Center:2011年4月ー「卒業論文」に学ぶ
「卒業論文」に学ぶ
〔2011年4月10日。3月30日にブログ「センター便り」に掲載、4月3日『ひきコミ』4月号に掲載。〕
訪問サポート・トカネットに参加しているDさんが、卒業論文を見せてくれました。
テーマは「ひきこもり支援」に関するものです。
40字×40行・A4版23ページなので400字原稿換算100枚近くです。
引きこもりの支援というとき、対人関係がない、社会経験がない、職業的な技術がない、だからその力を身につけていくのが支援という考え方があります。
それに頼る方法は対象者が限られ、引きこもっている人が発する基本的なメッセージを素通りしている感じがします。
私は引きこもりとは大きな時代の変化、単純な言い方をすれば産業社会から情報社会への歴史的な移行期に際して、感覚のすぐれた若い世代がその正体をよくつかみきれないまま心身状態で未来を探している面があると思ってきました。
しかし、それはなぜなのか、それをいかに表現すればいいのかは極めて不十分な状態におかれています。
Dさんの卒業論文にはそれに対する、自分の実践と自分自身の感覚と洞察による一つの回答が与えられています。
それを以下のような言葉で表現できたことは、Dさんの感受性と洞察力の素晴らしによるものと思います。
引きこもりとは何か。
彼はある中心点をとらえていますが、いくつかの表現をしています。
「自らを縛る意識によってもたらされる息苦しさ」(3ページ)を持つ人であり、「自らの意志で不安を回避するための措置としてこもったにも関わらず、何らかの要因に阻まれてそこから自力で社会へ戻ることが出来ないうちに時間ばかりが過ぎていってしまう問題」(4ページ)と見ます。
引きこもっている当事者はこの状態を「無駄な時間で何の役にも立たない経験」(1ページ)と意識します。
Dさんは引きこもりのもつ状況を「これは私自身の問題」(1ページ)ととらえています。
この点はこの卒業論文を現代の青年論にしています。
Dさんは訪問支援の実践を通して何がわかったのか。
訪問支援者がしていることは、当事者が自分を拘束している「規範意識の呪縛から彼らが解放されるための手助け」(19-20ページ)であり、引きこもる人は「自身の価値観を確立する」ことで事態を乗り切るのです。
しかしそれは一人ではでき難く、そこに訪問支援者の役割があります。
それに先立ち、家族の役割が作用します(Dさんの実践例では家族の変化が見られる。一般には家族が家族以外の人の支援を求める姿勢の変化があります)。
訪問支援者は「彼らの人生の中ではほんの一瞬」関わりながら、彼らの無駄と思っていることを意味のある作業にし、業績にまでするのです。
だから引きこもる人に手出しをせずに横にいる、問われたことに自分の感覚で答えようとする、訪問支援者は「何をする」のかと問われたら「特に何かをするのではなく一緒にいる」という禅問答のようになるのです。
引きこもりという彼らの作業とは、葛藤することであり、体験の振り返りであり、模索することです。
彼らの業績とは「引きこもり体験者」という“洗礼”を経験したことで、たとえば臨床心理士と並んで引きこもりを理解している人として有効な役割をすることです。
引きこもりとは、これまでの社会の規範意識の束縛から自ら解放するための闘いの状態像です。
自身一人が価値観を確立するために闘っているように見えても、その集合体は社会の新しい規範の確立に結びつくのです(青年論としてみれば特にその面ははっきりと出ます)。
これまで私がつかみかね、表現できなかったことへのある種の回答を与えられた気持ちになるのはこの点です。
社会の新しい規範がどのようなものになるのかはまだこれからですが、情報社会に照応する、人間がそこで生きるのにふさわしい条件を用意するものになるのでしょう。
だから引きこもりには意味があり、業績にもなるのです。
とはいえ、引きこもりの状態は実にさまざまです。
人間はある方向に進みますが正確な一本道をたどるのではなく各人が試行錯誤をしながらある方向に収斂し、しかもなお多様性を示していきます。
多くの状態があるのはそのためですし、それは引きこもりだけではありません。
多くの社会現象もまたさまざまな様子を示すことが予測されるのです。
いろいろな分野で時間幅はあるけれども同時的にこれまでは見られなかったことが生じています。
それは社会的なことに限らず、もしかしたら自然現象までも伴うのかもしれません。
このなかに共時性なる何らかの法則性が見られるのかもしれません。