Center:発達障害・精神障害の受け入れ③
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・なお、松田理事長は、フリースペースの運営試論 において、「なぜフリースペースの中心になる当事者の感覚が基準にならないのでしょうか。 <br> | ・なお、松田理事長は、フリースペースの運営試論 において、「なぜフリースペースの中心になる当事者の感覚が基準にならないのでしょうか。 <br> |
2011年8月8日 (月) 17:31時点における版
発達障害・精神疾患の受け入れ③
〔2010年06月04日〕
4-2発達障害・精神疾患の受け入れの続きです。
ウィキぺディアへの記載者はT=、私の感想・意見はM=の形にして分けています。
・なお、松田理事長は、フリースペースの運営試論 において、「なぜフリースペースの中心になる当事者の感覚が基準にならないのでしょうか。
私の観察では、そのような繊細な感覚を持った人十人すべてから合格を得る人がとても少ないからです。
わずかな感覚や雰囲気を段差と感じ、わずかな心理的な負荷を大きな違いと感じてしまう当事者にとって、対人関係の受け入れ幅が狭くなっているのです。
お互いに許容し合い、補い合い、融合し合いながらも自分を保持していく関係が難しくなっているからです。
おそらく、だれかを"他害"発生者として除外してほしいと願う人がいたとすれば、その人自身は別のだれかから"他害"発生者として除外にしてほしい対象になっていることでしょう。
それを繰り返していくうちに対象者は"だれもいない"状態になるのです。
これはフリースペースをつくらない理由にはなりますが、私は、フリースペースをつくろうとしているのです。」 と記している。
・つまり「些細な事で心が傷付く引きこもり当事者の感覚のほうが不正確なのだから、その感覚を基準にしてはならないし、
むしろ、このフリースペースでうんと心を傷つけてでも対人関係の練習をしてほしい」
「私は社会的使命による引きこもりの研究のために、
『あらゆる事例の人を受け入れて観察する場であるフリースペース』を作らねばならない」という大義名分を優先し、
支援を求める通所者の立場を度外視した主張である。
●[①こういう記述に生真面目に反応するのも大人気ないですが、やむをえません。
「感覚のほうが不正確」というのは荒唐無稽で、感覚は状態・正常・異常などを知らせるもので「不正確」の表現はなじまないでしょう。
「うんと心を傷つけて」などの言葉も執筆者のもので、松田理事長のものではありません。
「うんと心を傷つけて」いいなんて考えることはないでしょう。
執筆者が挙げている「フリースペースの運営試論」自体の一読をお勧めします。
②おそらく執筆者自身は「うんと心を傷つけ」られた体験をしたのでしょう。
フリースペース自体も参加する個人の状態によっては修行レベルを超えて傷つくレベルの場所になっているという1つの証言になります。
それは認めるべきことですが、執筆者が傷ついたといい始めた時期との関連で何がどうなのかの因果関係等が不明です。
それは④のところでまとめます。
③フリースペースの役割は引きこもりなどの対人関係の取れない人には重要な役割を持ちますが、ある種の副作用があると考える根拠を示したと思います。
フリースペースづくり・運営を考える提起と受けとめます。
④執筆者の状態が改善向上しないなかで、その要因をかつて通所をしていたフリースペースに求めている可能性も考慮すべきかもしれません。
これらはウィキペディアに記述すべきこととは離れますが、
フリースペースでの出来事と執筆者の傷ついた内容・種類・程度・状態などは執筆者の気質・性格特性及び成育歴とともに因果関係・了解関連として検討すべきことです。]