新渡戸稲造『武士道』を読む
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2018年1月5日 (金) 22:00時点における版
新渡戸稲造『武士道』を読む
3週間前にブックオフで見つけた新渡戸稲造『武士道』(1898年、ニューヨークで英文で発表、奈良本辰也訳・解説)を読みました。
読み取りできない右翼には、戦前の封建思想の経典にされそうな部分もありますが、私のような人間平等主義者にも参考になります。
私が評価している小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の論調とも重なる面を感じます。
新渡戸稲造さんは国際人であり、ヨーロッパ世界の人たちに日本人の倫理観を、ヨーロッパの文献を多く引用しながら説明しています。
そのなかで、とくに驚いたのは腹に関する身体科学の説明です。
第7章「切腹」のところ。かなり長くなりますが註とともにこの部分を紹介したい。
<日本人の心の中で切腹がいささかも不合理でないとするのは、外国にも例があるという連想のためだけではない。
身体の中で特にこの部分を選んで切るのは、その部分が霊魂と愛情の宿るところであるという古い解剖学の信念にもとづいていたのである。
モーゼが「ヨセフその弟のために腸焚くるがごとく」と書き、ダビデは主にその腸(あわれみ)を忘れないようにと祈った。
イザヤ、エレミア、そしてその他のいにしえの霊感を受けた預言者も、腸が「鳴動する」とか「腸がいたむ」といった。
これらはいずれも腹の中に霊魂が宿るという日本人の間に流布している信仰と共通している。
セム族は、常に肝臓、腎臓、および周辺の脂肪に感情と生命が宿る、としていた。
「腹」という語は、ギリシャ語のフレンphrenとかツモスthymosよりも意味の広い語である。
そして日本人とギリシャ人は等しく人間の霊魂はこの部位のどこかに宿ると考えた。
このように考える民族は古代の人に限られるわけではない。
フランス人のすぐれた哲学者の一人であるデカルトは魂は松果腺(脳内の小さな内分泌器=松果体)にあり、とする理論を説いた。
けれどもフランス人は、漠然とした部分ではあるが、生理学的には意義が明らかであるventre(ヴァントル 腹部)という語を今なお、「勇気」という意味に用いている。
同様に、entraille(アントレイユ 腹部)というフランス語は、「愛情」や「思いやり」という意味にも使われている。
このような信仰は単なる迷信とは言えない。心臓が感情の中心である、とする一般的な考えよりも科学的である。
日本人は、修道士に聞くまでもなく、ロミオよりも「この臭骸のいずれの醜き部分に人の名が宿るだろうか」(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』ロミオが僧ラウレンスに述べた言葉)ということを知っていた。
近代の神経学者は、腹部脳髄とか腰部脳髄ということをいい、腹部や骨盤に存在する交感神経中枢が、精神作用により、きわめて強い刺激を受けると説く。
この精神生理学的見解がいったん認められるならば、切腹の論理はごくたやすく組み立てることができる。
「我はわが霊魂の座(いま)すところ開き、貴殿にそれを見せよう。穢(けが)れありとするか、清しとするか、貴殿みずからこれを見よ」
私が自殺の宗教的、あるいは道義的正当性を主張しているなどと、誤解されたくはない。
しかし、名誉を何よりも重んずる考え方は、多くの人びとにとってみずからの生命を棄てる十分な理由となった。
名誉の失われしときは死こそ救いなれ、
死は恥辱よりの確実なる避け所
とガース(Sir Samuel Garth イギリスの詩人、英雄悲劇詩“Dispensary”1699 がある)が歌った感慨に、どれだけ多くの人びとが従い、唯々として彼らの魂を黄泉の国に引きわたしたことか。>(145~147ページ)
人の精神活動の中枢が腸と内蔵にあるとする今日の生理学の到達点を19世紀末の「切腹」の背景説明に持ってきたのは驚きであり、その正当性に異議はないとしたい。