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活動記録・千葉明徳高校町田順司

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『健康教室』1999年2月増刊
 
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2011年2月1日 (火) 20:35時点における版

教育相談の立場からの現状、課題、今後の展望について

町田順司 (千葉明徳高等学校教諭)

〒260-8685 千葉市中央区南生実町1412

現 状

 不登校生徒の現状としては、「学校に行きたい」「学校に行かねばならない」といった明らかな学校への登校意志を持っていて、前日学校への準備までしておきながら、当日朝になると、起きられない。起きて学校へ行こうとすると、足が本当に棒状になってしまったり、胃が痛くなってきて、身体が内側から、学校へ行くのを拒否してしまう登校拒否的不登校の生徒がいます。本人は、自分の身に起きたことに混乱しているのに、親は「学校に行きたくないので、お腹が痛いなどと言っているのだろう」くらいに考えて、叱咤したり、「お腹が痛い」との言葉のみに反応して、病院に連れていったりします。しかし、どこも悪くないとの診断をされて帰ってくる場合が多いのです。  心身症の状態になってしまって、「心」が「身体」の上に症状として表れているのだから、学校に行けないと身体が訴えている、その心を受け止めていくことが、大切であると思います。

 しかし現状は、本人は、その「心」を言葉にして外に、なかなか出せないでいます。このような生徒は、親にとって「いい子」であった場合が多いので、親は今までの「いい子」のイメージから抜け出せないで、「なぜ行けないのよ」と責め立てるかかわりが多くなってしまいます。担任は初め、「お子さん、学校に来ていません。どうされましたか」という欠席連絡を家庭に入れますが、親御さんのほうは「どうもすいません」から始まる会話を強いられ、ほとんど責められているように感じます。その結果、さらに子どもさんに「詰問」するようなかかわりになってしまいます。このような、気持ちのズレた三者のかかわりがくり返されます。そして、さらに欠席は増えていきます。担任としては、そのうちに「学校に来ないのだから、やりようがないよな」とぼやきながら、単位切れへのカウントダウンだけを伝えていくようなかかわりになってしまっているのが、現状のようであります。  さらに大きな現状の問題点としては、学校不適応感を感じている、不登校予備軍がたくさんいることだと思います。不登校行動として顕在化してはじめて、慌てたり、対応したりしているのが現状のように思われます。しかし実際は、行動として、まだ顕在化していないだけで、潜在的不登校がたくさんいると思います。この人たちが、ほんのちょっとしたキッカケで、または、少しの時間の経過と共に顕在化してくるようです。

 潜在的不登校生徒の心を尋ねてみると、次のような状態であると思います。  「人間関係」がうまく作れずに、無視されていると勝手に思い込んでしまって、固まってしまい、動けなくなって、孤立感を感じている人がいます。ある人など、「教室移動の5分が耐えられない」と言って中退してしまいました。休み時間は、まだ寝伏していれば、自分の身の置き所があり、間も持つことができますが、教室移動の時は、その流れの中にいなければなりません。周りは皆、楽しそうに、語り合いながら動いています。自分だけは一人。下を向いて歩くのもみじめだし、かといって、上を向いて歩くのも無理があるし、足早にかけるかなど、あれこれ考えると、身の置き所がなく、間が持たないのです。こんな思いが何度もくり返されると、教室移動の科目がある時は、朝から気が重くなってきます。ただただその孤独の苦痛から逃げたくなってしまいます。そして遂に中退してしまったのです。  あるいは、親に反抗もできずに、緊張した生命で無理して学校に来ている人がいます。私は、生徒に聞いてみました。「かなり無理して学校に来ているようにみえるけど、どうなのかな」生徒は「先生、わかる?」少しほっとしたようです。「どのくらい無理しているのかな、50%?」首を横にします。「60」「70」、どんどん上がっていきます。遂に「99%」になってしまいました。そこでようやく首が縦に動いたのです。それほど、無理をして学校へ来ている人もいるのです。  あるいは、「“学校なんか嫌い”だが、何かやりたいことも特にはない。消去法で残ったのが、学校しかなかったから学校に来た」といって、ようやく10時過ぎごろ学校に来る生徒もいます。

 同じような人で、同世代の友だちは、この時間は学校にしかいないから、友だちに会うためには、とりあえず学校へ行くしかないから学校に来るといった生徒もいます。これらの生徒は、学校さぼりたい仲間や、中退した生徒でもいれば、学校に来る理由がなくなった訳だから、簡単に学校を休むようになります。この生徒たちの生きてきた背景を尋ねてみると、幼児期から「塾だ」「おけいこだ」と、知的競争に駆り立てられ、親の条件付き愛に生かされて、疲れ、くたびれてしまっている姿が浮かんできます。  あるいは、親が学校をやめさせてくれないから、時間切れになるのを待っていて、そうなれば親も諦めてくれるだろうからといって、時間切れを待っている不登校もいます。

 明るい不登校の中には、学校外に自分のやりたいこと、楽しいことを見つけて、時間が切れない、留年しない程度に、学校を休んで、遊んでいる生徒もいます。  今の中退は、学校外に自分の行きゆく場所や、やりたいことを見つけたから、主体的に中退するといった生徒は、ほとんどいません。  時間切れ、中退といったコースをとっている人が、中退者のほとんどです。  目的を持った中退ではなく、結果としての中退です。これは悲惨です。学校から断ち切られてしまったと感ずる孤独感、高校を卒業できなかったという挫折感を味わい、さらにカラに閉じこもり、引きこもってしまうばかりです。新しい旅立ちへのエネルギーは、決して涌いてきません。今、このような中退の型が増えてきています。

課 題

 教育相談の立場から感ずる一番の課題は、上記からもわかるように、教育相談を必要としている生徒、保護者はたくさんおりながら、教育相談サービスを利用する人が、あまりにも少ないことであります。この理由は明確です。生徒や保護者にとって学校は、「自分の側に立って自分を理解し、援助してくれる所でもある」との認識は、ほとんどないようです。生徒にとって学校とは、競争原理で追い立てられ、集団管理で責め立てられ、疲れ、傷つき、自分から自信と希望を奪った所のように感じているようです。保護者にとって学校とは、子どもを人質に取られ、子どもに問題があったら呼び出され、子どもの生活態度、学業等について、親が責められる所のように感じているようです。親子共に、学校とは、とても心開ける場所ではないと思っています。この学校、教師への不安感、不信感を取り除くのが大変です。自主来談の型で、「相談に行ってみよう」との心起こすまでが大変です。いったん培われた不信感、それも長年積み重なった不信感を受け止め、信頼感に変えていくのは、さらに大変です。

 次に感じます課題は、先生方の生徒たちを観る目の厳しさや冷たさを感ずることです。  今までの問題への大方の観方からすると、問題行動は、その生徒のレッテル化となり、その生徒を決めつけ、責め立てるためのものでしかなかったように思います。このような、生徒から離れた目で冷たく観られ、責め立てられると、生徒はさらにさらに心閉じ、固まり、動けなくなってしまいます。今大切な観方は、問題行動は、「自分をわかってほしい」「受け止めてほしい」との本人の生命自体から発するメッセージであり、その生徒を内側から理解するチャンスであるとの観方だと思います。  この観方に立ってはじめて、生徒へ温かい眼差しを向けることができるし、生徒の「人間」に触れていくことができると思います。  長年培ってきた生徒への観方、かかわり方は、なかなか変わりませんので、多くの先生方の共通理解を得ることは難しいものです。それゆえ本人への支援体制作りも、さらに難しいものがあります。

 三点目の課題は、高校では、まだ多くの学校が学年進級制を取っておりますので、常に「時間切れ」の問題がつきまといます。本人も親も教師も、どうしても焦ってしまいます。不登校の状態の生徒や親御さんにとって一番大切なのが、安心感や信頼感であるのに、「あと何日しかない」という圧迫感や焦りが、さらに心を緊張させてしまい、不登校を長引かせ、中退を早めてしまうという逆の結果になってしまう問題があります。

展 望

 三つの観点から展望を語ってみたいと思います。一つは、現在、不登校の渦中にいる親子とそこにかかわっている人たちの観点からです。  発達心理の上からみても、その人が自分を取り戻し、自分の人生を創り、自分の人生を生きゆく上で、今「不登校」という行為が必要だから、とっているのであるという、自己受容、自己肯定ができるようになることが大切であると思います。親にとっても、自分の子育てを責めるための「不登校」ではなく、家族文化も含めた自分の人生を見つめ、より豊かな人生を開いていくチャンスであるとの、積極的で肯定的な理解と、温かい眼差しとかかわりができるようになることが大切であると思います。  そのためには、その親子にかかわっている教師が、親子が上記のようなことができるように、温かい眼差しと優しい声の響きで、全面的に援助していくことが大切であると思います。

 二つ目は、現在、潜在的不登校の親子とそこにかかわっている人たちの観点からです。  この子どもたちが、「学校に行くのがつらい」「学校に行きたくない」「学校がおもしろくない」等といった本音を語れるようになることが大切だと思います。常に自分が今、感じていること、考えていることを語れるようになることです。そのためには、子どもに接している親と教師が、常に子どもに対して、温かい親心と、その子のことをわかろうとする心で接することが必要であると思います。  学校にあって先生方は、HR、授業中、休み時間、放課後のあらゆる場で、常に笑顔を向け、声をかけ、その生徒へ温かい関心をむけているとのメッセージを発し続けることであると思います。特にこちらから挨拶をしていくことが大切であると思います。挨拶の挨とは「心開く」という意味であり、拶とは「相手の心の中に分け入る」という意味であるといいます。こちらからの挨拶は、「あなたに向けて心開いていますよ」「対話、OKですよ」のメッセージであるからです。  このような心で接し続けると、子どもたちは、家庭にあっては親に対して、学校にあっては先生に対して、本音の気持ちを語ることができ、その自分を受け止め、わかってもらえたと感じると、また元気が出てきて、登校できることが多いと思います。

 三つ目は、現在の問題を、「より豊かな未来」の観点からとらえ直してみることです。  過去から現在をみると、突然起きてきた問題に混乱し、動揺し、対処に懸命になり、そこから未来を考えますから、悲観論しか出てきませんが、「より豊かな未来」「あるべき未来」の観点から現在をみてみると、この現在の「問題」自体、大変大事な意味を持って迫ってくるように思います。  平均寿命80年の人生を、一個の人間が「豊かな人生」を生きゆくためには、何が大切なのか、そのためには何が必要なのかを教えてくれているように思えるのです。

 不登校の人たちが、訴えている生命の叫びは、「不安」と「不信」であると、強く感じます。  人間が人間として生きゆく上で一番大切なものは、「安心」と「自他への信頼」であると思います。  この「安心」と「信頼」を得るためには、かかわる側としては、受容、共感、肯定、奉仕の精神が必要であると思います。  子どもとかかわる親と教師が、これらの精神を獲得していくためには、まず第一に「権威」と「権力」の座から降りることが必要です。なぜなら、大人は「権威」と「権力」の座から、「決めつけ」「押しつけ」てしまうかかわりが多いと思われるからです。このかかわりの多くが、「不安」と「不信」を起こさせていると思います。そして、この「権威」と「権力」ほど、「自分」を見えなくしてしまうものはありません。もう「自分」を省みることすらできなくなってしまいます。この「権威」と「権力」の座から降りて、「一個の人間」に立ち返って、自信の内なる「人間性」を磨き、鍛え、子どもの内なる「人間性」に触れ、「育児」から「育自」へ、「教育」から「共育」へ、すなわち、これからは、かかわっている者同士が、そのかかわりを通して、「より豊かな人生」を生きゆくために、お互いに育て合っているのであるとの思いに立ったかかわりが、大切ではないでしょうか。

 このような生き方やかかわり方ができる大人に成長し得たときに、私たちは「豊かな人生」を味わえ、子どもたちも「自分の人生」を自信を持って歩んでいる姿を見ることができ、今の「苦労」に「感謝」できる日が必ずくるとの展望を持つことができるのではないでしょうか。

『健康教室』1999年2月増刊

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