居場所づくりと仕事おこし
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居場所づくりと仕事おこし
2014.1・12 松田講演(福岡・早良市民センター)
こんにちは。不登校情報センター代表の松田と申します。
これから約2時間、お話しさせていただきます。よろしくお願いします。
みなさんのお手元に、今日お話しする内容のレジュメがあると思います。
タイトルは「不登校・ひきこもりからの旅立ち」です。
これをめくると、今日お話しする内容があります。
ここを中心にお話ししまずが、たぶんこのとおりに話は進まないと思います。
話しながら考え、考えながら話しをすることになると思います。
まず「はじめに」というところを考えてみたいと思います。そこだけでいくつか話すことがあります。
一つはなぜ私がこんなことを初めてしまったかということです。
これはよく人から聞かれます。実は私は元々は教育雑誌の編集者なのです。
それが、今は教育雑誌をほったらかして、編集というのは職業としてやってはいるのですが、それは年に数日やる程度です。
1年350日ぐらいは不登校情報センターにいて、そこに不登校・ひきこもりの経験者が来て、毎日なにかやっている。
なぜそういうことになったかを、まずお話ししたいと思います。
20年くらい前から、編集をしていた雑誌で「登校拒否問題」を扱うようになりました。
今はそれを「不登校」と言うようになって、「不登校情報センター」の名前もそこから取っています。
その雑誌の読者は、学校の先生が多いのですが、「登校拒否問題」の特集を組むと通常の読者以外のお母さんがたから、多くの電話がかかってきたのです。
そういうところから、私はこの問題にかかわることになりました。
詳しい部分は省きますが、1992年に、それ専門の雑誌を創刊しました。
もしかしたらご存じの方もいるかもしれませんが、『こみゆんと』という雑誌です。
1992年の4月に創刊したのですが、これは通巻50号で終わってしまいました。
それと並行して、不登校問題、高校中退問題にだんだんと取り組むようになっていったのです。
1995年には、編集の仕事を中心にはできなくなって、独立して今に至ります。
その95年に「不登校情報センター」は設立されました。
その翌年96年に初めて「当事者の会」をつくりました。
「通信生・大検生の会」の名称で初会合をやりました。
これ以後、名称は変わりましたがずっと当事者の会は続いています。
少し先回りをしますが、引きこもりの人たちが、自分たちで会をつくったのは、1997~98年頃です。
こういう言葉があるかどうか知りませんが、うちに来ている連中は「2000年が引きこもり元年なんだ」と言っています。引きこもりが社会的に注目を浴びるようになったという意味で言っているのだとおもいます。
そうういことで、当事者の会ができてきたのです。
私は当時、引きこもり、あるいは引きこもりの人たちについて、本当はよくわかっていなかったと思います。最近、古くから私と付き合いのある引きこもりの経験者に、「松田さんは、最初はわかっていなかったよ」と言われました。ですから、今日会場に来られている引きこもりの子の親御さん、カウンセラーさんにしても、「最初から引きこもりをわかっていなくてもいい」と思います。なぜかというと、私ができたからです。 では、知らなくてもできるのか、誰でもいいのかというと、そうでもないと引きこもりの人に言われます。なぜ私にできたのかというと、「自然だったからだ」というのです。私は、かなりずけずけものを言います。「お前ちょっとおかしいよ」とか、よく言います。けれども、ある人は「自分の父親にそういうことを言われたらダメだったろうな。今でもダメだけど」といいます。 なぜ「自然であること」がいいのかというと、それは最近わかったことなのですけれど、「悪意がない」ということです。あるいは「嫌な気持ちにさせない」というか、引きこもりの当事者としては、「むしろ自分に問題があることはわかっている。わかっているけれども、それは否定的なふうに、ダメなことで、やめなければならないこと、そう言われるとできない、近づけない。だけど、自然な感情で言われると、悪意がなければそれはむしろいいのだ。率直な意見を聴かせてもらえていいのだ」と言うのです。 この話を私の例として出しているのは、ややわかり辛いかもしれないので、言い換えましょう。もしも、小さい子どもにそう言われたら、引きこもりの人たちは聞く耳を持つのです。これは、今は元気に働いている人の例ですけれど、ボランティアで保育園にいった。そこでは、子どもたちは自分について歯に衣着せずいろいろ言う。でも、子どもの言うことは素直に聴けるというのです。そういう感じで、松田さんも言うから、だから一緒に来れたんだと言うのです。それが、ここまで続いてきた一つの理由だと思います。
次に、「まえがき」の2番目にいきます。今日は、フリースペース=当事者たちの居場所について中心に話します。それは私がいちばん大事だと思っていることです。その前に不登校情報センターの全体を話しておきます。いくつかの活動分野があります。そのなかに当事者の居場所の役割が定着しているのです。95年の情報センター設立当時の活動は、相談と情報提供でした。相談相手はだいたい親でした。情報提供は、私は雑誌編集をやっていましたので、フリースクールやサポート校、相談機関などの情報をまとめて、みなさんに渡していたのです。そういう相談カウンセリング業務というのは今も続いています。 それから「訪問活動」というのもあります。最初は中学生、高校生、高校を中退した年齢の人たちのところへ大学生が訪問に行っていました。今は、引きこもりの経験者が行っています。特に20代30代の人たちのところには、引きこもりの経験者が行っています。訪問先は新たに始まったり、中断したり、再開したりなのですけれど、今現在は約50家族に訪問しています。 訪問する人たちは、最初は学生だったのですが、学生の中でグループができて、よく勉強会をしています、最初は早稲田大学が中心だったので、まず早稲田の中にひとつサークルができました。その次に、千葉県にある順天堂大学にも「ジュンフレ」というサークルができています。そのほかに、東京、もしくは東京近郊のいくつかの大学から、少しずつ学生が集まってきて、学生グループができています。「Cocoro組」といいます。それはそれでひとつの広がりをみせています。これが訪問に関係することです。
3番目は、文通に取り組んでいます。文通は、北海道から九州まで、全国で約600人参加しています。3年前に不登校情報センターが編集を始めた『ひきコミ』という文通用の雑誌があります。投稿を募って、読者同士が文通するという取り組みです。NHKの「引きこもりサポートキャンペーン」のホームページでも紹介されました。 なぜ文通が始まったか。かつての当事者の会の会報に、自己紹介を載せました。当事者の会に登録はするけれども、実際には会合に来ない、参加しない、けれども知り合いになっている人たちがいました。これを参考にして『ひきコミ』をつくりました。2000年7月に『ひきコミ』準備号をつくり、その年の12月に第1号を発行しました。このとき初めて文通用の雑誌、交流誌をつくり、今現在、20号まで出ています。
4番目は、親の会です。不登校情報センターの親の会は、実は2つあります。なぜかというば、レジュメに「2001年6月、事務所移転・親の会(交流会)始まる」とありますが、実は、今の不登校情報センターの建物は第一高等学院という大検予備校の持ちビルです。校舎の統廃合で今私たちが入っている校舎は、空きビルになったのです。 私は第一高等学院と親しくしていたものですから、「うちの建物を使ってみないか」と持ち掛けられまして、「こんな大きな4階建のビル、借りるにしてもお金がないよ」と言ったら、「お金はいらない」と言われまして、それで借りています。1階と2階を借りて、3、4階は第一高等学院の倉庫になっています。 ここを借りるときに、引っ越しをしなければならない、けれども私1人でその作業をやるのは無理なので、不登校情報センター(居場所)に来ている人たちに手伝ってもらおうと思いました。 「手伝ってくれ」と普通に声を掛けても、なかなか動いてくれませんから、引っ越しの前に親を集めて講演会を開いたのです。その講演会を手伝ってくれと「居場所」に来ている人たちにたのみました。引っ越しの準備でもあったのです。 その講演会には、親御さんが100人ぐらい来ましたが、講演会が終わったあとで、母親など20人ぐらいが残って、相談会を開きました。それが親の交流会のようになりました。そのときに、どなたかが「これを毎月やってもらえないか」と言われまして、それが形を変えずっと続いています。これが親の会の始まりです。 ところが、これとは別に、さきほどお話しした「訪問活動」で、訪問されている親御さんから「親としても、自分の子どもが訪問してもらっているけれども、訪問にはどんな意味があるのか、他の人たちがどうなっているのか聞きたい、知りたい」と言われました。この訪問活動をしているグループは「トカネット」というのですけれど、この「トカネット親の会」というのが別に創立されたのです。 さきほどお話しした「引っ越しの準備として催された交流会から始まった親の会」ですが、「親同士で交流しているだけではダメなのではないか」という意見の親御さんたちがいました。不登校情報センターには、7人のカウンセラーさんがボランティアで来てくれています。その1人の方が学習会を始めました。そうしたら、親の会の何人かの親御さんがそちらの会に定着するようになりましたので、さきほど私は2つと言いましたが、実は親の会は3つあることになるかもしれません。それらが毎月会合を持ちますから、3つも並行して親の会があります。
そういう、いろいろな取り組みの中で、私がいちばん大事だと思うのは、「引きこもり当事者の居場所がいちばんだろうな」ということです。この内容は後で詳しく触れます。 居場所の次に欠かせないのが「訪問」です。これは本当に欠かせないと強く思います。私はいろいろなところでお話しをしますが、昨日は愛知県の豊橋へ行ってきたのですが、相談するだけならいろいろあるのです。豊橋の場合は、親の会もなかったので、どうやってつくろうかとこいうことから考えるしかないのですが、訪問と引きこもり当事者の会は、不登校・引きこもりに対応していく上で、基本的に必要なものだと思います。 いろいろなことが必要だと思いますが、当事者の集まる自助グループ、フリースペースというのは、まずつくって欲しいし、対応しなければならないと思っているところです。 最後の結論のところでもう一度言うかもしれないですが、私は相談をよく受けています。だいたい親からの相談なのです。彼らの子は、子どもといっても自助グループ、フリースペースにいる人は20代以上が中心ですから、いちばん年下でも15、6歳です。もちろん訪問されている人の中にはもっと下の年齢の人もいますが、不登校情報センターのフリースペースに来るのは、下は15、6歳から上は40歳ぐらいです。彼らはほとんど毎日来ています。ですから私は毎日彼らの横にいることになります。 彼らはいろいろなことを言っています。親が言っていることと、彼ら(子ども)の言っていることは、どこか重なる部分もあるけれど、相当違う部分の方が多いですね。どちらを本当にするのかというと、私はやはり引きこもり当事者だと思います。当事者の意見を最大に優先して考えるわけです。ことばに従うというのではなく、そこになぜそうなっているのか、深い訳を考えていくことになるのだと思います。 そういう意味で引きこもりについて考えるときも、親の意見で聞いていても、隔靴掻痒(靴の上から足の裏をかく)ということわざがありますけれども、そういう感じがします。しかし、当事者の方は、もう少し直接的に、引きこもりとはどういうものかを見せてくれるように思います。ですから、第一に当事者の方を見たいと思うわけです。 そこから、真実が見えて、それに対する解釈とか対応とかが生まれてくるのではないかと思います。
不登校と引きこもり
「まえがき」には、もう一つありまして、私は今日、主に引きこもりについてお話ししますが、実は不登校と引きこもりはどう違うのか、どう同じなのか、そこのところを少しお話ししておきたいと思います。 社会の取り組みについては、不登校・登校拒否に関することの方が、引きこもりにくらべて先行していますから、いろいろな対応がある意味では進んでいます。引きこもりについては、対応している所はまだまだ少ないわけです。先ほど、福岡市内の4団体の方が発表されていましたけれど、やはり引きこもりについては、全体としても対応はこれからという雰囲気がしました。 そこで考えたのですが、ある意味、不登校の方が対応しやすいと思います。それでも大変なんだということは承知の上です。子どもの年齢が下であればあるほど、対応してきたことにたいする反応もあります。反応も明確に出やすいわけです。ところが20代、30代になってきますと、子どもの方もいろいろなことがわかっているわけです。私は、毎日そういう引きこもり経験者という「先生」に囲まれていますから、彼らの言動の一つひとつが私の今まで思っていたのと違うことを、見せてくれます。彼(女)らがむしろ先生なんですね。 その立場から問題を見ると、ある意味では20代以上の彼らは深刻なんです。根が深い。本当に本質的な問題を見ようとすると、引きこもりであった人たちの視点から見た方が、問題がよく見えるということです。 20代後半や30代になった人が、たとえば自分は小学校から不登校であったというような経験を語ります。もし小学生や中学生の不登校の子であれば、自分の不登校経験を語れません。語れないのは当たり前です。高校生ぐらいでもなかなか言えないのです。 ところが、20代後半、30代になったら、なぜ自分があの時不登校であったかということを、個人差や背景の違いはありますけれども、語れるんです。語られる中で、いろいろなことを教えてくれるのです。やはり時間が10年経った、登校拒否を始めたときから10年経ったところで振り返ってみると、自分はたぶんこういうことで学校に行かなくなったんじゃないか、というようなことを言います。 私はいま引きこもっている特に20代後半、30代の意見を鏡に映して見てしまえば、結局不登校の10代前半の小学生から中学生、高校生年齢くらいまでの登校拒否問題のかなりの部分はわかってしまうんじゃないかという感じはしています。 引きこもりと不登校にも、同じ問題はやはりあります。10代であろうと、20代であろうと同じ問題はあります。しかし20代には10代にはない別の問題がそれに重なっているわけです。そのところを考えようとすると、やはし20代から30代になった人が引きこもりのことを話しをすることが、不登校を理解する点でも、重要になってくるのではないかと思います。
これで「まえがき」の3つを終わります。そこで、今日のテーマはというと「実践とポリシー」に〓ります。 日頃こういうことを考えないのですけれども、「実践」は毎日なにかをやっていますから、その通りだと思います。特に「ポリシー」ってなんだろう? と思います。 私は今までお話しした中に、一つはあると思います。例えば不登校情報センターになぜ3つもの親の会ができてしまったのかというと、そのことを言った人の意見を生かすということです。すでに親の会はあるのだから、それと調整してはどうですか、とは言わないのです。それは引きこもり当事者の会も同じです。 例えばいま当事者の間で「スポーツクラブ」というのができています。その中にはあらゆるスポーツが理論的には入るのですが、ある人がスケートをやりたいと言いだしたとすると、それをやりなさいと私は言います。そうすると、スポーツクラブとは別にスケート部ができてしまうのです。今また、インラインスケート――昔流行ったローラースケートの仲間だそうですが――それをまた4人くらいがやっています。これがまたスケート部とはまた別にインラインスケート部ができています。私は、これをスケート部と一緒にやりなさいとは言いません。それをやろうという人がいたら、勧めるんです。「やろう」と。そのあと、どうやって実現するか、そう考えるわけです。 私のそういう姿勢をことばで表すと、よく言えば自然流、事実を言うと成り行き任せ。これがもしかしたら、私の基本ポリシーの第一かもしれません。成り行き任せにしろ、自然流にしろ、それを言った当事者の意見を最大限に生かすということを、いまの仕組みがどうであるとかは後に置いておいて、当事者がいま感じていること、意見をどう生かすかということを、最優先にして考える。その結果は、組織としてはおかしなことも出てくるでしょう。けれども、それは後で調整すればいいと考えるのです。 実は、親の会は複数あるものを統合しようという計画が出てきています。このように、後で調整すればいいのです、ですから、スポーツクラブもそのうち統合しようという動きが出てくるかもしれません。とにかく、そのことをやりたいという人がいたら、先にやってもらう。それが大事だと思っています。というより、当事者から、自分の方からこうしたい、という意見はただ待っているだけでは出てくることは、そうないですから、出てきたときには形になるようにしたいと思います。
ようやく、不登校情報センターでは、当事者の会として何をしてきたのかに入ります。当事者の会の経歴を、約8年半くらいですが、その略歴をレジュメに載せました。こういうのをズラリと見せられても、わかりづらいです。経歴として話すのではなく、内容・役割の面で要約して話します。 私は当事者の会の役割は大きく3つあると思います。 1つは「居場所」です。人によっては「行き先」であるとか、「逃げ場」であると言えます。 2つは「対人関係づくり」です。カッコ書きで「人間発見、自分探し、社会性」としてあります。 3つは「社会参加」です。これもカッコ書きで「収入につながる取り組み」としてあります。 このなかで、基本的に重要なのは「対人関係づくり」です。対人関係づくりの居場所というのが基本だと思います。不登校情報センターの居場所というのが、1997年8月4日に「通信生・大検生の会」から始まった当事者の会がまさにそれです。私はこのとき、理想高くというか、格好良くというか、目標を3つ揚げました。 1つは「友達をつくろう」、2つは「一緒に勉強しよう」、3つは「情報交換(経験交流)」。こういうことをしようと言っていました。そのうち、勉強と言われるものは、この8年間に合計して数人が読書会をやっただけでしょうね。この居場所のなかで、基本的に勉強は成り立ちませんでした。そういうことじゃなかった、ということですね。 あまり高い理想を掲げてやっても、現実の重みは強いですから、こちらの思いだけではどうにもなりません。現実は強いというのは、こうして欲しいと強く言ってくることはないですね。絶対ないと言ってもいいかもしれません。 なぜ現実は強いかというと、彼(女)らは関心のないことには参加しないということです。そういう現実が強いのです。勉強しようと呼びかけても、関心がないことには参加しないのです。誰も参加しない限りにおいては、始まらないわけです。 そういう事態は今もずっと続いています。週に4、5人新しい人が問い合わせをしてきます。当事者の会に行ってもいいですかと。そのうち実際に来るのは1人か2人ですね。それからしばらくたって、2、3か月とか、人によっては2年後ぐらいに「この前電話したのですけれど」というので「いつですか?」と聞くと「2年ほど前」とか、そういう反応があるわけです。 私は参加者の人数を言いましたけれども、だいたい毎日10人くらいは来ています。多いときには20人くらいです。正月は例外で、1月2日は2人しかきませんでしたが、3日には7~8人来ました。絶対数では、1か月あたり60人から70人です。これは、延べ人数ではなく、実数(個人の名前)がそれくらいの数になるのです。同様に年間ではどうかというと、300人くらいです。300の固有名詞の当事者たちが、不登校当事者センターに出入りするのです。多い人で、週に3~4日、少ない人で年に2~3回です。まるで織姫と彦星のように、ゆっくり回ってくる人もいるのですね。 少し話が脱線してしまいましたが、8年半の不登校情報センターの居場所の歴史を見ると、いまは第一高等学院の元校舎であるビルの1、2階に入っているのですが、最初は私の自宅でやっていたのです。といっても、自宅に集まってきたわけではありません。 事務所を自宅に置いて、そこでは主に相談をやっていて、情報センターの 開設から1年後に、初めて当事者の会を開くときは、いろいろな会館を借りたわけです。1か月に1回くらい東京、横浜、千葉県の船橋、あるいは会に参加している人の中に大学生がいましたから、その人たちの通っている大学の教室を借りたりして、会場は首都圏を転々としていたわけです。それが最初の3年間です