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体験記・こうのあさな・優しい空のオレンジ(下)

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目次

優しい空のオレンジ(下)

著者:こうの あさな(宮城県) 

兄は家を出、父母と3人の生活

兄は高校を卒業した後、遠くへ就職していった。
あっという間に結婚し、父親になってしまったのが羨ましい。
兄が、まさか家を出て行くとは思っていなかったのでそれを知った時、大きなショックを受けた。
これからは子どもは私一人。
父が母に暴力を振るったりしたら、私はどうしたらいいのだろう・・・・。
私は孤独感で一杯だった。
兄は、きっとそばにいて母と私を守ってくれるだろうと勝手に思いこんでいた。
別れの朝、私はコタツに入って泣いたまま、兄を見送らなかった。
兄が家を出てからの父の様子は、兄には知らせなかった。
どれだけ苦しんだか・・・。
それは母と私にしかわからない。
私と父のせいで母がいちばん苦しんだのは間違いない。
私は中退してからも部屋でダラダラと時を過ごし、絶望に打ちひしがれて泣いたり、物を投げたり壊したりしていた。

そんな時、私を支えてくれたのはラジオから流れて来る音楽だった。
気に入ったアーティストや曲を見つけてはメモしてCDをレンタルしてきた。
その音楽を聞くことで、私の心は晴れやかになった。
他にも本や映画、テレビドラマなどが、私を癒してくれた。
詩を書くことも私を自由にした。
決して上手くはないけれど書くことが自分の居場所を確保できる気がした。
いつか詩集を出せたら・・・という思いがますます私を元気づけた。
かなわないかもしれなくても、夢や目標が持てる自分であることがなんとなく嬉しかった・・・。
興味さえ向ければ、それはきっとその人にとってプラスになる何かをプレゼントしてくれるだろう。
その出会いが、小さかった自分の世界をどんどん広げてくれるに違いない。
誰にだって何かひとつくらいそういうものがあるはず。
常に自分のアンテナを立てていれば、いつか素敵なものに出会えるということを憶えていて欲しい。

二十代前半、私は近所の小さなスーパーで半年近くアルバイトをした。
自分でも驚くほど自然にそうなった。
仕事は思ったよりもキツかった。 トイレが近い私にとって外階段を上がって事務所前のトイレに行くのは恥ずかしかった。
事務所のドアがいつも開いており、普通の家の二階のトイレだったので、ひとつしかなく、二階へ行く度に事務所の人たちがこちらを見るのが嫌で仕方がなかった。
その頃、父の態度に耐えきれなくなっていた母と私は、精神的にも疲れ果て、家を出る計画を立てていた。
環境が変わればどんな仕事もできるような気がしていた。
田舎には、私ができそうな仕事もほとんどない。
街へ行くにも乗り物に乗れないなどの理由をつけて、母と私は家を出た。 やはりそう簡単に物事は進まなかった。
仕事はあったが募集の貼り紙を見て、その場で面接をし、雇ってもらえても2日や3日ほどで苦痛に耐えられなくなり辞めてしまう。
職場では緊張のし通しで、その場にいることが苦しくてたまらなくなってしまう。
母はパートを見つけて働いてくれていたが、その収入だけでは生活ができない。
私は焦りを感じながら、また拒食症になってしまった。

父はその頃、珍しく知人の会社で働き始めていた。
しかし、父の糖尿病発症も重なり、都合がいいようで嫌だなと思いつつも、母と2人で家に戻ることになった。
また地獄のような毎日を過ごすのかと思うと、憂うつだった。
 はじめのうちは父もなぜか穏やかだった。
けれどいつの間にか元の父親に戻ってしまった。
仕事から帰れば愚痴ばかり。
気に入らないことがあれば一言も口にしなかった。
突然キレて怒鳴ちらしたり、すごい言葉を吐いては母と私をうんざりさせ、ビクビクさせていた。
八つ当たりもひどく私たちは、いつも神経をとがらせて、父の気分を悪くさせないように努めた。

父への不信、母への感謝

私は、もう自分で自分をどうすることもできないと感じていた。
思い切って父にいちばん近い精神科へ通いたいので乗せて行ってくれるように頼んでみた。
が、私がバスに乗れないことを知りながら、父は「あそこだと何行きのバスに乗ればいいんだ?」と言った。
私は悔しくて部屋へもどって泣き続けた。
父は、いつも飲み友達の所などへ行っては、深夜や朝に帰って来て、何度も仮病をつかって休んだり無断欠勤をしていながら、私を病院に連れて行けないと言うのだ。
この人は本当に家族を大切に思えない人なんだと強く実感させられたのはその時ばかりだけではなかった。

以前、私は教習所へ通った経験がある。
自分で運転すれば酔わないと思ったからだ。実際運転してみても酔うことはなかった。
しかし、教習所にたどり着くまでに私はバスに乗り、酔っては降りて歩くのやり方をしていた。
何度も時間に遅れ、期間内に教習が終わらないかもしれないというギリギリのところまできてしまった。
そこで自由気ままに家の庭で仕事をしているのかしていないのかわからない父に送迎を頼んでみた。
返事はノーだ。
何か月も何年もというわけではないのに、やはり断られてしまった。
私は泣く泣く教習所通いを諦めた。
母が出かける時も、たまにしかないのに、「バスがないから乗せて行って」と言っても返事もせず無視をしたり、バスが多く停まるすぐ近くのバス停までしか送らなかった。
母が出かける時間の少し前にわざと出かけてみたりしていた。
ひどい時は、出かけるのを知っていて車をどこかに隠して歩いて戻ってきたこともある。
優しい人なら十分ちょっとかけても地下鉄の駅までは送ってくれるだろう。

数年前、母が体調を崩しパートを辞めたときがある。 苦しさのあまり毎日グッタリと横になり、話もできない状態が続いた。
あちこちの病院へ行っても薬も注射も効かず、母は別人のようになっていった。
私は何か大きな病気で、このまま死んでしまうのではないかという恐怖に襲われていた。
どの病院へ行っても何科へ行っても異常なし。
母は、ほとんど飲食もせず、ただ苦しみと闘っていた。
そんな母を見て父はうんざりしているようだった。
夜、昼、早朝何度も母は苦しさに耐えきれず、タクシーや、時には父に乗せられて車で病院へ向かった。
入院しても原因は、わからないまま。
どれくらい経っただろう、母は心療内科へ行ってみると言い出した。
知人の車に乗せてもらい心療内科へ行き、何度か薬をかえたところで、母の具合がしだいによくなり始めた。
久しぶりの母の笑顔は不安で辛かった私を喜ばせホッとさせた。

母のそれまでの人生を振り返ると、いつも家族のために必死だった。
父と私のせいで神経をすり減らしたり余裕なく生きて来たように思う。
私は母には感謝の気持ちと申し訳ない気持ちで一杯だ。
そうして母が苦しんでいた時も、父は嫌な顔ばかりしながら、外では「できることならかわってやりたい」と言っていたと聞き驚いてしまった。
父は昔から外面がよく、家族を放ってでも友人、知人にはいい人ぶって何でもしてやるような人だった。
自分がよく思われるためなら平気で嘘もついた。
私はそういう父も許せなかった。
母の悪口、それも事実ではないことを平気で言って歩くのだ。
私にさえ母の悪口を言っていた。
中学生にもなればそれがホントかウソかなんて父を見ていれば、そして母をみていれば、すぐにわかることだ。
それでも母は、私たち子どもには父のことを悪く言わなかった。父
は私が父を嫌っているのが全部母の告げ口のせいだと思い込んでいるようだが、そうではない。
いくら小さな子どもでもそばでちゃんとこの目で真実を見続けてきたのだから何でも知っている。
父は子どもを甘く見ている。
小さな子どもは特に敏感なのだ。
馬鹿にしてはいけない。

生き続け、変化を待とう

私は、いつも父という存在に縛られてきた気がする。
母も同様だろう。何をするにも父の顔色をうかがっていた。
「あんな奴、早く死んでしまえばいい」なんて恐ろしいことを本気で思っていた。
1年ほど前になるだろうか。
たあいもないことで、突然キレた父に対し私は情けない気持ちで「なんで、いつもそんなことばかり言うの・・・」と泣きながら言ったことがある。
それに対して父がひどい言葉を吐いたので私は、とっさにもうこの人と一緒にいたくない、死んでしまいたいと思い「死ぬから!」と口にした。
一応はとめられたが、私が泣き続け気絶寸前になっても父は私に向かって言葉を吐き続けた。
「死んだらいいんじゃねえのか・・・」。
私はあの時の父の言葉を一生忘れはしないだろう。
母は「病気なんだから黙ってて・・・」と言ってくれたが、父はまた母に向かって「こうなるのも全部お前が悪いんだ!」といつものセリフ。
その時私は、この人には少しの望みももってはいけない、
この人は自分自身が、自分が今までしてきたことがわからない人なんだと思った。
誰に話しても、どう考えても、母は何も悪くないし、父に母を責める権利などないのだから・・・。

でもわたしが心の病にかかったのは父のせいばかりとは言えないだろう。
私より辛い体験をしてきた人はたくさんいるし、それでも自立して元気に社会人として働いている人は確かに存在するのだから。
小さい頃の思い出だって楽しかったことも、ちゃんとある。
私がただ弱虫過ぎただけなのかもしれない・・・。
どうしてこうなったのか、どうすれば普通になれるのか自分のことなのに自分でもわからない。
死にたいと思ったことも何度もあるが、結局、私は今生きている。
怖くて死ねなかった。死
ぬのが勿体なく思えた。
生きてさえいれば必ず訪れる。そう思った。
そう思える余裕があったから死ねなかったのだろう。
死ぬ気になれば何でもできるとよく言うし、私もそう思っていたが、よく考えてみると、それもできないから苦しくて辛くて死にたくなるのではないかと思う
でも死ぬのってどうだろう。
自分を殺すってどうなのかな。
何もしないまま、生まれてよかったと思えないまま死んでいくのって、消えてなくなるのって、やっぱり寂しい気がする。
何もできないならできなくてもいい、誰も信じられないなら信じなくてもいい。
できそうだと思った時にやってみればいいし、信じたくなかったら信じてみればいい。

ずっと辛いまま、同じままなのかは行き続けてみなければわからない。
孤独な時、辛い時、死にたい病の時って何を何を言われても入ってこないかもしれないけれど、たとえダラーンとでも自然に命が消えてしまうまでは生きててみるのもいいんじゃないかなと思う。
私は今はまだ無職の状態だけど、昔の自分と比べたらずっといい。
食べられるし、笑えるし、楽しいと思えることもちゃんとある。
一人で歩いて買い物も行けるし、昨年から通い始めた心療内科へも一人で行って、先生には何でも話せる。
こうして自ら真実を知らない人にも告白できる力もついた。
放っておいても変化するところってあると思う。
年齢と共に変わってくるものって、きっといろいろあると思う。
自ら命を絶たないということだけを目標に生きるのもいいかも。
時期が来ればちょっとずつ何かに近付いていける。
人のせいにするのってズルいことかもしれないけど、そうすることで気が楽になるってこともある。
人を傷つけるのはよくないことだけど、傷つけてしまうことってあるよね。
でも平気いられるうちは、まだ成長していないってことだと思う。
後悔したり自己嫌悪に陥るくらいになればそれはちゃんと成長してるってこと。

自分がちょっとだけ手を伸ばせば助けてくれる人、安らぎや楽しさを与えてくれる人はきっといる。
いつかどこかで必ず現れると信じて欲しい。
心を閉じていたいのなら無理をして開くこともない。
そういう時って心がお休みしたがっているんだと思うから、開くのを待ってくれる誰か見つければいい。
そして開いたとき、泣きたいと思ったら思いっきり泣こう。
涙を我慢すると心がどんどん辛くなる。
泣くことは決して恥ずかしいことなんかじゃない。
期待ハズレの人だったとしても怖がったり諦めたりしないで次の人を探そう。
それって大切なこと。分かって欲しい、わかってくれるだろうと思えるひとには真実(ほんとう)の自分を見せてみよう。
心を開いたり閉じたりしていれば決してサビることもない。
だからいつでも外にとび出すことができるようになるはず。
一人では、どうにもならないことがたくさんある。
それは、みんな同じ。
なたを待って入る人、あなたが待っている人は、きっとどこかにいる。
1日も早く見つけだそう、そのひとを・・・・。
(完)

体験記・こうのあさな・優しい空のオレンジ(上)
⇒体験記・こうのあさな・優しい空のオレンジ(下)

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