不登校の専門雑誌『こみゆんと』の創刊
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2023年5月7日 (日) 11:46時点における版
不登校の専門雑誌『こみゆんと』の創刊
北海道の牧場で不登校の女子高校生が働いているのを新聞記事で知った。
問い合わせでこの女子高校生が愛知県出身であるとわかり、連絡をとることができた。
その生徒から連絡の手紙を受けとったのが、きっかけの1つであったと思う。
当時担当していた月刊誌で不登校の特集をすると、いつもとは違う反応がよくあった。
連絡をしてくるのは、教師ではなくほとんどが不登校生の母親だった。
不登校問題をどのようにとり上げるのかあれこれ考えていた。
この女子高校生からの連絡だけではなく、不登校の生徒——小学校の高学年、中学生、高校生年齢——からの連絡は比較的多く、その体験記をよく見ていた。
1991年春に『こみゆんと——不登校・登校拒否の情報ネットワーク誌』を創刊したのはこういう背景があった。
その女子高校生、荒井憲子さんは創刊号に体験手記「学校に行かなければろくでなしなのか?」を載せてくれた。
当時18歳。数えると1974年か翌年生まれになる。
私はマニュアル的な教育方法をあまり好きではなかった。
それに対するのは生活綴り方であり、体験手記的な物語りになった教育体験(というよりは子どもの生活体験の実感記録)が好きであった。
月刊教育誌の読者は主に小学校教師であるから、いろいろなタイプの教育方法、教育実践があっていいわけだが、私のこの好みは、新しく思い描いた不登校を中心に扱う本に向いていたと思う。
型に当てはめて何かに向かうのではなく、それぞれが心のおもむくままに進み、ゆれ動くのを肯定的に見ようとするものだ。
『こみゆんと』は思春期以降の子どもたち(生徒)の作文、生活体験的なものを中心にすることが第一になった。
読者は主に母親を想定したので、不登校に強くかかわっている心理カウンセラー、教師、相談員、それに母親自身による実際の対応方法も多く載せるようにした。
もう1つ、全国各地の相談室、親の会、学習塾(フリースクール等)の不登校にかかわっている団体の情報を集めて載せた。
これは独自の発展を遂げてきたので別稿にしよう。
『こみゆんと』は、母親たちが主な購読層の月刊『わが子は中学生』の別冊として、季刊(3か月毎の発行)で始まった。
創刊直後に新聞発表をしたこともあり、いくつかの新聞で紹介された。
その反応は自分の経験の中では最大のものであった。
編集室は3人いて3本の電話があった。いちばん多い日には電話(主に本の注文)は、1日に200件以上になった。
3人の編集者といってもいつも3人がそろっているわけではない。
全員そろわないときはコールがあっても電話をとれないこともあった。
電話を終えると間もなく次の電話が鳴る状態であった。
その電話の波も数日で終わったわけだが、それでもこの反響は予想以上のものであった。
私はこの『こみゆんと』の創刊から20号ぐらいまで関わり、その後は離れていた。
1995年の秋に不登校情報センターを立ち上げたことが関係している。
そうはいっても同じ分野で動いているので、ときどき関わりのある人に原稿執筆を頼み、自分でも執筆したことがある。
季刊で始まったのではあるが10号から隔月刊(2か月毎発行)に変わった。
そして2000年初めの50号の発行をもって終わった。発行期間は10年であった。
『こみゆんと』を通して、主に十代の思春期から青年期の人たちと連絡をとることができた。
私は教育学というものを体系的に学んだことはなく、彼ら彼女らとのつながりの中で子ども中心、子どもを生かす教育方法を習ったと思う。
好感をもっていた生活綴り方(作文)教育の方法からは、生身の人間、子どもたちの感覚や意見を聞く方法の大切さを学んだ気がする。
生活綴り方をすすめる教師には、どういう理由からか、子どものからだに関心を持つ人が多かったのは不思議な縁で、これも私にはじつに好ましいものだった。
後に私は不登校からひきこもりに関心をごく自然にシフトしていくわけだが、この連続性にまったく不都合はなかった。
荒井憲子さんが1974年生まれだとすれば、彼女と同じ世代、1970年以降から1990年代に生まれた人が私がかかわりをもつことになる不登校・ひきこもりの経験者となるのだから。