたい、そう思いながら祈った。どんな辛くてもイエス様はいつか助けてくださる。そう思い込もうと日々努めた。
私は、親に話せなかった分、牧師と話をしていた。もちろんこの件に関しても私は話しを聞いてもらったと思う。
「自分を責めてはいません。彼女は自分の意思で死んだのです。誰も罪人ではありません。彼女が亡くなったのは誰のせいでもないのです」
牧師は私を慰めた。
本当に誰のせいでもないのだろうか。自ら死を望んだあの母親の子どもの名をトモコと言った。“トモコのために”と言って、トモコを一人ぼっちにして彼女は死んだ。 どうして私を置いていくの? ねぇ、どうして母さんは一人で死んでしまったの? 私を一人にしないで、母さん。
トモコは仏壇の前で、自問自答を続ける。
エコーのように医者の言葉がこだました。“過去へ時間は戻らない。死んだものは生きかえらない”
もし時計の針を逆に回転させることができるなら、どうかトモコを一人にしないであげて。
誰のために彼女は死んだのか。何を思い、何を考え、何を一人で苦しんでいたのか。
何のために彼女は命を断つ必要があったのか。何のために彼女は死んでしまったのか。
悲しみと孤独を投げかけてくる自殺。生き残った者に疑惑を抱かせる。
私は、どこまでいっても見ていることしかできない。あの家族に関わろうなどというのは誤算である。私は私という成りたった一人の人間と照らしあわせながらあの家族を傍観し、自分を解剖しようと試みていただけかもしれない。
“自殺”というテーマに取り組んでいた私自身もかなりぐったりし、薬を処方されていた。親は薬を私から奪いとり「こんな薬飲むな。気違いめ」と私に鋭く文句をなげつけた。
だが私は取り上げられた薬を奪い返し、何錠か飲んだ。飲むと耳の近くの頭でふつふつと泡がわきあがっているような感覚がした。副作用だろうか、口がよく渇いた。ペットボトルに入った水をがぶがぶ飲んで、顔が少しむくんだ。
代謝がぐんぐんよくなって、運動しているわけでもないのに汗が出て、私は、“やる気”を起こすようになり家中をほうきではいたり、風呂のそうじにこってみたり、太っ腹で陽気な気分になり、洋服を山ほど買おうとしたり、沈みかけていた気分は高揚して私は一日中動いていなければ落ちつかなくなった。
薬だけで人はこんなに変わってしまうものだろうかと私は驚いた。現代の医療の進歩に拍手。そして薬は人を変えてしまうこともあるのだと薬に対する恐れも持つようになった。
その回のカウンセリングはそれで終わった。カウンセリングの基本は、患者が患者自身の力で回復していくことだ。だからたとえ医者に質問したとしても、その質問は最終的には自分の問題として返ってくる。医者と自分の問題について話し合っていることは、自分と対話していることに他ならないのだ。
自分と話しをする。簡単そうだが、根気がいる。まず自分と話しをするためには、“セッティング”が必要である。ゆったりとした時間をたっぷり確保すること。そして心の余裕。自分を掘り下げていくのだから、自分が今までさけてよけてきたことに直面しなくてはならなくなってくる。
しかし、そこから足を遠ざけ身をひいていてはダメだ。聞き手を信頼し、逃げないという勇気を持ってほしい。
それから段階をへると自分の嫌な所が目につくようになる。略していうと自己嫌悪ということになるのだろうか。自己嫌悪に陥ると自暴自棄、そこからくる自信喪失。さまざまな課題が待ちうけている。
その辛く、長い道のりをこえと峠を越すと、やっと希望を持ち自信をつけ新しい自分と対面することができる。カウンセリングは実際に体にメスを入れたり、注射を打ったりするわけではないが、それと同様苦しみが伴う。
手術をし、腫瘍を取り除いた後は、痛みが消えるように、精神面でも苦痛は緩和され、よりよい自己が形成されて安定した生活が送れるようになる。
今や“カウンセリング”は流行語のように使われるようになったが安易にからかいやおもしろ半分で受けないでほしいと思う。本当に自分を見つめ直したい人、真剣に悩んでいる人のためにカウンセリングは生まれたのだと思うから。
ダイエット
何回目かのカウンセリングで“友達”について話すことになった。偶然の一致だったが私の友人も、主治医は違うが同じ病院でカウンセリングを受け入院していた経験がある。
その子は名前をナオミというのだが、通称ヨッサンと呼ばれ、私とは親友とよべるほど仲よくしていた。
ヨッサンとは同級生でその関係は中学1年の時から何も変わらない。険悪な関係になったり、ケンカをしたことが全くない。
ヨッサンはどう思っているかはわからないけれど、私はこの関係に満足している。この先もこの関係でいたいとさえ思っている。
ヨッサンと仲良くなったきかけは、確かナゾナゾのゲームをしたことが最初だったと思う。ヨッサンと話しているとどんなに小さくてつまらないことでも楽しく思えたし、話しても話しても次から次へと話題がつきなかった。
入った部活も同じで、私たちの仲は急激に縮まり深まった。もちろんクラスも同じでいつも一緒にいた。
中学1年は平凡に過ぎていった。平凡といっても私は中学生は中学生なりに、センパイとの不和に悩んだりもしたし、バレンタインデーには胸をときめかせてチョコレートを手作りし騒いだりもした。それなりにいろいろあったが、まともにスクールライフを送っていた。
だが中学2年に進学し、夏休みが終わり2学期が始まり中頃になると、ヨッサンの心に異変が生じた。他から見ているとなんだか、ヨッサンやせてきたよねー、という感じだった。日に日に細くなっていくヨッサンが心配で、もしかすると重い病気にかかっているのかもしれないと思わせた。
「何かあったの?」とか「何か隠しているのでは?」とか私は思いを手紙に託し書いた。
しかしヨッサンは心を開いてくれることはなかったし、貝のように殻にはいってしまい、とうとう入院してしまった。
私は何かヨッサンを傷つけたのだろうか、私は考えに考えぬいたがわからなかった。自分が語りかけてもヨッサンは自らを閉ざしていくばかりで、手のつけようがなかった。あれだけ親しくしていた私にさえ話せない深い悩みがあるのだろうか、どのくらいしんどいことなのだろうか、私は思った。
しかし私はその反面、私自身も傷ついてしまっていた。なぜ、何も言ってくれないのだろうか、私たちの友情は私の一方的な勘違いであったのだろうかと。
入院しているヨッサンから何通か手紙が届いた。手紙には入院生活がどんなものか記されていた。細くなった血管をさす点滴の話やまずい味のする栄養ドリンクの話、それから今読んでいる本や趣味の話、起きてから夜寝るまでのスケジュール、几帳面な字で手紙はつづられていた。
そして、入院生活に終わりが近づいた時期から自分の思いや考えていることを文字にしてくれるようになった。自分はいったいどういう診断を下されているのか、それも教えてくれた。
それは拒食症(神経性無食欲症)だった。いまではこの病名は広まりポピュラーになったが、昔に比べれば認知されるようになったものの、その頃もまだまだ影は薄かった。
私はその病名を聞いて、不謹慎だと思われてしまうかもしれないが少しほっとした所があった。
なぜなら私はもっとガンだとかそういった病名を想像していたからだ。何科の病棟に入院しているのかも言ってくれないし、病名だってわからない。ヨッサンは私に心配かけまいとして黙っているのかもしれないと思っていた。
拒食症と聞いて私はその病気を調べることにした。“拒食症”という並べられた漢字を読むと“食を拒む症状”ということになるだろうか。家にある本棚をあさり、厚めの本を見つけだした。“家庭の医学書”。おめでたいことにわが家の者は病気とは無縁に近く、その本を開く機会はめったになかったせいかほこりがかぶっていた。
ほこりをティッシュペーパーでふきとった後、ページを開いて「心の病」の欄を見つけだした。神経性無食欲症(拒食症)アナレキシア 適正体重の85パーセント以下の体重が増えることを恐れ、やせる努力をつづける。極端なダイエットなどで食事の内容もかたよっている。
ダイエット? つまり、やせようとする病気なのだろうか。そんなものを病気にしてしまえば、おぞましいほどの数の女性が、発症してしまっていそうである。オシャレな服を掲載している雑誌、それから薬局、折込みのチラシ。行く所の先々で目にしたり耳にしたりする。
多くの年配の方が苦手としているカタカナ文字で、いわゆる外来語だが“ダイエット”という語句は知らない者は数少ないであろう。平安美人といって遠い昔の私たちのご先祖様は、ぽっちゃりした体型の女性を好んだが、この現代で“君は平安美人だね”などと誉めたとしてもケンカを売っているものと誤解されるのがおちである。
スラリと伸びた手足、そして小さい顔、くるりと大きな瞳、茶や金に染めた髪。現代の求める理想の女性像というものはまるで欧米から伝わってきたバービー人形のようである。
“コギャル”と呼ばれる人々は派手な服装を楽しみ、ガングロ(顔黒)のメイク(化粧)の盛期をつくりだしたが、現在のところ“美白”というものが流行りつつある。 それらの基盤となるものは、大和の国日本ではなく、おそらく海外から情報が着たのではないかと思われるのだ。
このように日本の文化は海外からの影響によって変化し続けている。だから女性が細身にあこがれるのは一種の長期にわたるブームみたいなものかもしれない。
それから“やせたい願望”の背景には、かつては子どもを生み育て家庭を守ることが女性にとっての生きがいだったかもしれないが、女性も男性と等しく“働いてお金をもうける”ことももうひとつの生きがいとして選択できる時代なのだ、ということも多少なりとも影響している気がする。
以上の文は“ダイエット”について私なりの考えたことではあるが、拒食症いわゆる病気と診断される場合、さらにもっと複雑な心理的要因もからみ合い、健康を害するほどの“ダイエット”にのめりこむことである。
そもそもダイエットというのは肥満と呼ばれる人が行うもので、美しくなるということが目的ではないのではないかと思う。
ここでよくダイエットの語句を見てもらいたい。ダイはDIEであり死を意味する語句である。本の終わりの方の行にはこう記されていた。――重症の場合、死にいたることもある――。
だから、やりすぎると体に有害であり、骨が弱くなったり、生理が止まったりすることもあるのだ。腹八分目というようにダイエットも同じで徹底的にしてしまうと最悪の場合、死んでしまうこともありうるのだ。
しかし、私はその本を読んだとき、拒食症という病気はどんなものであるのかということがわかっただけで、そうなる原因というものがわからず“死”という文字を目にして私は不安にかられるだけだった。
死んでしまうことがあるというのだろうか。
手 紙
私は本を閉じると、自分の部屋へ戻り“死”について考えた。親友が死んでしまうということ。もし、死んでしまったら、会いたいと思っても、会えない。体は冷たくなって、口を開いてくれなくて、一緒に笑ったり泣いたりできない。共に創りあげてきた思い出を私だけが抱えて生きていく。共有されない私一人の思い出として。
ときどきヨッサンのことを思い出して寂しい気持ちになって、涙を流したりするのだろうか。そんなの嫌だ。絶対に、彼女の死んでほしくない。生きてほしい。
拒食症という病気は、ボディイメージのゆがみだけで食を拒むことではないのかもしれない。生きることを拒んでゆく心の病とも言えそうだ。私が一人この世から消えてしまうこと、それは大きく見るとたいした出来事ではない。世界は、世の中は広大だ。
でも、忘れてほしくないことがある。必ずどこかで自分を思ってくれる人がいるということを。何もかも信じられなくなったとしても。自分など居ても居なくても何も変わらない、そう思ったとしても、生き抜いてほしい。
過去は変えることができないけれど、未来は限りなく変化させることができる。いまとてつもなく酷な状況にいて、死が希望だと思っていたとしても実行するのはやめてほしい。
生きることに価値を、いま見いだせないとしても、未来には友人や家族や友達、もしかすると自分の子どもが待っているかもしれないのだから。
“死”は裏切りだと思っている。そんなに焦って死ななくても、生きようという気分になるまでゆっくり休み、エネルギーを蓄えるのもいい。
自殺する前というのは、何かを気に病んで追い込まれた気分になるのではないだろうか。だが、どんなに解決しそうにない悩みを抱えているとしても、死だけがすべてを解決してくれそうだと思ったとしても、本当にすべてが解決しないケースが多いのではないかと思う。
とりあえず、生きてさえいれば、きっとどこかで暗いトンネルを抜け出すことができるはず。だから、生きてほしい。
ヨッサンに生きてほしいと思った。生きることが彼女にとって楽でなくても、どんなに辛いことだとしてもどうか死なないでほしい。私は思った。
その思い出を私は手紙に書いた。しかし、私はヨッサンからその回の返事をもらうことはできなかった。熱く思いを語った手紙を彼女はどう受け取ったのだろうか。
私は、動揺した。なぜ返事が返ってこないのか。その時、私は、あれほどいい手紙を書いたのになぜ何も言ってくれないのかと腹を立てている自分がいることに気づいた。そして、がく然とした。
何を、私は期待していたのかと。私はそのことを彼女に見抜かれていたのかもしれないと思い、自分は無神経の極みだったのではないかと反省した。
彼女に生きてほしいと願ったのは、彼女のためではなく、それは友情ではなく、自分のエゴから来たものかもしれないと私は自分を疑うしかなかった。
どうすれば、彼女に生きる力を与えることができるのだろう。傷ついた心に、自ら閉じてゆく者に、なにをしてあげることができるのだろう。“いやし”の真の意味を、私は知りたい。
(つづく)
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