続池清光さんと弁証法的唯物論
続池清光さんと弁証法的唯物論
2024年6月19日、続池清光さんが亡くなりました。知ったのは21日の午前で、その日午後には葬儀が行われます。
葬儀の場所は宮崎市。葬儀会場に電話をし、教えてもらったFAX番号に「弔辞らしきもの」を書いて送り、遺族に渡してもらいました。
続池清光さん、まず知る人はいないでしょう。50年以上私とは音信不通の関係です。
私が20歳前後、大阪市立大学夜間の社会科学研究会(社研)の事実上の部長であり、先輩であり先生でもありました。5、6歳年長の同じ経済学部の学生です。
部長として選んだことはありませんが、私が数人の新入生と共に入部した頃は唯一の先輩であり、自動的に部長でした。
私は仕事のため夜間の大学への登校は遅くなり、授業途中から出席するのはイヤであったし、出席した授業もそうおもしろくなかったので、大学に着くと自動的に社研の部室に入りました。
部屋は古い木造平屋で廊下の両側に小さな部室が並び、入り口近くに自治会室がありました。
建物全体が活動家の集まる場でしたが、私はだいたいが1人だけいる部室で本を読むことが多かった生活です。
私は大学の授業にはほとんど出席しませんでした。社研の勉強会と読書会と、個人読書で大学の勉強をしたことになります。
私は元来、地理/地図が好きな性分ですが、それらしき部活はなく、経済学部の数人いた「社研」に入りました。
続池さんがすすめたのは、経済学の基礎になる哲学でした。
『社会科学の基礎』というのがテキストですが、アマゾンで調べてみてもそれらしき本は見つかりませんでした。
これを数人で討議しながら学ぶわけです。比較的平易なテキストで、少し専門的ともいえる本を私は探して読んだ記憶があります。
ジョルジュ・ボリツェル『哲学入門』を覚えており、アマゾンで調べると1955年に三一新書として翻訳発行されていました。
そうです社研で学んだのは1965~67年ごろの60年近く前のことです。
学習会テキストはいくつかあったのですが、いちばん難関は『ドイツ・イデオロギー』です。
マルクス・エンゲルスの若い時代の学習ノートとでもいうべきもので、二人が生前には出版されていません。
当時の私とあまり年齢差のない20代のころのマルクス・エンゲルスの著作というわけです。
私はエンゲルスのファンを自称しているのですが、後年のエンゲルスの著述は熟達を感じる(日本語への翻訳ですが)のとは違い、『ドイツ・イデオロギー』は探究心が強い文章でした。
近代の自由な労働者とは、「土地制度からの自由(農地を持たない)と、どの職につくのかは本人の意志に左右されるという二重の自由をもつ……」という部分が、私の記憶にあるこの本の一節です。
この社研での社会科学の学習を基礎に、私は歴史と哲学の本を多く読むようになりました。
私がいまもモノのとらえ方の基礎にしているのは、論理学と認識論も構成する弁証法的唯物論になります。
これはとくにエンゲルスの『フォイエルバッハ論』に負うところが多いのですが、この本に先行するといわれるH.ハイネ『ドイツ古典哲学の本質』やG.ヘーゲルの『哲学史序説』などもつられて読んでいました。
ベリンスキー『1847年のロシア文学観』は19世紀ロシアの文芸評論家の著作ですが、そういう周辺にあるものにも手を出して、弁証法を学ぶ一冊にしたのです。
これらの著作について続池さんに詳しく相談したことはなく、ときたま話しただけです。
そういう話をすると続池さんの反応は、理論を学ぶことにおける弁証法と論理学の重要性、もう1つは現実社会(とくに歴史)との関係に目を向ける重要性でした。
私の乱読癖にはいささかあきれていたかもしれません。
なにしろ当時私は地理/地図への関心もあって、『アフリカ史』や世界の探検記などもいろいろ読んで話していたからです。
私は1974年に大阪から東京に移りました。
そのころは、アフリカに、とくにモザンビクの歴史、社会、経済と、FRELIMO(モザンビク解放戦線)の民族解放運動に関心を寄せていました。
こういう雑学的な傾向の全体はいまもある程度はもちあわせています。
そして私のものの考え方、とらえ方、理解のしかたの理論的な基本に弁証法的な唯物論があることは確かです。
そういう意味において、続池清光さんは、私の若い時代の先輩であり、恩人です。
〔2024年6月24日〕