災害・被災と住民の精神
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2023年7月10日 (月) 16:58時点における版
災害・被災と住民の精神
災害・被災論:社会的病理8
日本人の精神文化は、感受性の色合いの強い文化です。事態を受けとめ、消化し、工夫していく精神性によるものと私は理解しています。
これが行動・行為においてひきこもりに結びつきやすいと考えるのです。
感覚が鋭く、感受性が強いことによるものだろうと思います。
このことはいろいろな視点から考察されています。
すでにいろいろな人が、ひきこもりというのに関わらず考えてきたことであり、それらの意見のサンプルの1つとして災害・被災に関する国民意識への影響を紹介します。
古くは、和辻哲郎『風土』(岩波書店、1935)もその1つになると考えます。
モンスーン地帯に属する日本は、「受容的・忍従的なる特性もここでさらに特殊な限定をうけなくてはならない」とは、和辻さんの論です。
災害の多い日本という国土に即した、「災害国土論」(?)とでもいうべきものをインターネット上で見たことがあります。
毎年欠かすことなく地震、火山爆発、台風、水害などに襲われます。
それへの対応をしてきた積年の防衛や対処がこのような精神文化を生み出したというものです。
自然条件を精神文化の要素に位置付けるという点では、和辻風土論に共通すると言えます。
長い歴史のなかの災害には、中世の内乱や、蒙古来襲、第二次世界大戦期の空襲や原爆投下、最近の原子力発電所の爆発という、人為的なものも加わるわけです。
これらの人為的なことへの対応は、自然災害への対応策の援用と見ることもできます。
日本各地の災害は毎年起きています。私たちは、そういうとき多くの美談を耳にします。
日本人の秩序ある行動は世界から賞賛されて悦に入っているのではないでしょうか。
しかし忘れてはならないことがあります。
1922年の関東大震災時には朝鮮人への虐殺があったこと、広島・長崎原爆の後には被爆者への差別が続き周辺から避けられていたこと、福島原発の爆発から疎開した地域で子どもたちがいじめにあっていたことなどです。
それらの虐殺や、差別やいじめは国民の分断を招き、弱い立場の者同士の足の引っ張り合いになったのです。
そういう差別等は皆無になったとは思いませんが、それでも事態は変わりつつあるのではないか。
それが最近の感想です。
事件の報道においては慎重というか理性的になりました。
もっともSNSの普及がより大きな情報伝達の環境になりフェイクが混ざるという様相になっています。
そのなかで責任ある報道者は差別を助長しないスタンスを感じます。
コロナ禍を過ぎて復活時には、コロナ禍期間に明瞭になった、貧困格差の問題、生理の貧困、エッセンシャルワークの重要性などが織り込まれたものになると期待できるほどです。
大きな災害の後のさまざまな社会的な弱者への攻撃、差別、いじめ…は、今日では告発される時代になりました。
それらの無法がなくなったわけではなく、広範な国民の前に発表され批判を受ける時代になりました。
この時代の変化は、1990年以降におきました。
阪神淡路大震災やナホトカ号の事件(大量の原油の流出)の時のボランティアの動きが印象的でした。
インターネットとSNSの普及と相まって、今や時代環境とみることができると思います。
そういう時代になっているから、子どもへの虐待、いじめ、在日外国人への差別、ジェンダー差別の事例が表面に出やすくなってきたのだと思えます。
ひきこもりはここまでは出やすいとは言えませんが、受け止め方は以前とは変わってきたのです。
日本が自然災害をよく受ける国土であること、人災も繰り返されるけれどもそれらに対する国民意識はこの30年の間にかなり変わってきたのは、こういうところからです。