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Center:2007年2月ー引きこもり経験者の面会キャンセル

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2018年1月20日 (土) 00:04時点における版

Center:2007年2月ー引きこもり経験者の面会キャンセル

〔2007年2月17日〕
日常のエピソードのなかに、引きこもり経験者が世間一般の人とは違う働きが、ときどき顕著に表われます。
いつもはそれら1つひとつを考えることは少ないし、まして話したり書いてみることもありません。

今回はそれをあえて書いてみました。
引きこもりの人、あるいはものごとを感性鋭く察知する人は、これらを一つひとつ気にしながら話たり、動いているのです。
そして支援者たち、とくに心理面の関心をもつ人はそれらを心の奥の働きとして受けとめているのです。
その実例です。
※氏名は仮名です。

1. 面会のキャンセル電話
NPO法人の当事者会員の網川くんの友人である土佐くんが私に会いたいといってきました。
土佐くんは30代の男性で、私は、まだ会ったことがありません。

私はこういうとき、強い歓迎を示すことはありません。
反対に拒否もしません。
「あなたにとって役立つところかどうか自分で確かめてください」という立場で返事をします。
ニュートラル(中間的)な姿勢のつもりですが、土佐くんのときは実際にどういう受け答えであったのかは思い出せません。
日ごろからあまり丁寧な言い方はしていなくて、そっけないと言われることも多いのでそのようなことだったのかもしれません。

ともかく数日後に、土佐くんは私に会いに来ることになりました。
この電話のとき土佐くんは、不登校情報センターのホームページの「五十田猛の『四行論』」について話しをしたいという主旨のことを言っていたようです。
実はこの記憶は私には薄かったのですが、後で網川くんの話しをきいてたしかにそんなことを話したのを思い出しました。

数日後の午後に会うことになっていたのですが、
当日の昼前に土佐くんから電話がありました。

「網川くんの知り合いで土佐といいます。今日会いに行くことになっていたのですが、・・・どうも体調がおかしいようで・・・」

このあたりで要件はわかったのですが、最後まで確かめよう、それを土佐くんの言葉でききたいと思い、その言葉を待つことにしました。
これにとまどったのか土佐くんの話しが明瞭でなくなります。私も「はい」と相づちをなどをうちながら、話すように促します。

「・・・すみませんが・・・申しわけありませんが・・・」というのが入って、ようやく「行けなくなりました」という言葉が出てきました。

私もようやく「わかりました」と電話を終えることができました。
このような約束の日になって来れなくなることはそう珍しいことではありません。
というよりはそれはよく起こりうることです。

2.「断わり」のことばを言う機会にする
土佐くんは約束をした当日になって、行けないことを事前に電話で知らせてきたのです。
当然と思うかもしれませんが、引きこもり経験のある人にとっては、よくできた部類に入ります。

連絡内容が約束したこととは反対方向にあり、この行動の壁を高くしています。
たとえば行く場所がわかりませんとか、30分おくれます、というのであれば気分は楽です。
この壁の高さを越えて連絡をとってきたというのは、彼の社会とのつながりの意識レベルを感じさせる対応なのです。

土佐くんが自分の言葉で「今日は行けなくなりました」というのを私は待ちました。
電話を受けた直後の言葉でそれは容易にわかります。
しかし私は、それを彼の言葉で言ってほしかったのです。
私の方から「今日は来れないのですか」といってしまうと、彼は「そうです」と比較的らくに答えられます。
別の人から同様の電話があったときに私の方からこの言葉をいったこともあります。

しかし、網川くんから事前に土佐くんの様子をきいていたので、私は彼の口から言ってもらった方がいいと思いました。
このあたりは勘による判断ですが、いまのところはそれでよかったと思っています。
もっともいつでもそうできるわけではありません。
私の都合というかそのとき私が何をしているのかの事情もあります。
このときは時間的な余裕があったことも関係しています。

なぜ、土佐くんの言葉で「今日は行けなくなりました」というのをきいた方がよいと思ったのか。
それは広義の否定語、拒否の言葉、断わりの言葉(No!)だからです。

「No」を言うことは、引きこもり経験者の意志表示にとってはかなり重要です。
自分と他者、自分と社会の関係に、「No」といえる機会を持つことは、誇張めいてきこえるでしょうが、自分を他人から区切っていく<自立>へのわずかではあるが、確実な証拠でもあるからです。

私は、この断わり言葉を土佐くん自身が口にする機会にしようと咄嗟におもいついたのです。
「今日行くことになっていたのですが」という言葉を「今日行けなくなりました」という断わりの意志言葉にすすめたのです。
これも彼の社会との関係のレベルを知る一つの証拠になります。
もちろん一回できればそれで終了というものではありませんが、一度でも口にしたことは大事です。

3.否定語にはより強く反応する
この土佐くんと会う日がキャンセルになって数日してから、網川くんから話しをきく機会がありました。
土佐くんは網川くんにこんなことを話したようです。
間接情報です。

土佐くんは「今日行けなくなりました」という電話をしたとき、「五十田さんから来るな」という雰囲気を感じたというのです。
そして、「四行論」について話したいと言ったのが何か出すぎたことをするように考えられている、それで五十田さんは気分を害しているのではないかという主旨でした。

来るなという雰囲気にしても、四行論が妨げなっているという点でも私には考えられないことです。
しかしこのことは、とても深い内容を私に教えてくれるし、また考えさせてもくれるのです。

そのうちの1つ、私が会いたがってない、「五十田さんは来るな」という雰囲気を感じた点から検討してみましょう。
私はここで2つの面を考えます。

まずは私の話しの中にある複合した要素の仕分けとその受け取りという点です。
私は、「ぜひ来てください」という強い歓迎の言葉を発していないはずです。
同時に「来ないでください」とも言っていません。
私自身の感覚では中間的なものです。
「あなたにとって役立つかどうかをあなたが感じて判断してください」というものです。
しかしどのような言葉でそれを伝えたのか記憶はありません。

引きこもりの当事者や神経過敏といわれる人たちはこのようなときに、それをそのまま受け止めるのか苦手です。
歓迎されている姿が見られなければ拒否されていると受け止めやすいと思います。

ニュートラル(中間的)な姿勢のなかにある、自分にとって否定的なものを拡大してより強く受け取ろうと性向といってもいいでしょう。
人と人が関わるときこそに出てくる雰囲気はお互いに複合的なものです。
友好的であるかと敵対的であるかにすすむ前には、中間的な雰囲気の時期があります。
日常的な初対面の対人関係の大部分はこの状態のものです。

このとき、自分にとって肯定的、好感的なものより強く引き出して受けとめていくタイプの人は、人間関係が広がる人です。
相手を気持ちのうえでらくにするからです。
自分にとって否定的、不都合のものをより多く認めていくタイプの人、人間関係が苦しくなる人です。
相手も慎重にならざるをえなくなるからです。
概略まずこのように考えていいでしょう。

そして引きこもりの人とは、人間関係が苦手になる人です。
それには先天的なことにつづく、背景があります。
自己防衛とか自己保存という生命本能と結びついている感覚です。
自分にとって危険なもの、攻撃的な要素をいち早く感じとっていくのです。
それをより広い範囲から集めていくことで成し遂げようとしているとも思えます。
これは一般に引きこもり経験者や神経が過敏な人の特徴といえることです。

そうなるのは、別の面でいえば自己防衛の力量が弱いともいえます。
心の力、精神的な体力が弱く、不足しています。
心の力、精神的な体力は、とくに社会経験や対人関係の経験によってつくられますからそれらが比較的少ないことによるものです。

小さな子どもは、この成長の時期が短いので社会経験や対人関係の経験もすくないのです。
それに代わって、周囲に対する自己防衛な感覚が動物的・先天的に鋭くなっています。
年を重ねるにしたがって対人関係の重ね、自己防衛力、心の力が増し、自己防衛を発揮する守備範囲は小さくなっていきます。

それは人間が社会に入って生活するのを容易にします。
人間の成長は自己の防衛力を強めることで社会の一員として生活できやすいようにするのです。

心の力が弱いことと自己防衛の守備範囲が広くなることは同じことの別の面を語っていることです。
その意味でこれは小さな子どもの特徴です。
それが成人年齢に達した人にある色合いでみられることは、小さな子どもの要素を持っていることであり、人間成長のある程度の停滞を示してさえいます。

4.自分の気持ちを相手の気持ちにする投射
もう1つの投射といわれるものの実例を土佐くんの感覚は示しています。
ある医学辞典では投射とは「不安を回避する手段として、自己に属する特質や態度を他者に帰する心的機制をいう」と説明されています。

私の理解ではこの心的機制も、心の発達のおくれや退行状態と結びついて表われやすいものです。
土佐くんは、私と話をするテーマに「エッセイ四行論」を挙げました。
引きこもり経験者は初対面のときに、このようにテーマを設定されることは珍しく「おやっ」と思うほどのものです。
意識の高さを感じるものです。

網川くんからきいたところでは、これをテーマにしたことで、私が何か警戒心をもった、私がこれを気にしていて土佐くんと会うのを回避した雰囲気を発し、それを土佐くんが感じとったのではないかと思ったようなのです。

「エッセイ四行論」の記述者としてはエッセイについてあれこれと評論がないのはさみしいものです。
ときどきはエッセイ四行論を読んで相談にきましたという人はいます。
それもわるくはないですが、当事者からの体験的な異論・反論も歓迎したいところです。

四行論を話したいというのを私が回避することは考えられないことです。
土佐くんのなかにそこに何かの違和感のようなものがあったのですが、それが私の方にあると移し変えることで、そこに安定をえようとしたと思えるのです。
ですから私はこれを投射の実例に挙げたいと思います。

もし土佐くんが自分の経験や異なった角度からエッセイ四行論について何か問うてくれるのであれば、私はとても大きな喜びです。
土佐くんが四行論について話したいといったとき、普通にはそこに攻撃性や否定的要素を感じることはないのです。
ただ土佐くんの思いのなかに、それほどのものがあるとは私は予測せず、私の記憶からも消えつつあっただけに土佐くんと会ってそれがきけなかったことは、残念というか悔しい気がします。

今回はこの短評(エッセイ)も「四行論」に載せていきます。
もし土佐くんの、目に止まったら(というよりむしろ彼の目に止まること予測して書いていますので)、このエッセイに関することからでも彼の意見や感覚をききたいと思います。

私は「面会のキャンセル」という1つのエピソードを材料に、そこに関係するさまざまなことを土佐くんの思いとは別に書きすすめました。
しかし土佐くんの感覚のところでは本当はどうだったのか、私の思いすごし、とんちんかんな解釈になっているのかもしれません。

そんなことを土佐君と話し合うことができればうれしいことです。
それを起点に、四行論の他のところに話しが飛び火していって、そこでも私の不勉強ぶりや勘違いに話しがおよんでもいいと思っています。

私は弁証法というのが好きです。
それはお互い話し合っていくという意味であり、真理に近づいていくための方法です。

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