Center:2008年12月ー引きこもり生活者への訪問活動(3)
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2014年5月1日 (木) 10:42時点における版
目次 |
引きこもり生活者への訪問活動(その3)
~20代後半以上の人への方法を例示する~
〔『ひきコミ』2009年1月号=第62号に掲載〕
〔7〕訪問者(サポーター)
訪問者側で準備することを述べます。
訪問者個人の特性によって大きく違うところなので「私の場合」を主にのべます。
人それぞれのしかたで役立てることはできるでしょう。
(1)マニュアルよりも人間性
(1)失敗もまた自己開示の姿
かなり以前のことです。
午後にある家を訪問し、父母と私の3人で話しているときに、熱帯性の果物が出されました。
少し口をつけて大丈夫だろうと思い食べました。
とたんに吐き気がしてトイレに急いだことがありました。
食べ物には気をつけているのですが、ときにはこんなこともあります。
訪問に向かう電車の中で居眠りをして、ハッと目が覚めあわてて降りたのは2つ手前の駅でした。
次の電車まで30分待たなくてはなりません。
この事態を神経質に対処していないと感じたのでしょう、そこのお母さんは「そういうところがいいのかもしれません」と話していました。
当事者と会えなかったので、帰る前に手渡してもらう手紙(メモ)を書いたのですが、お母さんはそれを見て「なんて書いてあるのですか」と。
どうやらとても読めるような字ではなかったようで…。
訪問先でも、「出たとこ勝負」という私には“現場”でこのようなことが生まれています。
上の例は失敗になるのでしょう。
失敗することをすすめているのではありません。
これらの例にみる失敗とは意図しない私自身(訪問者)の自己開示であって、それは引きこもり生活者にもその家族に対しても、ときには少し安心を与えていると思います。
失敗しないこととあまり固く考えない方がいいし、ときにはそれはそれで有益とさえ思えます。
(2)親しい友人がいない
しかし、意図して話すことが(たぶん)2つあります。
相手の状態と私との関係によって比較的よく話すことです。
中学時代に、学級委員長などに選ばれやすかったというのもその1つです。
クラスのなかでは、中立的でとくに“敵”になる人がいないのです。
一方、同級生とは個人的に親しい関係の人もとくにいません。
これがこういう役回りの原因です。
この経験談は、引きこもり生活者の中学校から高校時代にかけての様子に通じるところがあります。
これは内向的とかアスペルガー気質の人には、形は少しずつ違うけれども、面映ゆい気持ちとして響くように思います。
「敬遠されている」「超然としている」「孤高の人」という雰囲気です。
訪問先の引きこもりの人の話への感想として、また同種の感覚体験をきくために話していくことがあります。
(3)努力しない居直り宣言
私は、26歳のとき(ある病院で事務職に就いていた)「もう努力はしない」という居直り宣言をしました。
周囲の人でそんなことを覚えている人はいないでしょうが、個別に何人かの人に話しました。
それまでの私は「一生懸命に役に立つよう努力をしていた。そして空回りをしていた」と思います。
それから逃れる気分であったし、気持ちを楽にしたかったと思います。
当時は大阪にいましたが、その後上京したのはこの解放感によります。
引きこもり生活者の多くは、この居直り宣言をする前の私の気分に少し似通っている気がします。
生真面目に自分で自分を追い込んでいく感じでしょうか。
この話は、訪問をつづけてある程度話せる関係ができたときに話すことが多いようです。
とはいいながら、いま現在の私もこの宣言をする前の状態を、何らかのかたちで持ち続けている気がします。
基本的な性格は一生変わらないと思うのですが、それを意識しながら気分としては拘束されないでいることは有益です。
ここに示したように訪問して話せる関係になったとき私から話すのは個人的な体験が中心です。
どの訪問者にも共通のものでないほうがいいでしょう。
訪問者(サポート側)は、その方法をマニュアル的にしないことです。
また失敗しないことに関心を向けるよりも、自然に振る舞うように努めるのがいいのです。
これらは私の経験なのですが、十代の子どもに訪問しているトカネットの学生たちが交流したときにも「マニュアルにはできない」ことが経験として語られていましたので、ある程度は共通すると思います。
(2)年齢差と男女(同性・異性)
訪問する人は、「いつでも、どこでへでも、だれにでも」訪問するつもりでいる人もいることでしょう。
ところが訪問者本人が意識していることとは別に、訪問者の属性や持ち味がすでにある要素、条件をつくっていることはよくあります。
年齢と男女は、そのわかりやすいものです。
それによって、訪問先の引きこもり生活者と訪問する自分の間にそれだけで自然にある条件がつくられているのです。
これを知っておくと、役立つこともあるでしょう。
ただあらゆることに例外があり、訪問サポート活動もまたそうです。
一応の参考になるはずです。
(1)年齢差または同世代の役割
引きこもり生活者を20代後半から30代の人と想定してここを考えます。
不登校や引きこもりの人に対しては一般に訪問者のほうが年上の人がいいです。
年齢差があるほど(他の条件がそろっていれば)会える関係になりやすくなります。
年齢差があるほどストレスは少ないからですが、そのぶん得られる成果は薄くなるように思います。
年下の人が訪問していくのは、訪問を受ける側にとってはそれ自体が1つの心理的な抵抗の元になります。
といっても外見上ですぐに年上・年下がわかるわけではありませんし、ときには訪問者が年下であっても気にならない人もいます。
引きこもり生活者にとっては、たぶん上下3歳以内の人はほぼ同世代となるでしょう。
同年齢から5歳ぐらい年上の人が訪問してくれるのがいいということになります。
実際はさまざまな条件が加わりますので、いつでもこの条件が実現できるわけではない、とあえて付記しておきましょう。
同世代の人と関わり、人間関係につながりをもてるようになれば、その人にとっては最も効果的な糧を得る条件になります。
そうなるための前提に、その状態で自分を維持できるだけの力ができていることです。
その力がなければ、同世代の人との関係づくりは困難であり、会うことが無理を重ねることになります。
同世代の相手はそれだけ栄養もあるしまたストレスもあるのです。
ばあいによっては自己否定感(むしろ卑下していく感覚)が強く刺激されることもあります。
人と関わるのに不安が出やすい人のばあいには、同世代(とくに同年齢以下)はリスクもより強く伴うと考えていいでしょう。
しかし、小さな子どものように年齢が大きく離れているとか、ずっと付き合っている幼馴染は別物です。
この事情を、私は主に引きこもり経験者が集まるフリースペース(居場所)において見ることができました。
不安感があっても、無理なくそこに居られれば、得るものはあります。
それに慣れてくれば(不安感が少なくなくなる)さらに直接に話していける関係に徐々にすすんでいけます。
この事態は、1対1の関係になる訪問活動でも表われます。
私が訪問活動をしているのは50~60代になってからのことですから、同世代同士の訪問の現場にはなりませんが、想像はできます。
(2)男性を訪問する同性・異性の差
私は男性ですが、訪問活動の一般的な役割や意味は、男性でも女性の訪問者でも同じものだと考えます。
しかし、それ以外のところを女性訪問者がどういう気持ちになっているのかはわかりません。
ごく普通に男性の引きこもり生活者には男性訪問者、女性の引きこもり生活者には女性訪問者がいいと考えられます。
しかし、いつでもそれがよいとか、そうしなくてはならないとは思いません。
訪問する側の条件もありますが、それは除いて考えましょう。
男性の引きこもり生活者には、ときたま(たぶん1割を超える?)が、訪問者に女性に来てほしいという人がいます。
父親または祖父などにより当人にとっては強圧的なストレスを感じる体験があるのではないか、ある種の男性恐怖、男性嫌悪があるように思います。
このばあいは、条件があれば女性が訪問することになります。
また、訪問サポートを継続するうちに、訪問者を複数にするばあいがあり、そこで女性が訪問に加わることもあります。
ともかく引きこもっている人にとって、家族以外の人と会える(会えそうな気分になれる)ならば、そこから始めるのに、この形に支障はないのです。
その先のことはそこに到達したときのテーマです。
(3)女性を訪問する同性・異性の差
女性の引きこもり生活者に対してはどうでしょうか。
女性には女性の訪問者が普通に考えられると書きました。
抵抗感が少ないからです。
しかし、女性にもむしろ女性嫌悪(?)を示す人がいます。
これも母親や祖母との関係を考えますが、学校時代の同性との経験から同性忌避を持つ人よりも少し多いように思います。
そういうときに、女性の引きこもり生活者に男性が訪問することになります。
しかし、そういう実例を私はあまり知らないので、実情はよくわかりません。
私の例でいえば、女性の自室ではなく、居間のような家族が出入りできる場で、ときには家族が同席しています。
また、外出できる人や、フリースペースで顔を見知っている人(その後引きこもった)には、近くの喫茶店のようなところで会って話すことになります。
それらを通して気付いたことをいくつか挙げておきます。
訪問活動だけでえたことに限りません。
(3)女性引きこもり生活者の特色
訪問サポートにおける女性引きこもり生活者との関係は、相手が男性のときとはかなり異なる面があります。
ほかの事情は、男性において明瞭なことが多いのですが、女性に優位に表われることがあり、男性には(皆無ではありませんが)あまり表われていないことです。
(1)家族関係的な社会性(?)
私の感覚では、引きこもり女性にとっての男性訪問者との関係は、対人関係として「社会性」を帯びるとしても、
それは拡大した親族関係につながる雰囲気をもつように感じます。
私のばあいでいえば、父親(代わり)や伯父(代わり)であったりします。
同世代の男性訪問者であれば兄(代わり)、従兄(代わり)、さらには将来結婚する対象の恋人役のようになる、そういう雰囲気を感じさせます。
直接的な(あるいは男性的な)社会的関係とは違うものを感じるのです。
その状態によっては“男性依存症”とされる人もいます。
もしかしたら、こういうことは男性心理カウンセラーや精神科医でも女性のクライアントと親しくなると、そういう雰囲気になるのではないかと思います。
訪問から始まり同世代の親しい異性の友人関係になったとき、それがどのように継続し、また変化していくのかは、私には予測できません。
引きこもっている人の自立を目的としていても、たぶん区分ないしは両立していけるでしょう。
(2)グリーフワーク的内容
会話などのコミュニケーションの内容は、周辺外部の社会的な事柄(たとえば仕事や職業)よりも、
当人の個人的経験、グリーフワークと知られる家族間のトラブル(自己抑制や確執)や子ども時代の友人関係(いじめや孤独感)が重要な位置をしめることが少なくありません。
これは、男性引きこもり生活者とは大きな違いです。
男性にも個人的な苦労や葛藤の話はありますが、それらは対人関係や社会関係、仕事的なことと結びついています。
ここは違いとして感じます。
男性のばあいは、その人の小宇宙とでもいうべきものに入ります。
それは後の「訪問活動の長期化」のところに続けていきます。
心理カウンセリングのクライアントに女性が多いことは、私のこの経験から了解できることです。
引きこもり生活のある女性が、外出でき社会と関わっていくと、日常的な悩み相談に心理カウンセリングを利用する人が多くなるのではないかと感じられます。
(3)電話による話
もう1つの違いは、電話です。
電話をかけてくる機会は多いし、ときには長時間に及びます。
私は条件や状態が許すかぎりこの電話を受け付けていますが、一般的にはどうなるのでしょうか。
すでにメールがそれに代わる役割をしていると予測できますが、メールを取り扱わない私にはよくわかりません。
(4)接客業という意外性
あえて言えば、女性が引きこもりから抜け出したときは、意外なことですが、接客業的な仕事によく就いています。
ファミリーレストラン、居酒屋、喫茶店のウェイトレスなどです。
これも男性との大きな違いと感じられるものです。
この知識を得たのは、むしろフリースペースに来ていた人の例です。
これらのことから、(4)項を除く(?)と、女性が「人との関係において自分を理解されること」によって(表面的には個人的に親しくなる人の出現によって)自分を肯定的に受けとめられる状態・気持ちがわいてくる(獲得できる)、その表われ方になると考えます。
(4)文書入力を依頼する
前節(3)では「訪問者(サポーター)」とは少しはずれたテーマになったのですが、この(4)でも少しはずれた(4)テーマを挟んでいきます。
といっても、内容は訪問者の準備に入ることなので、ここで説明しておくしかないものです。
私は、訪問先の引きこもり生活者と少し話ができたときに、パソコンでの文書入力を頼んでみることがあります。
これは、ワークスペースにおける当事者同士の対人関係づくりにおけるパソコン作業を訪問活動にも取り入れたものです。
対人関係づくりは対話型コミュニケーションに限定するのではなく、条件や環境によって違った方法を試みてみるのもいいでしょう。
パソコンの文書入力はその1つの方法です。
引きこもり生活者のかなり多くの人がパソコンを使っています。
その領域には個人差があります。
どの部分が得意なのかはすぐにはわかりません。
ただほとんどの人はワードによる文書入力はできます。
ある文書を用意し、文書作成(入力)を依頼します。
この意味することも複数あり、当人にとって、また当人と私との関係においていろいろな意味ができます。
(1)生活に変化
引きこもり生活者がしばらく続くにしても、文書入力はそのなかに1つのアクセント(変化)をもたらせることになります。
単調な日常になっている人、パソコンのゲームに集中している人に変化を持ちこみます。
(2)会話のテーマ
その作業内容や進行または技術的なことが、訪問時の会話のテーマになります。
もし文書入力を引き受けてもらえたら、訪問するとき、共通のテーマがうまれ話をしやすくします。
(3)作業を感じるレベル
当人にとってワード(文書入力)ができるとはいえ、人によってはそれまでは、短いメールやネット上の検索のための文字入力などです。
ほとんどが作業とはいえないレベルです。
そういう人に、数ページにおよぶ文字入力を伴う文書入力は、作業を感じさせます。
図表やグラフなどが加わると、知識として知っていただけとか、学校で一度習ったことがある程度です。
それらをこえた技術レベルへの挑戦を感じさせます。
(4)パソコンによる訪問活動
引きこもり生活者の技術レベルによっては、私とともに(私に代わる)パソコンを一緒にできる訪問者につないでいく可能性が出てきます。
この方法を考えた人は数人います。
しかし、実現にこぎつけた人はまだいません。
それが実現すれば、訪問型パソコン教室という性格になるのかもしれません。
それは訪問サポートの別種の方法を開いていく感じをもたせます。
(5)ワークスペースへの橋渡し
もし当人が不登校情報センターに来るようになれば、このパソコンでの作業はそのままワークスペースでの取り組みにすすみます。
訪問活動とワークスペースの橋渡しの役割をするのです。
(6)ネット上の情報提供ページ
訪問活動において、私がこの文書入力を提案できるのは、不登校情報センターのワークスペースにおいて、ホームページ制作をしているという背景があります。
提案する文書入力作業は練習問題ばかりではありません。
現実のホームページ制作に生かされ、ときには実際に掲載・表示され、インターネット上で見られる状態になっています。
この作業は、たんに練習にとどまらないものです。
これらの意味が訪問先の人の状態により、あるものはより強く、あるものはより弱くでてきます。
いずれにしてもここでも押しつけは禁物です。
それはパソコンの技術的レベルが高いとか低いとかには関係しないことです。
この文書入力依頼に代わる作業的なものを持ち込めるのであれば、同様の意味や効果が期待できるでしょう。
それは、訪問活動の中から生まれるのか、居場所的なワークスペースから生まれるのか、さらに別のところからでてくるのか、どの可能性も否定できません。
いずれであってもそれは訪問活動にも役立つ要素を具体的に提示するように思います。
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