授業崩壊事件
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寄宿舎同室の1人が事故で亡くなった後で、ハンスはハイルナーとの仲を戻す。<br> | 寄宿舎同室の1人が事故で亡くなった後で、ハンスはハイルナーとの仲を戻す。<br> | ||
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2023年4月1日 (土) 18:40時点における版
授業崩壊事件
『車輪の下で』を読みながら
古い思い出
第1章を読んだとき、中学時代の思い出が蘇(よみがえ)った。
高校入試のための模擬試験だ。8教科合計800点で点数評価するもの。試験範囲は特になかった。
私は560点台であった。
自分としてはダメダメのものだが、平均70点というのは1人、つまり自分だけだった。
出来の悪さに落胆し、うれしい結果ではなかった。知るべき対象はとらえどころがなく大きなものだと…漠然と感じたように思う。
似たことは高校でもあった。世界史の期末テストだったと思うが60点台だった。
教科担当の先生が、何気ない感じで試験結果を話しているのを聞いていたら、「60点を超えた人もいる」、それが最高点だという。
どんだけ難問(奇問?)だったか。
ここは進学クラスなので、大学受験で世界史を選ばない生徒はほとんど投げている。
大学進学を予定していない私は全科目万遍なく取り組んだにすぎなかった。
他にもあったように思うが、試験問題というのはあまり当てにならない、そんなことよりも相手は無限に深い、本当に大きいと感じていた…。
逆の例(?)もあった。抜き打ちの物理テスト。点数は19点で、満点は50点だったか100点かも思い出せない。
問題は1問だけだったはずで、さしてショックを受けなかった気がする。他の生徒がどうだったか知らないし、そういうこともある、という感じ。
高校の進学クラスの中間・期末試験は、全科目平均で90点を超える強者が2、3人いた。
この3人は全校集会の場で校長が発表していた——彼らを個人的にどうと思うのではないが、高校教育というのは意外とつまらないものになっていると——これは後年になってふり返って思うことだ。
要するに大学入試のための受験勉強であって、長い人生の一時期を特殊なエネルギーで満たしているのにすぎない。
高校入学時点ですでに大学進学から降りていた私にはその世界に入ることはなかった。
というよりも生活に忙しい状態で、気に留めておれない私の外側で生まれていることだった。
中学時代の思い出として気づいたことは、持田政友校長だ。
数年間校長で、たぶん私が1年生のときまでいたと思う。
漁師町にある中学校だった。持田校長はこの中学だけではなくどこに赴任しても、住民とのつながりを重要視した人だと思える。
体育館があり、漁で使う網が(修理作業のため)持ち込まれて山になっていた。
体育館の2階から(5メートルぐらいの高さがある)、生徒がその山となった網の上に飛び降りて遊んでいた。
網は安全なクッションだったわけだ。
おそらく漁師たちの網の置き場の話を聞いて、校長は体育館を思いついたのだろう。
漁業協同組合(漁協という)では、水揚げした魚類を入れる箱が大量に不足した時期があった。
中学校全クラス(200名の生徒)に教員も加わって、魚を入れる木箱の製造にとりくんだ。
校内に材料となる板と釘が持ち込まれ、生徒はそれぞれ金槌を用意して、1時限から3時限ぐらいをこの木箱製作していた。
漁協までは1キロ弱の距離があるが——生徒の多くが住む漁師町——まで、行列を組んで製造した木箱を運ぶ。
担任だったI先生は一度に5箱か7箱ぐらいをかかえて運んでいたのを思い出す。
あるとき漁協で火事が発生した。
全焼ではなかったが、この時も運動力のある3年生は、漁協内にある必要物の持ち出しにかけつけた。
これも校長の判断によるものだろう。
私にはこの校長のやり方が、大学受験に集中していく高校よりも、はるかに参考になったと思う。
むろん中学校と高校の違い、時代背景の違いを考えてのことだが——。
1960年代とは何であったか
第2章。ハンスは、試験には落ちると予想していた神学校に成績2位で合格した。
その意外なところを第1章で読み、自分の体験を中学時代の思い出として書いてみた。
シュトゥットガルトはドイツ南西の中型都市で、日本でいえば北陸の金沢か四国の松山ぐらいのところだろう。
ハンスの話の時代がいつのころのことかは第2章までではわからない。
私が高校を卒業した60年代の日本は高度経済成長が進み、三大都市圏への人口集中と、他方では農村の過疎化と農業の衰退が進んだ。
それは私の経験したことではこうなる。
高校の進学クラスにいた多くは大学進学のためこの三大都市圏に移った。
同級生は東京、名古屋、京都、大阪などに向かった。
私と同じ大阪市大に進学した人もいる。
私のばあいは夜間だったのでこれらの人とは別になる。
彼ら彼女らの多くはそのまま田舎に戻らない。
高度経済成長とは農業衰退期でもあったのだから、卒業しても田舎に戻る理由がなかった。
教員と地方公務員、それに田舎に所有物と権益を持つ医師や事業者がいたはずで、それ以外は田舎には戻らなかった。
日本の企業は大規模化し、地方には営業所や支店が設けられ、おそらく同級生にも転勤族になった者も少なからずいただろう。
田舎にもやってくるこの種の転勤族はそこに留まる者は少数にすぎない。
過疎地域とはそういう地域だ。
私の出身地は漁師町なので、農業地域とは少し様子は違い、それなりの発展があった。
しかし何しろ島根県は全国一の過疎県であり、人口減の中での漁師町はその影響を超えるほどの力はなかった。
進学クラスではあったが私を含む数人が就職した。
うち4人は京都、大阪で夜間大学に進学した。別の一人は広島であった。
他の就職組のことは知らない。
ハンスのばあいは、神学校入学者として一躍地域の特別の人となった。
キリスト教文化圏のこの地域では神父や牧師は特別の人であった。
ドイツは日本ほど人口の都市集中はないと聞いているが、それでも日本と似た状況はあるに違いない
(20世紀の初めではそこまで考える必要もない?)。
第2章はハンスが神学校に入るまでの生活が描かれている。
牧歌的で、ゆったりしている。少なくともそう見える。
1964年に高校を卒業した私には、貧困生活からようやく抜け出せるという安堵感があった。
よく言う青雲の志なるものは思いもつかなかった。
母と弟も一緒に次兄のいる大阪に移ったので、もはや帰るべき田舎はなかった。
近い親戚もいなくなった。
田舎に帰ったのは1986年に父の墓を長兄のいる埼玉に移す、そのための法事のためであった。
兄の話によると「都会の大学に進んだ者は田舎に戻らない」と住職が嘆いていたという。
住職に責任ではなく、残された地域に住む人の状況だった。
私は結局、十年間大阪で、大学病院で働いた。
同じ大学の夜間の学生でもあったが、6年ほど在籍した間にまともに授業に出席したことは30時間もなかったのではないか。
高校3年同じクラスにいて、大阪市大でも同じ夜間経済学部に入学したTくんも同じだった。
入学式の日以外で彼の姿を見たことはない。
彼の結婚式には参席していたので、没交渉ではなかったが、彼も忙しかったのだと思う。
私もTくんもハンスのような自然に囲まれた牧歌的な生活は得られなかった。
中学・高校時代の極貧生活につづく十代後半から20代は、忙しい生活だった。
おそらくTくんに限らず高校時代の同級生たちの多くはそうではなかったかと推測できる。よく働いた世代だった。
そのことに疑念はないが、最近の30~50代の人の生活ぶりと比べて世代間の違いと理解してきたことだ。
この世代間には、まだうまく言葉にできないギャップがある。
この世代間ギャップが、日本のいろいろな場面で、社会的な課題となり、ときには事件になっている。
それは教育の考え方や方法にもあてはまるだろう。
とても一個人の特性だけで語られることではない。大きな動かしがたい流れがあった。
その一片が自分にも影響していた。
自分にできたのはそこで自分を失わず、自分を保ったことだが、それさえも周囲の環境に助けられてのことで、幸運であったと思う。
貧乏生活を経験したことと中学校校長の持田先生の影の力があったのでは…と思ったりする。
親しくではなく公平につきあう
第3章はハンスのプロテスタント系神学校の寄宿舎生活、とくに同室8人の人間関係になる。
日本でいえば高校生年齢に当たるわけだが、私の高校時代にはこれに類する事情がない。
日本の高校生は、とくに大学進学をめざす生徒はこのような人間関係の期間を経験しづらいと思う。
進学クラスであったことと、私の性格的な理由から極端であったので同じにはしないでおこう。
十代後半の日本人、とくに男子にはこの寄宿舎時代にハンスが経験したのと似た事情は生れているはずだから。
私が思い出せるのは小学生から中学生のころだ。
小学3~4年生はギャングエイジといわれ、男子は仲間をつくって行動をする時期といわれている。
当時、Sくんがこう言った。「タケミくんはこんなのには入らないよね」。
仲間に誘いたいのだが、タケミはとてもそんな奴ではないと、Sくんなりに見越していた言い方だった。
学校からの帰りに同じ地域に戻る十人前後が何かのきっかけで、秘密基地のようなところに一緒に入り込んだ記憶がある。
それ以外にギャングエイジらしい行動をしたことはない。
4年生か5年生のころ、野犬が出没している地域に数人で出かけて追い回したという話も、この年代らしい行動だと思う。
しかしそこに自分はいなかった。
ハンスの話の中で、同室のハイルナーは孤立しがちだったが、ハンスはそういう彼に頼りにされる。
しかしハイルナーが暴力事件を起こし、厳しい状態におかれたとき、ハンスはついに彼の味方になる意志表示ができなかった。
私だったらどうするだろうと迫られる場面だった。
たとえば誰かがいじめられているのを見たとき、自分はどうするのかを迫られる場面に似ている。
ハイルナーが暴力をふるった相手は同室の1人だが、ハイルナーを怒っているのは校長である。
そこがいじめ事件とは少し違う。
私はこういう場面にあうことはなかった。
というよりは回避されていたし(知らされないようにしていた?)、私の性格はそういうのに無頓着でもあったためかもしれない。
5年生のとき、生まれて初めてそして最後のけんかをした。相手はBくんだった。
卓球がはやっており、一台の卓球台を前にして勝ち抜きでその順番を待っていた。
何かの拍子にBくんの手が向かってきた記憶がある。
あとは覚えていないが、Bくんは泣いて家に帰ったというし、「タケミくんは怖いかもしれない」と女子が小言で言うのが聞こえてきた。
担任の山田先生は熱血であったが、何も言わなかった。
何人も生徒が見ていたが、先生には知らされなかったのか?
Bくんとは高校まで一緒であった。
彼は高校で生徒会長についたし、高校のクラス対抗のソフトボール大会ではピッチャーになった。
その役を誰かと争ったわけだが、もの静かなわりには押しの強さを感じるヤツだった。
5年生のときもこの押しの強さが関係していたように思う。
Bくんとはいい関係になったのだが、彼はタケミというヤツにはどうすべきかを学習したのではないか。
ふり返るに私は周囲の同級生のことを気にしなかった。
相手、場所をかまわずに言うときは言うが、どうでもいいと思ったことは放置するタイプであった。
後になってそれがアスペルガー気質の表われと知った。
同級にNという女子がいた。母に言わせると彼女は「タケさんのファン」でもあったという。
中3の修学旅行の朝だったか、自宅に迎えに来ていたらしい。そのとき一緒に出掛けた記憶はない。
そのNにはずる賢いところもあった。5年生のある日、担任の山田先生の強い𠮟責の時間があった。
どうやら女子のなかで仲間はずしがあったらしい。
𠮟責の途中で、とつぜん「N!っ」という先生の声が響いた。
どうやらNがこの動きの影の張本人みたいだ。Nはそういう面もあった。
中学に入ると1学期は学級委員長にされた(級長という)。
生徒の投票で選ばれる——そし1年も2年も、3年も1学期にはそうだった。3年のときは3学期もそうなった。
これらの動きはNと、後で話す男子のKが動いていたと思う。
NもKも人の動きを知り、そのリアルな場を差配する本当のリーダーだった。
私が学級委員長や3年生のときに生徒会長にされたのも、彼らが差配する現実の生徒世界に入り込ませない手段であった。
私がそんな場面に入らないように席を設けて祭っておくのだ。
中学1年の昼食時間のときだった。学級委員長として教室の前に出て何か報告した。
報告を終えて後ろの席に戻ろうとしたとき、最前席にいる虚弱的なHさんの弁当箱にひっかかり、こぼしてしまった。
ほぼ食事を終えていたわけだが「ごめん!」といいながら一緒に残りを拾ったことがある。
その後、Nが来てこう言った。「タケミくんは公平、だからみんなから信頼されている」。
Hさんは女子の中で低く見下される位置におかれていた気がする。
Nの言葉に特別に裏の意図があるとは思えないが、「そうか公平か」——自分がしていることはそういうことだと知った。
個人的に親しくなるのでなく、公平に付き合うのだ。
リーダーというのは周囲の人に的確な役割を配置できる、Nはそれができたのだ。
Kは町の有力者の息子で、父親はとくに漁師町の漁師の間では特別の地位にあった。
Kは体格もあり、小学校の高学年ごろからボス役になっていた。
ところがそのKが私に対しては友好的であった。
中学のソフトボールの球技大会でときだった。
練習中にそのボールを投げたところたまたまKに当たってしまった。
こりゃまずいと思って近づこうとしていたらKが「いや~当たったよ」という感じで何だか嬉しそうに近づいてくる。
考えすぎないかもしれないが、Kは私に「一つ貸しをつくった」とでも思ったのではないか、そんな気がした。
Kはクラスの全体を差配し、ときに子分役を動かして特定のだれかを押さえ込んだりもしていた。
その現場を隠し切れないこともあったが、私の前では公然と姿を表わさなかった(と思う)。
相手や場面をかまわず、言いたいときには言うタケミに対して彼は事前に手を打っていたのだ。
「あいつには出る幕を設けない。現実は自分の意のままにする」とでも考えていたのではないか。
人心収らんにかけては、Kははるかに上回っていた。
「タケミはクラスで信用があるし、勉強もできる、野球部ではキャプテンだ。そんなヤツが自分の差配する世界に入ってきてはやりづらい」とでも考えたのではないか。
ただそういう事情は中学時代の私には考えが及ばないことだった。
後年になって事態をこう見ると辻褄(つじつま)があう。
私の中学時代は周囲の事態に「超然としている」——これは後にアスペルガー障害の学習会に参加したとき、カウンセラーがアスペルガー気質の特色を話したとき出た言葉だが、自分の少年時代のことを指していると感じたものだった。
こうみるとハンスの経験した寄宿舎時代の友人関係とはかなり違う。
それでも人間にとって十代というのはダイナミックを人間関係の中にいると、改めて思う。
授業崩壊事件
寄宿舎同室の1人が事故で亡くなった後で、ハンスはハイルナーとの仲を戻す。
ハイルナーが窮地に立ったとき彼の支えにならなかったことを強引に押しのけて仲なおりしたわけだ。
こういう方法を私は知らないが、この年頃なら可能な率直な方法だった。
しかしハイルナーは結局この学校を退学させられた。
『車輪の下で』の著者ヘルマン・ヘッセの批判精神が表われていると解すべきだろう。
教師たちは1人の天才的な生徒よりも小粒ではあるが扱いやすい生徒たちを育てたいのだ。
そしてその天才生徒が後日、世で評判になると、それが自分たちの教育の成果でもあるかのように語ってしまう…?
中学時代の私にこれに例えられることがあるだろうか?
市内の中学校の代表による音楽祭があるので、その参加メンバーにならないかと誘われた。
野球大会には野球部が参加する。水泳大会には水泳部が参加する。
音楽部はないから音楽祭に参加するメンバーを誘うという筋書きになる。
柄にもないのでこの誘いは断わった。しかしやり方がおかしいと思った。
なぜ学級担任や音楽教科の担任は生徒全体によびかけないのか?
まるで扱いやすい仲よしグループをつくるみたいではないか。
そのやり方があちこちにあった気がする。
音楽の時間は3年生2クラス、50人余の生徒の合同授業だった。
生徒の席は決まっておらず、それぞれが自分の席を決める。
教科担任はベテランの女教師M先生だった。
音楽が好きな女子は静かにこの授業を楽しんでいたと思うが、男子の中にはこの枠におとなしく納まる気のない数人がいた。
授業のたびにあれこれのことが起こったが3年の秋についに爆発した。
数人が教室を動き回り、授業にならない。
担任が一言何か言って音楽教室をとび出していった。
授業崩壊だった。
すぐに1組担任で豪腕のI先生がM先生とともに顔を見せた。
I先生は「女子は出なさい」。抑制した言い方がすごみを感じさせた。
女子がぞろぞろと出始めたあと、I先生はM先生を見て「男子は?」と聞いた。
M先生は一瞬間をおいて私の方に顔を向け、「タケミくんはいいです」と答えた。
I先生は「タケミも出なさい」。
女子のあとについで私も1人音楽室を出て中庭に向かった。
女子ばかりの教室には戻りづらかったはずだ。
次の授業は英語の時間だった。教室には女子と男子は私1人だった。
英語のW先生も事態を知っているようで、どうしたらいいのか頭をめぐらしているのだろう。
前に課したテスト用紙を返しはじめた。私にテストを返す順になった。
一瞬目が合い、「おっ、タケミ」と聞こえた。
テストは86点だった(よく覚えている)。
こんなんでクラス1位だったと思うが、教室にいるたった1人の男子で、最高点の生徒を前に事態を転換させるウィットに富むうまい言葉を見出せなかったのではないか。
テストを返し終えてしばらくして、修羅場になった音楽室から男子生徒がわりと静かに教室に戻ってきた。
この日の英語の授業はW先生にとってもさんざんだったろうが、私には何の記憶もない。
音楽室の様子は誰も話してこなかった。
おそらくこれは私の中学生活のなかでの最大の事件だった。
それなのにその事件の中に私はいなかった。
車輪の下にいたのではなく車輪の横にいたのかもしれない。
高校進学が急増する直前のこと
計算するとこれは1960年の秋、60年以上も昔のことだ。
高校進学率はこの中学校では50%程度だと思う。
音楽の授業を思い通り(?)にぶち壊した数人は、高校進学組ではなかった。
彼らには約束された未来があった。子ども時代から慣れ親しんでいた漁師になるのだ。
おそれる壁はなかった、少なくとも見えなかっただろう。
野球部でバッテリーを組み、ピッチャーをしたMがいた。
相撲部のTもYもいた。相撲部のYとは何度か相撲をしていい勝負だった(と思う)。
前に書いたSもいた。他にこの動きの中心にはDもいた(Dはあるとき苗字が変わったのは家庭の事情だろう)。
私はKやBよりもやんちゃなこいつらが好きだった。
動きは粗雑であったが人の好さが感じられた。
彼らは何か大きな流れの中で自分たちは置き去りにされて進むものを、動物的な勘で察知していたのではないか。
中学生の私は彼らのおかれた位置を思いつくことはなかったし、彼らがこの流れを意識して授業崩壊をねらったとも思えない。
それはハイルナーとは全く違うタイプのものであったが、少年らしいしかたで抵抗精神を表わしたのではないか。
推測するに彼らには音楽祭参加の誘いはなかっただろう。
教師たちは、この社会の流れに沿って動くように求められていた。
その労働条件や教育条件にはいろいろ制約があったとは思うが、力で制圧する仕方しかできなかったのはいただけない。
大人の教師としての知恵が感じられない。この教育の流れを意識していなかったのではなかろうか。
その後の音楽室の様子を知らないので、これ以上は言えないが…。
私のやり方はどうだったか。
事態の発生を予測できなかったのはともかく、「相手や場所に関係なく言いたいことを言う」ことがないのはいただけない。
正義感が貧相な形にしぼんで表われるのが嫌だった気がする。
そして、なんとか動きに巻き込まれずに自分をかろうじて維持した。
60年前のこの事件を総合すればこの言葉になる。
『車輪の下』を読み終えて
第5章については何も書けない。ただ著者は残りの第6・7章において、復活を書くつもりではないかと予想した。
第5章では、ハンスは学業面、生活的、精神的な底辺になったことを書いている。
第6章は予想通りに復活に向かうかに見えた。
しかし中途半端で、この日は最終の第7章まで読み進めた。
しかし、ハンスは泥酔して水死した。復活はかなわず、読後にさっぱり感がない。
ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』はある人が読んでいてかなりひかれていたと言うので、読む気になった
(UNTERM RAD、1906年、松永美穂・訳、光文社文庫『車輪の下で』、2006年発行)。
近年、小説はほとんど読んでいないし、気分転換のつもりだった——。
中学生のときヘッセの『ペーターカーメンチント』を読んだ。内容の気憶はない。
高校の世界史の授業のときFくんがY先生と『車輪の下』の話をしていたのを覚えている。
それが教育に関わる小説だった記憶があった。
3月に入って近くの図書館で見つけて借りた。
第1章を読んだときは、中学時代のことを思い出して書いてみた。読書感想にするつもりはなかった。
毎日1章ずつ寝る前の小1時間読み、その後あれこれ思い浮かべながらいつの間にか眠りにつく数日だった。
6章と7章を読んだのが最後の読後感になり、それまでとは違った。これという思いも出てこない。
1章から4章までに思い出したのは中学時代のことだ。
1945年生まれで、1955年に新聞で「もはや戦後ではない」と報じられたが、これはよほど後に知ったことだ。
この時期が私の中学時代に当たる。
中学時代は高度経済成長が始まる直前の時期である。その時代背景が私の中学時代に影響していた。
この時代の推移のなかで、変化を最も鋭く感じたのは、私よりも授業崩壊させたやんちゃな連中だった。
彼らは言葉でこの変化を表わすことはしなかった。
しかしその行為によって、先見性を示していたのではないか。
そういう見方がこの後の60年の私の経験の中でできるようになった。
彼らとはその後、没交渉である。おそらく漁師として歩んだと推測できる。
ハンスは社会制度になじむ前段の教育のなかで、圧殺された——ヘッセがそう言いたかったのだろうか。
この違いは、社会的な背景と個人の資質によると考えたい。
そういうなかで、小賢しい一小市民の候補である自分の態度、行動はそれでも肯定的に見られる面もあったと思う。
自己弁護のためと見られるかもしれないが、自分なりには比較的冷静に判断しているつもりでいる。
読書のきっかけになったHさんが見たらどう受けとられるだろうか。
不登校やひきこもりの背景事情としてみて欲しかったのかもしれない。
そうともいえるが、中心は違う気がする。
だから意味不明の読書感想として受けとられるのはやむを得ないだろう。
*生徒が不登校として表われる以前に校内暴力の時代があった。
そこに世代間の意識と行動に違いを感じる。ジェネレーションギャップである。
私の中学時代は校内暴力に表われる時代であり、世代だと思う。
これに個人差が重なっていく。
ドイツと日本の違い、20世紀初めと終わりという時代の違いもある。
そこに共通する部分もあるが、中心ではないと考えるからだ。
4章のところを書きながら、中学時代の思い出は15年ほど前に少し書いたのを思い出した。
自分がアスペルガー気質であると気づいてそれに関わる少年時代をふり返ったときだ。
しかし今回はそれを取り出して読み返さなかった。
人の記憶は変わるという。前に書いたものを引き写したのではそれを見ることもない。
よほど時間が経ってから両者を対照して見れば何かがわかるかもしれない。