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新渡戸稲造『武士道』を読む

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2024年8月18日 (日) 15:26時点におけるMatsu4585 (トーク | 投稿記録)による版
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新渡戸稲造『武士道』を読む

3週間前にブックオフで見つけた新渡戸稲造『武士道』(1898年、ニューヨークで英文で発表、奈良本辰也訳・解説)を読みました。
読み取りできない右翼には、戦前の封建思想の経典にされそうな部分もありますが、私のような人間平等主義者にも参考になります。
私が評価している小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の論調とも重なる面を感じます。
新渡戸稲造さんは国際人であり、ヨーロッパ世界の人たちに日本人の倫理観を、ヨーロッパの文献を多く引用しながら説明しています。
そのなかで、とくに驚いたのは腹に関する身体科学の説明です。
第7章「切腹」のところ。かなり長くなりますが註とともにこの部分を紹介したい。

<日本人の心の中で切腹がいささかも不合理でないとするのは、外国にも例があるという連想のためだけではない。
身体の中で特にこの部分を選んで切るのは、その部分が霊魂と愛情の宿るところであるという古い解剖学の信念にもとづいていたのである。
モーゼが「ヨセフその弟のために腸焚くるがごとく」と書き、ダビデは主にその腸(あわれみ)を忘れないようにと祈った。
イザヤ、エレミア、そしてその他のいにしえの霊感を受けた預言者も、腸が「鳴動する」とか「腸がいたむ」といった。
これらはいずれも腹の中に霊魂が宿るという日本人の間に流布している信仰と共通している。
セム族は、常に肝臓、腎臓、および周辺の脂肪に感情と生命が宿る、としていた。
「腹」という語は、ギリシャ語のフレンphrenとかツモスthymosよりも意味の広い語である。
そして日本人とギリシャ人は等しく人間の霊魂はこの部位のどこかに宿ると考えた。
このように考える民族は古代の人に限られるわけではない。
フランス人のすぐれた哲学者の一人であるデカルトは魂は松果腺(脳内の小さな内分泌器=松果体)にあり、とする理論を説いた。
けれどもフランス人は、漠然とした部分ではあるが、生理学的には意義が明らかであるventre(ヴァントル 腹部)という語を今なお、「勇気」という意味に用いている。
同様に、entraille(アントレイユ 腹部)というフランス語は、「愛情」や「思いやり」という意味にも使われている。
このような信仰は単なる迷信とは言えない。心臓が感情の中心である、とする一般的な考えよりも科学的である。
日本人は、修道士に聞くまでもなく、ロミオよりも「この臭骸のいずれの醜き部分に人の名が宿るだろうか」
(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』ロミオが僧ラウレンスに述べた言葉)ということを知っていた。
近代の神経学者は、腹部脳髄とか腰部脳髄ということをいい、腹部や骨盤に存在する交感神経中枢が、精神作用により、きわめて強い刺激を受けると説く。
この精神生理学的見解がいったん認められるならば、切腹の論理はごくたやすく組み立てることができる。
「我はわが霊魂の座(いま)すところ開き、貴殿にそれを見せよう。穢(けが)れありとするか、清しとするか、貴殿みずからこれを見よ」
私が自殺の宗教的、あるいは道義的正当性を主張しているなどと、誤解されたくはない。
しかし、名誉を何よりも重んずる考え方は、多くの人びとにとってみずからの生命を棄てる十分な理由となった。
名誉の失われしときは死こそ救いなれ、
死は恥辱よりの確実なる避け所とガース(Sir Samuel Garth イギリスの詩人、英雄悲劇詩“Dispensary”1699 がある)が歌った感慨に、どれだけ多くの人びとが従い、唯々として彼らの魂を黄泉の国に引きわたしたことか。>(145~147ページ)
人の精神活動の中枢が腸と内蔵にあるとする今日の生理学の到達点を19世紀末の「切腹」の背景説明に持ってきたのは驚きであり、その正当性に異議はないとしたい。
〔2017年12月23日〕

新渡戸稲造の『武士道』に熱中しています
新渡戸稲造とは旧5千円札の肖像になった人と言えば知る人は多いでしょう。
武士道とは著者自ら言うように封建制度の所産です。ただそこにみられる道義は今日の市民社会の倫理やルールが含まれています。
それをどう発展的に生かすかは現代に生きる私たちの課題でもあります。
それが平穏なことではなく、熾烈な取り扱いを受けるのではないかと予測します。
2018年が日本国憲法をめぐる重要な試練の年になると予告され、それに関係するからです。
日本共産党の『しんぶん赤旗』の元旦号で志位和夫共産党委員長と対談した石川康宏さんの言葉です。 「自民党の改憲案の危険性は、いろいろな角度から明らかにしていく必要があると思います。
9条改憲の最大の原動力がアメリカからの要請というのはその通りですが、同時に、安倍政権はそこに「靖国」派的思想を深く絡みつかせ、戦前回帰型の社会をつくろうとしています。」
☆志位和夫・石川康宏の新春対談「市民と野党の共闘は日本社会にしっかりと市民権を得た」(しんぶん赤旗 2018年1月1日付の5面9行目)
新渡戸稲造は保守主義者といえますが、クエカー派のキリスト者であり、国際人として民主主義の原理を理解している人だと思えます。
「靖国」派的思想との対比の中で『武士道』は賞賛と曲解のなかに扱われそうな気がするのです。
いろいろな話題に即して内容を取り上げてみたいと考えます。逐条解説はできません。
なぜそうしたいのか。日本の市民倫理として開花した美質が歴史的に、また欧米文化に相対化されて描かれています。
それを狭い民族的で特殊な優越論と復古的な倫理(戦前回帰型)の根拠に据えられるのを我慢できないと感じるからです。
『武士道』はこれまで私が熱中した3冊のうちに入るかもしれません。
1冊は20歳のころ読んだF.エンゲルスの『フォイエルバッハ論』(L.フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結)が最初です。
(日本語に翻訳されている)エンゲルスの著作(自然弁証法、反デユーリング論を除く主な著作)はその後の生活の中で全て読みました。物事の認識のしかたを学びました。
2冊目はE.モンドラーネ『アフリカ革命:モザンビクの闘争』―ポルトガル植民地で独立運動を始めたモザンビク解放戦線の初代議長の著作です。
日本語版は野間寛二郎・中川忍・翻訳で理論社から1971年発行。発行間もなく読みました。
モザンビクに関する本は少なく、その後、英文になっている多数の著作物を読むようになりました。
世界をヨーロッパ中心でなくそれぞれの地域から理解する必要性を学びました。
『武士道』は上の2冊とはまた違う展開になりそうです。
ひきこもりに関わりながら感じてきた日本人の道義心の源泉に近づけるかもしれません。
〔2018年1月6日 FB〕

『武士道』は「Bushido: The Soul of Japan」
昨日6日に「新渡戸稲造の『武士道』に熱中しています」を書いたところ、Iさんから「実は今、電子書籍で武士道の原書(英語版)を読んでいます。
細かい所は気にせず、大掴みな理解ですが…本年もよろしくお願い致します」と新年あいさつを兼ねて偶然の一致の知らせがありました。
むしろ彼が原書(英語版)を読んでいるというすごさに驚いています。
原書は「Bushido: The Soul of Japan」1900年発行です。
私のは奈良本辰也(訳・解説)1993年、三笠書房の発行です。実はブックオフで108円で買った古本です。
「時事ニュース的なことと突き合わせて内容をみていきたいと思っています。気づいたことを教えてください」と、Iさんのコメントに答えました。
武士道は武士階級のなかで成長したのですが、それは諸階級に広がりました。
<武士階級は営利を追求することを堅く禁じられていたために、直接商売の手助けをするということはなかった。
しかしながら、いかなる人間の活動も、いかなる思考の方法も、武士道からの刺激を受けずにはいられなかった。
日本の知性と道徳は、直接的にも、間接的にも武士道の所産であった>(203ページ)。
『武士道』のなかでは儒学(孔子・孟子および陽明学など)に加えて、仏教や自然信仰としての神道の考えも引用されています。
またヨーロッパ世界に伝わるいろいろな物語や学説にも表れていることを紹介し、人類に共通する精神活動であると説明します。
書名にある「The Soul of Japan」は、日本に生活してきた人類の精神活動と読み取れます。
〔2018年1月7日 FB〕

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