協同居住/共同家族を想定する論拠
協同居住/共同家族を想定する論拠
私は核家族化した現在の家族(両親と子どもの二世代、それに祖父母を含む三世代の一部を含む)では、家族の世代継承機能が発揮できなくなっている困難打開の方法として、協同居住から共同家族(合同家族)を想定してみました。
このようなことは、実際に生まれている状況を集め、その現実を評価分析して展開してしかるべきであろうと思います。
その意味でこの論議の進め方が多分にフライイングになっていることを認めます。
以前のことです。ある視覚障害の男女が結婚し、子どもが産まれました。二人を応援する主婦たちによる子どもの養育を交代で手助けするグループができました。
別の例では、ある夫婦には子どもが3人いました。子どもの1人は夫の元妻が産んだ子どもでした。
元妻がどういう経過でいなくなったのか(死別なのか離婚なのか)はわかりません。
こういうわずかな実例を聞いている程度です。
私が共同家族を推測するのは、現在の核家族化した状態では、子育てから介護までを含めた世代継承の役割をもつのが難しくなっている現状を起点に大胆に想定したものです。
このわずかな2例をもって、論拠とするつもりはありません。
ただ想定できる範囲ではそうなると思うのです。それを家族形態の新しい姿とするには、フライイングになるというのはその意味です。
おそらく社会にはもっと多様な例が生まれていると思います。
家族関係に深くかかわる人、困難な人と関わる行政の担当者、家族問題の研究者などはそれを目にして、日々個別事情の改善、解決をめざしていると思います。
そういう方面に目を向ける余力は私にはありません。
ただ日ごろ何らかの接触のある人たち(主にひきこもりの経験者)、特に家族と切り離され、実際に親戚縁者のいない独身者の状態のなかに、それに関わるようなことがあると考える材料にしました。
(2024年8月6日)