Center:2007年10月ー情緒的な友人関係を得ず、公平な人間関係にすすむ(前編)
156行: | 156行: | ||
[[Category:タグ・発達障害]][[Category:タグ・子ども時代]] | [[Category:タグ・発達障害]][[Category:タグ・子ども時代]] | ||
[[Category:インタビューズ|0181]] | [[Category:インタビューズ|0181]] | ||
+ | [[Category:ザインタビューズ4|えっせい]] |
2013年11月24日 (日) 18:25時点における版
目次 |
情緒的な友人関係を得ず、公平な人間関係にすすむ(前編)
〔『ひきコミ』第50号=2007年11月号〕
このところ発達障害の学習に参加する機会が何度かありました。
特別にそれに関する専門的な書物は読んではいないのですが、
その内容には、不登校・ひきこもりに関係していると思い当たることは少なくありません。
その一方、私自身のとくに子どものころの記憶がよびさまされることもいろいろあります。
あるとき「そうか、私は自閉的傾向の子どもだったのだ」という思いにたどりつきました。
そういう目で自分の子ども時代のことを思い返してみると、それに該当するエピソードはいろいろあります。
もっとも全てがうまく説明できるわけではありません。
しかし、そのときどきで私が相手の気持ちの「わからなさ」に対処してきたことが、別の角度から説明のつくこともあるのです。
私の周辺にいる人たちに対する「公平性」がどこから生まれたものかが何となくわかる気がするからです。
ここでは、子ども時代のいくつかのエピソードがどのようなものであるのかについて思い出してみます。
子ども時代のエピソードでは、対人関係におけるできごとと、一人あそびの工夫がいかにされていたかの二つに大別できます。
どのように書けるのかはわかりませんが、思い当たるところから書き始めることにしましょう。
(1)保育園時代――友達はいなかった気がする
保育園が近くのお寺で開かれました。
2歳下の弟と一緒に通園していたので、たぶん弟が3歳のころ開園になったはずです。
田舎のことであり、その園長は父母の知り合いでした。
あるとき私たちは、大幅な遅刻をしました。
私の方は気まずい思いで園内に入っていったのですが、
弟は保母さんに元気よく飛びついてあっというまに私たち兄弟は温かい雰囲気に囲まれてしまったのです。
とにかく私は、弟の子どもらしい自然な行動に助けられていたことがよくあります。
保育園は回廊があるお寺で、子どもたちはそこでよく遊んでいました。
あるとき私もそこにいたのですが、1年下の男の子が寄ってきて何かを言っているのです。
私は気にとめていなかったのですが、その子が急に向かってきたのです。
1年下であると見くびっていた私は急に衝かれた感じでその回廊からつき落とされ、下に落ちて泣いてしまいました。
そのとき何があったのか、私にはちっとも思い出せないのです。
たぶんその男の子がイヤなことを無頓着にしていたのではないかと、思っています。
保育園では友達らしい友達がいなかったようにも思います。
同年齢児がもともといなかったらしいこと、私の活躍分野は絵を描くことで、よくほめられた記憶があります。
おそらく子ども同士での集団あそび的なことのなかに、私はいなかったのではないかとも思います。
(2)小学校低学年――初めて?他人と遊んだ
小学校に入学した日のことです。
田舎の春の出来ごとです。
自宅から小学校までは田舎道でたぶん1キロ近くありました。
母につれられて学校に向かったのですが、途中で母の知り合いの人が荷馬車を引いて歩いているのに出くわしました。
それでその荷馬車に乗せてもらって入学式に向かったのです。
荷馬車の話はメルヘン以上の何ものもないのですが、その日、学校に入って初めて子ども同士の集団あそびの中に引き込まれたのです。
私はたぶん廊下につっ立ていたのでしょう。
突然、元気な男の子がけんけんで寄ってきて、私に足をかけて廊下に倒したのです。
その子は集団あそびの大将格みたいで、「死んだよ」と声をかけたのです。
悪意なく、私はけんけん陣取りゲームの相手側の一員とされ、そこで倒されたから「死んだよ」といわれたのです。
このときの驚きはいまでも思い出せるほどです。
しかしそれは新鮮で健全は感じがするものです。
私にとって子ども同士が直接にぶつかり合うようなことは、それまではなかった、少なくとも記憶にはなかったことなのです。
それ以降、とくに学校外(といっても広い砂浜のある海岸)で、子ども同士のいろいろな集団あそびにまき込まれました。
「カオ(顔)」というゲームがとくに人気があったのですが、はたして読者のなかではどれだけの人が知っているのでしょうか。
しかし、そこでの私の役割(というより参加のしかた)は、その場かぎりでのものであった気がします。
田舎の町中では、比較的年長のガキ大将を中心に、いくつかの小集団ができていて、私はその中には入っていなかったからです。
このガキ大将集団はいくつかあって、地域の民俗的行事、私たちがグロ(一般には左義長)とよんでいた正月の小屋づくりの竹を切り出したり、
祭りの準備をする大人たちの手伝いをしていました。
私はそのグループには入っていなかったのです。
というより家族がいわば他地域からの移動者で十分になじんでいなかったことも関係しています。
その中でも弟は、これらの小グループとはかなりの接点をもっていて、「チッチ」という愛称で町中では元気な子どもとして知られていたのです。
ほかに兄が2人、姉 が1人の5人兄弟です。
(3)小学校中学年――超然とした存在?
おそらく小学校3年か4年のころのことです。
このころの子どもは徒党を組みたがるギャングエイジとよばれます。
同級生の男子で同じ町中に2派に分かれたグループができ対立していました。
実はどの程度の対立なのか私にはさっぱりわからなかったのですが、あるときその一方の側の一人がこう言ったのです。
「タケミ君はこんなグループには絶対に入らないよね!」
それは私を勧誘しているのでもなく、また非難がましくもなく、完全中立(あるいは無関係)を前提とした言い方でした。
事実私は無関心でしたし、そこでどのような対立や関係があったのかはさっぱりわかりません。
そういうことは周囲の同級生のなかでは周知のこととして受け止められていた感じがするのです。
アスペルガーの子どもの特徴として「超然としたところがある」ときいたとき、
「超然」ということばが私のこの体験に重なったように思いました。
そのころからたぶん小学校5、6年生のころ、ときどきクラスの1人が村八分のようないじめというか仲間はずしにあっていました。
それがだれであるのかはすぐにわかります。
私がその仲間はずしにあった子に話したりしても、私がクラスの他の子どもから何かをしかけられることは何もないのです。
その子はおそらく自分から遠慮していたのかもしれないので、話すのはそう多くはなかったのでしょうが。
学校内で本当に私に対して何もなかったのか、私が気づかないだけなのか、実のところはわからないのです。
(4)小学校高学年――最初で最後のケンカ?
小学校5年生のとき同級のMくんとけんか。
それは私にとって最後のけんかでしたが、もしかしたら同時に最初のけんかだったかもしれません。
理由は卓球をする順番だったと思います。
遠い記憶だけれども、その順番をめぐって、Mくんの手が私に向って伸びてきたのがきっかけだった体の記憶はあります。
あとどうなったかはわかりません。
Mくんとは体力的にはほとんど同じですが、たぶん私はキレた状態になったと思います。
けんかはMくんが泣きながらその場を去り、そのまま下校したことで終わりました。
妙だと思うのは、少しは熱血的な担任のY先生からは何も言われた記憶がないことです。
けんかは数人の同級生が見ていたわけだし、Mくんは帰っているから担任は知らないはずはないのです。
このあと「タケシくんは本気でけんかをすると怖いかも・・・」という同級生の会話を耳にしたことがあります。
Mくんとはその後はこれという気まずさもなく、中学時代はクラスのソフトチームでピッチャーとキャッチャーを組み、
同じ高校に進学しました。
しかし高校卒業後は何のつながりもありません。
人間関係に淡白である見本みたいなものです。
このけんか事件に関係するMくんとのことも、私の自閉的傾向を説明するものがあるのかもしれません。
しかしよくつかめないことです。
(5)私が大好きだった「一人遊び」
中学校の話しに入るまえに、一人あそびの工夫も少し紹介しておきましょう。
典型的なのは地図を見ることでした。
ほとんど毎日地図帳をみていました。
地図帳は親戚筋や兄の持っていた古いタイプのものも自分ものにして、世界地図帳だけで10冊ぐらいは集めていたと思います。
その地図帳を切り張りしてまとめたり、事典などのデータを書き込んでいました。
その一部はいまでも残っていますから片鱗は見ることができるでしょう。
1955年といえば小学校5年生のときですが、そのとき国勢調査が行われ、その結果が新聞発表されました。
そこで発表された全国の都市人口をその地図帳に書き込んでいったり、人口順に並べて表をつくったりしていました。
地図帳にある都市の市街図をノートに書き写し、それらにあきてくると、自分で人造都市を構想してノートに書いたりしました。
これは当時は、ブラジリアという人造都市がニュースとして伝わったり、
キャンベラという町が人造都市であるということにヒントを得たものです。
地図に関係するノートは、実はかなり莫大なものになりました。
最初は帳面式ノートを使っていたのですが、後にルーズリーフ式に換え、ノートの分量のムダをなくすようになりました
(たぶん中学校にないってからのことです)。
たとえば世界の湖、河川、山岳、都市、島などが1冊にまとまりました。
地図を見るとわかると思いますが、湖といっても大きな湖のデータが地図帳に載っているわけではありません。
川や島も同じです。
山はそれぞれの山に高さが出ていますからこれを1つひとつ探し出して高さ順に並べていくのです。
川や島や湖はどうするのか。
何と地図上で川の長さや島や湖の面積を計測していったのです。
いまから思えば無謀ですが、長さには糸を使い、面積には1ミリ四方の透明な方眼紙を使っていたのです。
こういう作業をしながら地図をみていると、時間は無限に必要とされたのです。
これもまた、自閉的特徴といわれることになります。
母は看護婦で、からだのことにはかなり口うるさく「目が悪くなる」と毎日のように、私の地図見学をやめさせようとしていました。
まともにききいれたことはなかったと思います。
私はいまでも少なくとも日本の地名をきいたとき、地名の記憶をいうよりも、日本地図を思い浮かべて、
そのどこかをズームアップして所在を確かめているように思います。
図形認識として地名を覚えているのです。
世界地図も同じですが、変化が多くてその変化になかなかついてはいけません。
ただ平成の市町村合併ということで、日本地図の図形認識もかなり難しくなったことは否めません。
この地図に関するノートのうちいくつかは、ミニブックになりました。
手の平に載せられる小さなものでページ数も20ページくらいです。
中学校のときに何冊か作った記憶があり、おそらく1~2冊はどこかに残っているはずです。
私がはじめてつくった(編集した)本ですが、それは一種の事典です。
後年私は、本の編集者になりましたが、その原型はここにあります。
これは自閉的傾向と結びつけられる程度の執拗な集中だと思います。
一人あそびの小道具としては、紙ずもうがありますし、サイコロ野球もあります。
これについては説明を省きましょう。
それなりのあそびとしての奥行きを工夫していたことは確かです。
これもまた自閉的傾向の、一人あそびの小宇宙をつくり出していた気がします。
(つづく)
〔松田武己・ミニ自伝〕
(1)Center:2007年10月ー情緒的な友人関係を得ず、公平な人間関係にすすむ(前編)
(2)Center:2007年11月ー情緒的な友人関係を得ず、公平な人間関係にすすむ(後編)
(3)Center:2007年12月ーよくわからないから、公平な基準を持ち込もうとした?