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家族・家屋の変化と世代間のギャップ

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(家族・家屋の変化と世代間のギャップ)
(家族・家屋の変化と世代間のギャップ)
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それが新しく生まれた子ども世代とのすれ違いや衝突を引き起こすことになります。<br>
 
それが新しく生まれた子ども世代とのすれ違いや衝突を引き起こすことになります。<br>
 
いわば旧家族像の残像と新しく生まれた個人を生かす家族像との違いです。<br>
 
いわば旧家族像の残像と新しく生まれた個人を生かす家族像との違いです。<br>
 
和辻さんのいう日本の家族や家制度は、いつごろできたのでしょうか。<br>
 
西谷正浩『中世は核家族だったのか』(吉川弘文館、2021)が貴重な発表をしています。<br>
 
鎌倉時代以降の中世は、日本社会の大転換期であり、農業という経済社会の確立とそれに相当する家族関係が成立したというのです。<br>
 
20世紀後半の高度経済成長をはさむ現在がそれに続く大転換期であるという点を理解したうえで見てください。<br>
 
次の要約が西谷さんの中世以来日本の総括的な家族像と認められます。<br>
 
「中世民衆の家族構造は、単婚の核家族で、分割相続を基本とした。結婚した若い夫婦は、親の援助をえやすい出身家族の近隣に住むことが多い。<br>
 
中世前期の民衆家族は、核家族世帯と、核家族世帯を統合した親族組織からなる、二重構造を形成していた。<br>
 
後者の拡大された家族は、①それが存在しない単独世帯のみの状態から、<br>
 
②区画溝をもたない屋敷地に二、三世帯が居住する地点をへて、<br>
 
③明確に区画された屋敷地に複数の核家族が屋敷地共住集団を形作る段階までに位置づけられる。<br>
 
おおよそ、①と②が小百姓層、③が名主層にあたる」(104p)。<br>
 
そして「名主層の者は、屋敷内に親類・下人を住まわせ、妻子・眷属(けんぞく)をひきいて農事にあたったという。<br>
 
屋敷内に住む親類・下人は、脇在家ともよばれた。<br>
 
逃亡家族のなかには、脇在家として名主屋敷内に同居し、恩人である名主家の経営を支えるものもいたに違いない」(64p)とあります。<br>
 
庶民である小百姓の多くは核家族ですが、名主屋敷内など居住地が互いに近く、核家族の複合型ではないかと私には理解できます。<br>
 
西谷さんはこれを屋敷地共住集団、親族的な協同組織を形成していたと見ます(90p)。<br>
 
分割相続の過程はかなり平等ですが、この親族的な協同組織から本家や分家の関係が生まれると予測できます。<br>
 
この基本部分は昭和の前半にも通用すると思われます。<br>
 
 
しかし、このような核家族の複合大家族は変革を迫られました。<br>
 
その家制度を空間的・物理的に変更させたのは1960年代の高度経済成長期です。<br>
 
それに先行して1945年の帝国日本の敗北による西欧民主主義制度の導入によってある程度は助走を始めていました。<br>
 
そこに高度経済成長が導入されたのです。<br>
 
家族の状態に対して何が降りかかってきたのでしょうか。第1章の日本の経済社会の変動で述べた事情です。<br>
 
高度経済成長期には、若者を中心とする工業地域(主に都市)への人口移動がありました。<br>
 
その直接の結果は家族の分離です。<br>
 
父母世代は田舎に残り、子ども世代の多くが工業地域に移りました。<br>
 
盆と正月の数日に家族がそろう状態です。<br>
 
これは多少の変化がありますが、今に続く状態です。<br>
 
都市に働きに出た子どもは田舎に帰らずに、都市地域で結婚しそこで新たな家族を築きます。<br>
 
見合い結婚は少なくなり、個人の自由意思による恋愛結婚が普通の状態になりました。<br>
 
これらは個人が、特に女性が独立した社会的な存在に進む基盤としては進歩の面があります。<br>
 
家族内によく表われた嫁姑問題という衝突トラブルの機会は少なくなりました。<br>
 
この動きは個人の自由意思を優先した婚姻関係・家族関係になると、肯定的にみられてきました。<br>
 
多世代型の大家族制(核家族の複合型ですがいくぶんは変化していたはずです)は減少してきました。<br>
 
家父長的な大家族の解体が進んだのです。<br>
 
 
そうはいってもこのような家族関係が、家族・家庭に対する考え方や期待するものがすぐに変わるわけではありません。<br>
 
ひきこもり経験者のなかにはいろいろな事例があります。いくつか見ればうかがい知ることができるでしょう。<br>
 
 
〇父親:「社会の掟、約束事、世間体を示す原理主義者になりやすい立場の人。<br>
 
家族内の独裁者。家ではいろいろと弱点を示すけれども、外面がよく、周りに対してはいい親をしたがります。<br>
 
その落差は驚くほどですが、当人はそれに気づいておらず一個の統一体を続けられる不思議な存在です」<br>
 
〇押し付け:「母の躾は細かくて完璧でした。<br>
 
話し方、座り方、食べるとき、衣服の選び方から着方などなど、私のやり方が少しでも気になると注意し、変えられました。<br>
 
過干渉だと思います。ときには身を削られる思いがしたこともあります。<br>
 
躾が丁寧すぎてお躾(押しつけ)だったのです」<br>
 
 
こういう親子間の経験を重ねる中で、次のような極端な状態もあります。<br>
 
〇断絶:「生まれてからずっと同じ家に住んでいます。アイツ(父)も同じ家にいます。<br>
 
顔はあわせないようにしていますが、ときには顔を合わせます。声を掛け合うことがなくもう二〇年以上になります。<br>
 
父と子なのに、けんかや衝突を超えた冷たい断絶です。このままではよくないのですが、自分からは譲れません」<br>
 
〇毒母:「子どものころは味方で、大人になると敵だと思うようになった存在が母です。<br>
 
自分の不自由さや苦しさは母との関係にあると分かりました。<br>
 
占い師から「家の中に敵がいますね」と言われて、納得しました」<br>
 
 
『ひきこもり国語辞典』のなかには親子関係など家族に関係することはいろいろ出てきます。<br>
 
その中には親世代と子ども世代の社会の様子が違うことによる点が多いと思います。<br>
 
経験のなかにはハラスメントや虐待に近いこともあると思いますが、多くは世代の違いによる受けとめ方や理解の仕方の違い、何を大事にしていくのかの親子世代間の違いによるものです。<br>
 
  
  

2022年1月3日 (月) 15:51時点における版

家族・家屋の変化と世代間のギャップ

ひきこもりの社会的・歴史的な基盤 (試論の素描 4)

自分の過ごした家族の記憶があるので、家族にもいろいろというのはともかく、変遷の歴史があって変化してきたといわれてもピンとこない向きもあるでしょう。
自分の家族がどのような特色をもつのか、現在の日本の家族関係は重大な曲がり角にあるとはいったい何なのか。今回はそのあたりです。

ひきこもり経験者から相談などで話すと家族に関係することは多いです。
悩み、難しさ、不満など家族・家庭に関する訴えや相談事です。
立場は違いますが親の相談にも家庭内の問題はあります。
ただ「これでよかったわけではないのですが…」「どうすればいいのでしょうか…」などの反省や戸惑いの気持ちが多いのが特徴です。
こうした相談をしてくる親の大半は、一生懸命であり誠実です。
そうではなくひきこもったのは子どもの事情であり、親や家族が出る幕ではないとする子どもの独立性を肯定しているように見える人もいます。
親が相談する問題ではなくあくまでも子どもの問題とするのですが、自分を含む家族・家庭にも関係するし、こちらにより深い原因がある場合もあります。
『ひきこもり国語辞典』のなかに子ども側から挙げられた例です。

〇鬼門:「うまくいかない場所、苦手なことを鬼門といいます。
私にとって疫病神がやってくるところが家族です。
その意味で家族が鬼門です」

〇知的な親:「親が妙に賢いと理屈でものを言います。筋は通っているので受け入れます。
しかし、その理屈に流されていくと自分を失います。
子どもの感覚や気持ちを受けとめて、理屈で「ノー」のところも見てほしいです。
子どもは理屈で育てるよりも愛情をもって受け止めてほしいのです」

これはひきこもり経験者の言葉ですが、ここに見えにくい家族の問題が潜んでいるように思えるのです。
それは「建前」に基づき、子どもが社会に生きるための「期待」を表わすものでしょう。
それをたどっていくと、親側が理解している世間像とか、その枠内に子どもがどう入るのか期待が見えてきます。
そこから外れないように、そのコースにうまく乗れるように「建前」や「期待」が子どもに向けられるのです。
ここに親子間・家族間のズレ、文化的なギャップが含まれていると思うのです。
鷲田清一『悲鳴を上げる身体』(PHP新書、1998)の一節にこうあります。
「近代社会では、ひとは他人との関係の結び方を、まずは家庭と学校という二つの場で学ぶ。
養育・教育というのは、共同生活のルールを教えることではある。
が、ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなくて、むしろルールが成り立つための前提がなんであるかを理解させることであろう。
社会において規則がなりたつのは、相手が同じ規則に従うだろうという相互の期待や信頼がなりたっているときだけである。
他人へのそういう根源的な<信頼>がどこかで成立していないと、社会は観念だけの不安定なものになる」(70p)。
親子のすれ違いは、生活のベースが違ってきているのに、同じルールを適応する親側にあると思えるのです。
私も親世代の1人ですから、曲がりなりにも(相当におかしいといわれますが)親世代の感じはわかるつもりです。
典型的な家父長的な家族関係を基準とする人はもはや例外的にしか見当たりません。
しかしその残像と言える現実はあります。
そのあたりをかつての人はどのように説明していたのかを見ていきましょう。

和辻哲郎さんの有名な『風土』(岩波文庫、1935)は自然条件が人びとの家族関係や精神文化に影響すると考えていたようです。
『風土』では、人間存在の構想契機として、人々が住む風土をモンスーン、砂漠、牧場の3類型を上げ、日本をモンスーン型風土とします。
そして「家族的な生活の共同に最も強く重心を置いたのは、モンスーン的な家族である」(169p)と、気候的な環境条件から日本的な家族が生まれていると指摘したうえで、その特徴を、次のように描きます。
〈「家」は家族の全体性を示す。
…現在の家族はこの歴史的な「家」を担っているのであり、従って過去未来にわたる「家」の全体性に責任を負わねばならぬ。
「家名」は家長をも犠牲にし得る。
だから家に属する人は、親子・夫婦であるのみならず祖先に対する後裔(こうえい)であり後裔に対する祖先である。
家族の全体性が個々の成員よりも先であることは、この「家」において最も明白に示されている。〉(170p)
家父長的とされる家族制度は子どもなど家族の成員にとって大きな束縛になるだけではなく、その家長も家名に束縛されるのです。
そうでなければ世間(家の外の社会)の中で生存し続けがたい条件があったと読み取れます。
〈親のために、また家名のために、人はその一生を犠牲にする。しかもその犠牲は当人にとって人生の最も高い意義として感ぜられていた…。
「家名」のために勇敢であった武士たちは皆そうであった。家の全体性は常に個人よりも重いのである。
…しかし資本主義を取り入れた日本人は「家」において個人を見ず、個人の集合において家を見るようになったであろうか。
我々はしかりとは答えることができぬ。〉(171-173p)
家族の一個人ではなく家族全体で自然と世間(社会)に対して立ち向かっていた。
その意味で家族の全体性が優先し、そこに属する個人は後回しになり個人はそれに貢献するように求められた。今日から見れば不条理な理解も悲劇もあります。
私はそこに時代的な制約をもちながら日本人が生きながらえるために家族をこのように整え、闘いに備えたと感じるのです。
このような伝統的な家制度の下での精神性を新渡戸稲造『武士道』(1899)や、山本周五郎(1903-1967)の時代小説・大衆小説にも見ることができます。
そこに表われる家族は理想化され美化されていることは確かでしょう。
それは歴史的な条件がないなかでの出来事です。
和辻さんは資本主義を取り入れた日本にもそれは継続しているというのです。
このような家族の考え方は個人的な特色を持ちながらも、特に親世代にはいろいろな形で続いています。
それが新しく生まれた子ども世代とのすれ違いや衝突を引き起こすことになります。
いわば旧家族像の残像と新しく生まれた個人を生かす家族像との違いです。

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