Center:2006年6月ー感情陥没と感情爆発
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==感情陥没と感情爆発== | ==感情陥没と感情爆発== | ||
2018年1月27日 (土) 12:19時点における版
感情陥没と感情爆発
感情陥没と感情爆発は、対照的な現象ですが、実際には同じ根から生じており、感情陥没は感情爆発の特別な形です。
それは丁度、引きこもりが無軌道な行動(暴走や非行)の対照的な現象でありながら、共通の要因をもち、表面化したときの違いとなるのと似ています。
感情陥没は、それが長くつづくと(私の知る範囲では、引きこもりになる人はたぶん幼年期の早い時期からそのときどきの環境適応の方法として始まる)、十代後半以降には、あたかも生来的な性格のように身についたものにみえますが、後天的なものと考えた方がいいでしょう。
感情陥没の形での感情表現が通常のものになると、周囲の人にはその人がそのときに生じている事態にどのような感情表現をしているのかわからなくなります。
それがさらに過ぎると無表情になるのですが、両者の区別はつき難いものです。
しかし感情陥没は感情爆発の一種であって、表面からはわかりづらい、無 表情にみえるとしても、確かに周囲の事態に反応していると考えなくてはなりません。
それはある時間を掛けて(後になって)わかることもあるし、ときにはその場のわずかな反応としてわかる人にはわかる程度に表れることもあります。
感情陥没の一つが「落ち込む」ことです。
これは周囲の人にはある程度わかる程度の強い反応といえます。
それほど程度が強くない感情陥没は、見逃されやすいものです。
おそらく当人は見逃されるのを望んでいるかもしれません。
あるいは、そのわずかな程度の反応で周囲の人に伝わっていると考えているのかもしれません。
この2つは全く違うことのようですが、必ずしも矛盾しているわけではなさそうです。
意識するレベルが低いといっていいでしょう。
その違いを当人も気づかないことがあるようにも思います。
自分が反応したことを悟られまいと思うことは多いと思いますが、そう思っていて反応しないようにしている(しかしわずかな反応はさけられない)こともあります。
だから、そのことに周囲の人が気づかないのが当然なんだろうと対処していると、思わぬ形で「私はそれを嫌がっている(好意的に受けてとめている)のは分かっているでしょう」という雰囲気、ときには言葉で伝えてくることもあります。
「わかってほしいのか、わかってほしくないのか、はっきりさせてほしい」という感じなのですが、そのあたりはなかなか微妙であり、1つひとつのケースによってその両者の違いは本人的には区別をしているのかもしれません。
これも対人関係を形づくる面では難物の1つになります。
一般に、感情表現を陥没型で示さない人にとっては、「わずかな反応」というものはさして重大な意味をもちません。
その場かぎりのことや、気づかないままのことも多く「けろっ」として過ぎてしまいやすいです。
これは対人関係をつくりやすくしています。
感情陥没型の反応をくり返している人にとっては、周囲の事情に対して「わずかな反応をしている」ことは、しばしば重大な意味をもちます。
意外な役割をすることもあります。
当人にとっては、はっきりした反応(意思表示や、好意感、嫌悪感)を示したつもりであっても、周囲の人にとっては「なんの反応もしない」ように受けとめられてしまうこともあります。
これが、"見捨てられ回避"の気分のときに当たると、相当に重大な見捨てられ感になることもあります。
それが繰り返されていくと次々に巡る要循環ということも生じているように思います。
いずれにしても感情陥没型の表現は、総体としていい結果になりません。