Center:2001年6月ー引きこもりへの訪問活動
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引きこもりへの訪問活動
〔『ひきコミ』第6号、2001年6月〕
家族を社会から孤立させない
引きこもり状態の人にとって、訪問活動は重要な対応です。
引きこもりといっても一様ではなく、状態、程度に個人差があります。
なかでも対人恐怖や人間不信の強い人を想定して、訪問活動の内容、方法、意味などを考えてみましょう。
引きこもりの人のなかには訪問して会うこと自体が、一つの目標達成になる人もいます。
それはマイナス状態からゼロに到達することかもしれません。
ゼロに到達するために活動内容がある、と思えます。
私たちの訪問活動でこんな例があります。
本人は2階の自室に引きこもって出てこない。
訪問者は2階に上がれない。
尋ねていって、母親と話して帰ってくる。
目標とする本人には声さえかけられない。
しかもそれが1回、2回でなく数か月続く……。
この訪問にも意味があります。
子ども・若者が引きこもっている家庭に外から継続的に人が入ってくる。
そこに意味が生まれるのです。
引きこもっている個人とその家庭(家族)、そして社会の3つの関係を考えてみます。
引きこもっている個人は社会から離れています。
その中間にある家族が社会(特に隣近所)とつながっているのか、孤立しているのか、これは重要な点です。
引きこもりの本人が家族からも孤立し、その家族が社会から 孤立している――この引きこもりは長期化する条件が高いでしょう。
そうではないとしても、個人、家族、社会がどのような関係になっているのかは、引きこもりから抜け出すのを考えるときの重要条件といえるでしょう。
引きこもった人には、昼間から自室のカーテンをひき、自分の姿(存在)を消すようにする人がいます。
家族にもそれを強要したり、家族にも人付き合いを制限する、兄弟などが結婚後、実家に戻り、配偶者や子どもとたずねてくるのを制限しようとする。
これらは、当人だけでなく、家族をもまた社会的引きこもりに向かわせているのです。
訪問活動は、目立たないのですがこの家族の社会的孤立を反対の方向に向かわせる作用があります。
ある訪問の実例です。
半年間繰り返した訪問活動ですが、まだめざす引きこもりの本人には会えません。
いつも母親と話して帰っています。
目立った変化は、母親が明るく元気になったことです。
訪問する彼女は、ある日、玄関先で近所の人と思える人から声をかけられました。
「こちらのお嬢さんですか?」と。
この訪問先が隣近所とのつき合いの少ないことを実感したと言います。
長年住んでいるのに、多少つき合いがあれば問われるようなことではない、と思えたからです。
彼女が訪問を続けるなかでの母親の変化は、家族が社会からの隔離を取り除きつつあることの一つの証のように思えるのです。
訪問する側が観察される期間
訪問を始めても、引きこもり本人に会えない時期の別の一面をみましょう。
それは訪問者が、訪問を受けることになっている引きこもり当事者から観察される時期が始まるのです。
会わなくても観察できるのか? 会わなくても伝わる、わかることはいくらでもあります。
訪問者のもつ雰囲気のおおよその輪郭は伝わると考えていいでしょう。
話し方、立ち居振るまい……は、同じ屋根の下で、耳をすましじっと観察する人には伝わります。
訪問者が演技をして静かにしているのか、もともと遠慮がちなのか、元気そうに自分によびかける声は本物か、そういうことをじっと聞き耳を立てているのです。
それだけ感性が鋭く、また人間への警戒感が強いのです。
しかしそれだけに、真実に信頼できる人間を求める強い願いももっています。
この二重の気持ちが、せっかく格好の出会いのチャンスを逃すこともあります。
それでもある程度の確率で、裏切られ体験を重ねるよりはよいと考えているように思えます。
自分の心に入って、作為的に何かをしようとする人間、その侵入を阻む方法が、この「会わない」という行為、あるいは「会わない」という生活かもしれません。
この観察に合格をえて訪問者は初めて目指す引きこもり本人に会うことができると思います。
このような引きこもり状態の彼ら、彼女らは、個人的な体験を経た感情として、社会における人間関係のゆがみを直してほしい、と切実に願っていると思います。
もしその感情や感覚を持ちつづけたまま、行動力や社会性を身につけたなら、人間関係のゆがみをただす、社会変革の革命家、宗教者、広義の求道者、哲学者あるいは芸術家になるのではないかと思う人もいます。
私は、訪問してもなかなか会うまでに至らない人とは、慎重である、人間不信が強いというレベルの理解にとどまるものではないと思います。
彼らは社会=人間関係のゆがみの被害者です。
ですから、引きこもりの人は、現在の日本社会を覆う、社会=人間関係のゆがみが続くかぎり、増えつづけていくと思えるのです。
彼ら、彼女らの一人ひとりに目を向けながら、社会全体のゆがみにも目を向けなければ、この問題の根本的な解決は望めないでしょう。
彼ら、彼女らの一人ひとりの願いに沿うこともできないでしょう。
相手を受けとめる姿勢が先行する
訪問活動を始めようとしている人に、こういう話をしたところ「とても大変ですね。できるかな~」という感想を述べました。
私はこれを聞いて「できる」と思いました。
むしろ心配なのは自信いっぱいに「できますよー」というタイプです。
もちろんそれにもいろいろなタイプがあり一様ではありません。
自分にも引きこもりの体験がある、だからできるだろうとなるのが私の心配の一つ。
別のタイプは、心理学や教育学などの勉強を重ねていて、それが支えになる安心感からくるものです。
この両方とも訪問相手の気持ち、気分を受けとめようとするのが先行しないのではないかと思います。
自分の経験による感覚や理解のしかた、学習成果による分析を先行するのではないか、と思えるのです。
受けとめて認める、共感できることをさがす、これが基本だと思います。
これが逆の場合は、うまくいかないことが多くなりそうです。
できるかどうかを心配するタイプの人は、この受けとめを先行していきます。
訪問者の条件は他にもありますが、この点は最重要でしょう。
引きこもっていて、訪問者に会わないで十分に観察しようとする人は、訪問者が自分のことを左右する人でないことを100%以上安全確認するまで会わないのではないかと思うことがあります。
しかし、実際には少しずつ揺らいでいます。
何よりもほとんどの人が、現状の引きこもり状態を抜け出したい、と心の底で思っています。
安全性を確かめるためには、一度は訪問者を見ていかなければいけないとも考え始めます。
それらがないまぜになって、訪問者に「一度会ってみてもいいかな」「どんな人なのか見てもいいかな」という気持ちが芽生えてきます。
もう一つはハプニングです。ハプニングとは予想外のことです。
しかし世の中はハプニングの連続といっていいくらいのものです。
家族の中では行動や考え方がお互いに予想できる範囲のことが多いだけなのです。
同じ家の中にいることは、訪問者と訪問を受ける人がハプニングで出会う機会も生まれます。
トイレの前でバッタリと出会う。何かのことで顔を会わせることはあります。
このハプニングによって訪問者が、初顔あわせできたとき「あなたを外につれ出すためにやってきました」というのではなく、「あなたに会えてよかった」という雰囲気が出せることです。
それは演技力ではなく、訪問の目的自体がそのようなものでなければ成功しないでしょう。
訪問者同士で体験交流できる場をつくりました。
そのとき「相手に影響を与える」姿勢はむしろ否定されました。
いかに訪問相手を認めるのか、その人から何を学べるのか、そこに重点があり、それが対等な人間関係をつくる土台であると話がすすみました。
私もそう思います。それこそ訪問を受ける側が望むものであるし、「友達みたいな関係」をめざす訪問目的の方向と一致するからです。
訪問の条件にはこのほか年齢の近さがありま す。同年齢より少し上です。
訪問する側と訪問を受ける側が、真実友達になれる可能性のある人同士であることです。
専門的な知識はなくても、互いにもっとも 必要とする条件を潜在的に持っていることも大事です。
医師、カウンセラー、教師とは役割が違うのはこの点です。
失敗は恐れず人間味で向きあう
不登校情報センター訪問活動部門トカネットでは、これまで主に高校年齢までの学齢期の不登校の子どもへ訪問を重ねてきました。
訪問している学生が一致して言う点は「マニュアルではない」「マニュアルにはできない」ことです。
約束事としてあるのは、「なぜ学校へ行かないの? という質問はしない」「何かいいところをみつけて誉める」の2点です。
そのほか(事実上あらゆること)は、その場その場にふさわしい対応を、その場で考え判断していくことになります。
平たく言えば、日ごろの人間性で向きあうことです。
その行動や言葉は当然のことですが、心理学や教育学の見地から疑問のつくこともあるでしょう。
訪問を希望する家族からは、「訪問する人は心理学の訓練を受けた人ですか?」という質問を受けることもあります。
要するに、訪問者は上に立って導くことを期待しているのです。
しかしそれは子どもの願うこととは違ってきます(ただ、年少の場合は、そういうことも子どもの願いと一致することはあります)。
訪問活動内容で、土台になることとは、サポートする側とサポートされる側、教える側と教えられる側の関係が、一方的、固定的でないことです。
訪問を受ける側の年齢が高ければ高いほど、この土台はそのようなものでなければ役に立ちません。
訪問する側が相手を受けとめる(学ぶ、認める)姿勢であるというのは、これに関連します。
こういう土台があれば、心理学的解釈からみた対応の拙さ、教育的見地からみた間違いなど、二次的、三次的なものです。
そのような細部にこだわり、土台を危なくすることが大問題です。
訪問者には、若者らしく、失敗を恐れず、の姿勢がいいのです。
こういう土台があったうえでの失敗は、むしろ訪問を受ける側に安心感を与えるでしょう。
そうか失敗したっていいんだ、人間は失敗するものなんだ、と。
それは訪問者が自分の弱点を開示することでもあります。
引きこもりの人のなかには、かなりの程度で、失敗は悪いこと、間違いは許されないこと……などなどことばではわかっていても、感性としては人間離れした観念が植えつけられています。
しかし人間は間違いながら成長し、失敗しながら力をつけていくものです。
そういう人間の自然の姿を、訪問者自らが示すことで、訪問を受ける側の心を楽にときほぐしていきます。
訪問を受ける側は、このような人間味のある訪問者を受け入れ、親しみをもってくれるのです。
このような訪問活動を続けていくと、友達的な関係、お兄さん・お姉さん的な関係になります。
活動しながら向上させる
訪問活動はそれ自体が一つの独立した取り組みですが、引きこもっていた人が動き出すと次の場面の移行がみられます。
十代までの子どもの場合、その変化は顕著に出ます。
外出する、学校に通い始める、途絶えていた勉強を再開する、フリースクール的なところに行きたいと言いだす、中には海外留学をした人もいます。
十代までの場合、本人の柔軟性もあり、また受け入れる社会的な対応方法、対応機関も、かなり整ってきていることが背景にあります。
20代以上、特に20代後半からは、2つの点で重さが違ってきます。
一つは引きこもっている本人の精神的負担が深く、行動がさらに慎重になっていることです。
もう一つは社会的対応が、きわめて不十分なことです。
引きこもりの人への訪問者の主力は、自分に引きこもりなどの対人関係不安の経歴のある人たちです。
引きこもり経歴を持つ彼ら、彼女らのうち、積極性の出てきた人たちこそ、訪問活動のできる“即戦力”になると思います。
その内容の基本は、学齢期までの子どもへの訪問と同じです。
一つわかったことは、引きこもりの人の一部には「私には思春期が遅れてやってきた」という感覚があることです。
これは大事なことのように思います。
この訪問者たちは、だいたいが遠慮がちで、相手の気持ちを優先して考える人たちです。
一般の業務(就職など)に就くには気持ちの上で不安もあり、仕事をしていないために時間もあります。
これらが訪問者の主力になり、即戦力になる条件です。
しかしこういう意見も出ました。「一人で訪問するんですか?」
引きこもり経歴のある人が訪問に向かうときの心理状況を的確に表現しています。
引きこもりの人と自分が一対一で対面することになるかもしれない。
相手はどんな人だろう、どう声をかければいいのか、どう振るまえばいいのか……もともとはそういう面で内向的・消極的な人たちです。
これまで当事者グループのなかで、いろいろな人と出会い、話をする機会も積み重ねてきた。
でもそこには何人も人がいて、間も持てたし、複数の人がいるなかで話題も続きました。
会の終了後は喫茶やカラオケに一緒に出かけました。
しかし、今度は一対一かもしれない。「一人で訪問するんですか」という問いは、これらの背景全部を凝縮している重みがあります。
それにどう答えられるのでしょうか。
訪問者の個人差、訪問を受ける側との相性みたいなものもあるはずです。
いま言えることは、やってみなければわからないということです。
いまは実行し、経験を重ねる時期です。
それで複数メンバーによる訪問活動も視野に入れています。
複数の人が同時に訪問する、チームを組み一人ずつ交代で訪問する、などの方法です。
複数訪問で心配の一つは、訪問を受ける側の費用負担の増大です。
20代以上の人への社会的対応が乏しいなかにはこの費用負担の援助がない面もあります。
また職業訓練や就労の面もあります。
当面は対人関係を訓練でき、友達のできやすい居場所が必要です。
私の訪問活動では、不登校情報センターの当事者グループに一緒に参加するようにすることが一つの目的になります。
しかし、遠方の人もいますので、至る所に友達のできそうな居場所は必要なのです。
同時に、引きこもりの人たちは、現在の社会にすんなり入っていきたいとは思っていない気もします。
この人間関係のゆがんだ社会は変えなくてはならない世界なのです。