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不登校情報センターの立ち上げと取り組み

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不登校情報センターの立ち上げと取り組み

11月13日に「ひきこもりから社会参加の道」として話した内容です。

私は以前に教育書の編集者をしていました。そのなかで1992年4月、不登校を専門に扱う雑誌『こみゆんと』を創刊しました。
この雑誌を発行し続けながら95年9月に独立し、不登校情報センターを立ち上げました。
不登校情報センターを始めたら、『こみゆんと』の読者数名から連絡があり、そのうち何人かが集まり始めました。
20歳前後の人が中心で「通信生・大検生の会」と名付けました。
毎月集まる機会をつくり、交流をつづけました。私だけが参加者と知り合いになるのではなく、互いに知り合い友人関係にするためです。
半年後には40人以上の人と連絡を取れるようになったのですが、通常の集まりに来るのは5~6人です。
会に参加できない人がいるので会報をつくり、そこに自己紹介を載せました。
自己紹介を見ると不登校経験者というよりは、高校中退者、通信制大学の学生、ひきこもり経験者などいろんな傾向の人がいました。
そのうち会報で知り合った人の間で手紙のやりとりが生まれました。
それらの手紙や日常生活のエッセイをまとめ手作りの冊子にし、『ひきコミ』としました。
しばらくたった2000年12月『ひきコミ』は手作り冊子からは市販の雑誌になりました。
こうして不登校情報センターは、不登校関係の情報提供を目的としながら、ひきこもりと周辺事情の人が集まる居場所にもなったのです。
特に2001年6月に新小岩にあった第一高等学院の旧校舎を提供されて以降は毎日が居場所です。
私がひきこもりの人に囲まれて生活する時期が始まりました。
多い日には30名ぐらいが来ましたし、日曜とか祝日も関係がなく毎日です。正月元旦にも10名ぐらいは来ていました。
家にいるのが気まずいとか、暇であるとか、知り合いができて楽しくなったとか…それが集まってくる理由です。
私はこれら人から多くのことを学びました。非常に深いことも学びました。
私がわかってきたのはこの人たちのおかげです。ほんの一部を話します。

家族の問題
家族の問題があります。家族の事情を詳しく話す人はあまりいません。それでもわかることはあります。
ある女性がよく居場所に来るようになりました。ある日の夕方、体調が悪くなりました。
そろそろ家に帰らなくてはならない時間になると気分が落ち込み、この日は特に体調が悪く1人で動けそうにありません。
電車に1人では乗れないというのでタクシーで送っていきました。
自宅前に着いたのですがすぐに家に入らず、近くにあるベンチに腰をかけて呼吸を整え、体調を戻して家に入りました。
家族にこういう疲れた姿を見せることは厳禁されているのです。
ウツになった状態を無理やりに防衛的に隠してしまうのです。これを長期間続けてきたのです。
こういう状態をつづけると精神的におかしくなります。家族関係を思わせるものです。
数か月前にも60代になったある女性から手紙をもらいました。
「ひきこもりからの脱出」―その人の経験から「普通の愛情を受けて育った人にはとても理解しにくいところ」といいます。
この方も社会で働くことができずに来たことを詳しく書いてくれました。
また40代の女性ですが、家庭内に「モラルハラスメント」があったといいます。
ときどき手紙で「生きていたくない」と書いてきます。
自分を受けとめてもらえなかった、認められていなかったのがこのように影響しているのです。
3人とも女性ですが、男性も同じです。ただ男性は自分の問題を言葉で上手く説明できません。
男性は言葉で表現するよりも、行動して表すことが多いのです。女性は自分の体験を言葉でうまく表現できます。
実態に男女間に経験的な違いはないでしょうが表現が違うのです。
いずれも家庭に関係することです。
私はれらを『ひきこもり―当事者と家族の出口』という本に書きました(2006年)。
子どもをひきこもりにしたい親はいません。むしろ一生懸命じゃなかったかと思います。
この本には出版社側がキャッチフレーズで「無意識の、善意の、執拗な愛の嵐のなかで呻吟する子ども・若者たち」と内容を紹介しています。
これらは虐待ではないけれども「虐待の周縁にある躾(しつけ)」と私はとらえました。
しかし責めないでほしいのです、親も自分を責めないでください、ひきこもっている子も責めないでください。
何の責任を負うことなのかわからないし、責任を問う相手はいないのです。必要なことはいまの事態を受けとめることです。

いじめの被害者
次に「いじめ」についてです。不登校情報センターに通ってきた当事者の大多数は子ども時代にいじめを受けていました。
その体験をおおっぴらに話すことはありませんし、一人ひとりをチェックしたのではないですが、大多数がいじめを受けていたのは確かです。
先日、文科省から「児童生徒の問題行動・不登校調査」が発表されました。
会報18号ではそのうち「いじめ」に関係する部分の文科省発表を多くの報道記事に基づき紹介しました。
いじめは子どもにとっては命がけになることがあります。
自殺とか自殺未遂にならなくても重大事態になることは少なくないのです。
居場所に来ていた人からもそれに近い経験はよく聞きました。
20年以上前に私が相談を受けてケースでは、学校はいじめ事件の“もみ消し” を図りました。
中学生の自殺でしたが「他の生徒の進学に影響をする」という理由で学区内では「いじめはなかった」とされました。
教育委員会はそれに加担し、自殺は亡くなった子どもの個人的な理由によるとされました。
最近は子どもが自殺とか自殺未遂になった場合、「重大事態」とみて、教育委員会は調査委員会を立ち上げるケースが全国的にできています。
20年前と比べると(当事者には納得いくレベルではないでしょうが)、最近の状況は雲泥の差があります。
教育委員会が調査委員会を立ち上げるというのは1つの定式になりつつあります。
この定式によっていじめがすぐになくなるわけではありません。
このような定式は防衛体制、抑止態勢になります。
事態の全容を明らかにしようとする時代になってきました。これは大きな前進です。

ひきこもりへの対応
子どものいじめをめぐる最近の状況を話しました。ひきこもりをめぐる最近の状況はどうでしょうか。
いろいろな自治体が「ひきこもり相談」窓口を設けています。
ひきこもりはいろいろな事情が関係するので、まずは気軽に相談してください、という相談窓口です。
間違いではないですが実感がないと思います。
ひきこもりは確かに「いろいろな事情が関係」します。ですが中心的なものははっきりとあります。
虐待といじめ、これは重要なひきこもりの原因です。しかし、そればかりではありません。
子どもの感受性にもよります。言い換えますと感覚(センス)がいいことも関係します。
感受性が強いと相手の思いや意図を深く探ろうとします。
同じことであっても、細かくて深く受けとめ、だから影響が強く表れるのです。
これが同じような経験をしてもある人はひきこもりに向かうし、別の人はそうはならないことの分かれ道です。
ひきこもりの人の多くは感覚が鋭いとみていいのです。
親は顔の表情や一瞬の動作により、何をしたいのかを気付かれた経験はありませんか。
親が意図していないことさえ感づかれた人もいます。そういう親はとても多いのです。
自治体の「ひきこもり相談」は、少なくとも現状は感覚部分には踏み込めません。
相談しても表面的な状況を話し聞かれただけ、ということにとどまりやすいのです。

ひきこもりと対人関係
ひきこもりになっている本人も家族も困っていることは何でしょうか。
これもいろいろです。外に行けない、人と会うのが苦手・怖い、社会に入っていけない、働くに働けない。
これだけではありませんが、ここらあたりが中心です。
最近の私の取り組みの中心はここにあります。「8050問題」「7040問題」といいます。
ひきこもりになっているので親が相談行き、家族会に参加します。
それにより親は子どもの状況を徐々に理解し始めますが、子どもの状態は変わりません。
でも相談や家族会に行くと、親子関係はよくなることは多いです。
子どもの状態を理解できれば、ひきこもっている子どもは平穏に暮らせますから親子関係もよくなります。
しかし、何かもやもや感は続きます。「これがいつまで続くのか、こんな状態でいいのだろうか」とその先を考えます。
本人も家族もこれは同じです。10年たった、20年たった、30年たった。
そうして「7040問題」「8050問題」と言われ始めたのです。
相談じゃなくて医療に行く人もいます。
眠れない、人が怖い、気力が出ない…これらを何らかの症状とみて病理診断され、薬をもらい、病院通いをつづけます。
専門家である医師に診てもらっているので、少しは安心です。
でも不安は消えません。精神病なのか、そうじゃないのか。
「これがいつまで続くのか、こんな状態でいいのだろうか」…と。
医師と個人的な関係に進む人もいますが、対等な人間関係を望むというのは難しい話です。通常の人間関係にはなりません。
先日ある福祉関係の専門の人と話したことがあります。
障害者、精神病者、貧困生活、家庭崩壊…などいろいろな社会問題がある。
だいたいはどうすればいいのかははっきりしている。
うまくいくかどうかはケースバイケースであるけれども、改善していけばたどりつけるところは見える…という状況です。
ところがひきこもりの場合は、どこから始めればいいかがつかめない。
すでに事件が発生しているわけではない。しかしこのまま進むと絶壁にたどり着く。
それなのにどうすればいいのかがわからない。ひきこもり問題の難しさをこのように特徴づけました。
最近のニュースに親が亡くなったのに葬式が出せなくて死体遺棄で扱われた49歳の人の話がありました。
これは事件ではありません。しかし、当事者が抱える問題は深刻であり、大変なことに違いないのです。
この事態を自分で予測できる家族も当事者も多いのが「8050問題」です。そういう予測を口にする当事者は少なからずいます。
改善・対処する方向は「人との関係をつくる」ことです。
相談しても、医師にかかわっても、当事者が他の人と関われるようにならないと問題の難しさは減少しないし、解決に向かいません。
人との関係にはいろいろなレベルがあります。できそうなところから始めるしかありません。
家族が相談に行くのもいい、医療に行くのもいい、カウンセリングを受けるのもいい。
それらがいずれはひきこもり当事者が人と結びつけばいい。
しかし、当事者は動かない、当事者は動けない。このような当事者の手前でストップしている状況が広がっています。
しかし、この状態にいる人や家族はひきこもりから社会参加に進む入り口にきているのです。
ここまでわかれば、次の手段を考えるしかないでしょう。それはわかっているのですが、じゃあどうするのか。そこで躊躇するのです。
人と会うように計画したら、これまでの家族の平穏な関係が崩れるかもしれない。そういう怖れを感じるのです。
ここから先をいちばん聞きたいところでしょう。
ところがその部分は個人の状態に大きく左右されるので一般論的なことを聞いても、うちとは事情が違うと思えてしまうのです。
その過程を精密に判断し、波風を抑えながら外側から人に来てもらうことです。
精密な過程というのが家族状況、本人状況などによるのです。いまの私のテーマはそこです。

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