Center:自殺と自殺未遂の関係
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〔2010年07月10日〕 | 〔2010年07月10日〕 | ||
− | + | 自殺と自殺未遂に関係したことを書きましょう。 <br> | |
− | + | 日常的なことではなく緊急のときになります。 <br> | |
+ | (1)通所している(したことのある)引きこもり経験者が複数人自殺しました。 <br> | ||
+ | 実際に亡くなった人からの予告はありません。 <br> | ||
+ | 本人がそれを決心した時点で、私が手の届かないところにいました。 <br> | ||
+ | そういう場合には私は無力です。ただ事後報告を聞くだけです。 <br> | ||
− | + | ~さんが亡くなったと聞いたときの衝撃を上手く言い表すことはできないものです。 <br> | |
− | + | 非力を感じ、脱力しますが、それが私の現実です。 <br> | |
− | + | 自殺というのをある人が尊厳死というべきではないかといわれたことがあります。 <br> | |
− | + | それを聞いたときの気持ちや後になって考えたことは次回にします。 <br> | |
− | + | (2)「薬を大量に飲みました」「マンションから跳び降りる衝動感があります」 <br> | |
− | + | 「いまから死にます」という、せっぱ詰まった連絡を受けたことも何度かあります。 <br> | |
− | + | 本人からのものが多いですが、周囲の関係者からのものもあります。 <br> | |
− | + | 事態はそれでも少しずつ違い、対処のしかたもまた少しずつ違います。 <br> | |
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− | + | 救急車を呼んだもの(居住地の救急車手配)、その上で現地まで出向いたもの、 <br> | |
− | + | 電話を切らずに話しつづけ夜明けを待ったもの(たぶん4時間以上の電話)、 <br> | |
− | + | 遠方のため所轄の警察署に連絡を取り自宅を訪ねてもらったもの、 <br> | |
+ | 家族と連絡が取れる場合は家族に通報したもの(連絡の取れない人がほとんどです)を思い出します。 <br> | ||
+ | 深夜にかかる時間が多いと思います。 <br> | ||
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+ | 連絡を受けた人のなかには亡くなった人はいません。 <br> | ||
+ | もしかしたら助けを求めていたのかもしれません。その人に連絡先があったことがよかったというものでしょう。 <br> | ||
+ | 実際に自殺した人との差をどう考えるのかはわかりません。 <br> | ||
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+ | (3)私に遺書を書いて送ってきた人もいます。 <br> | ||
+ | 必ずしも緊急とはいえず、遺書の内容に私への抗議が含まれていたので直接連絡をとるのはまずいと判断し、 <br> | ||
+ | 所轄の保健所にその遺書全文とともに対処をお願いしました。 <br> | ||
+ | 保健所からの連絡・アドバイスにより警察署と該当自治体の福祉課(自殺予防事業)にも、同様の対処をお願いしました。 <br> | ||
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+ | それぞれ連絡があり、警察署生活安全課から安否確認をするというのが唯一の具体的な対処です。 <br> | ||
+ | 公共機関においても直接に介入するのは相当に難しいことがわかりました。 <br> | ||
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+ | このなかには本人が希望しない方法、予想外や意表を衝く方法もあったはずです。 <br> | ||
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+ | 一般に、生命が関係し重大な犯罪に関係するときは、本人の意向を確かめないまま何らかの介入をするのは公共の福利の点からも私の信念からも是認できると考えています。 <br> | ||
+ | もっとも犯罪に関係する介入事例はこれまではありません。 <br> | ||
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+ | 生きること、生きようとする意欲が出ること、希望をもつことは、本人の持つ要素が第一です。 <br> | ||
+ | それと反対のこと、生きたくないと思うこと、死にたいと思うこともまた同様に本人の持つ要素が第一です。 <br> | ||
+ | 同じ原理で生きる・死ぬを考えるとこうなります。 | ||
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+ | このあたりのことを「生きるのも死ぬのも本人の自由」という主旨にまとめたのかもしれません。 <br> | ||
+ | いや「生きるのも死ぬのも本人の自由」に近い言葉があったのかもしれません。肯定も否定もしないとはそういうことです。 <br> | ||
+ | 受けとめ方は私の思いや気持ちとはかなり違います。聞いている人の思いや気持ちも作用すると思うしかありません。 <br> | ||
+ | 死のうとする瞬間、さらには死のうとしていたのが転換して生きようと変わる瞬間だけが対応ではありません。 <br> | ||
+ | 日常があってこそ緊急の瞬間への対応が生まれます。 <br> | ||
+ | 死にたいと思う人に接するのは辛いことですが緊急事態になると、全力を求められる気がします。 <br> | ||
+ | しかし万能ではありません。 <br> | ||
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+ | 日常生活における私の活動に則していえば、支援のなかで生きたくなるようなこと、 <br> | ||
+ | 未来に希望が持てるようになることを持ち込みたいと思います。 <br> | ||
+ | それはいろいろな機会に述べてきたことであって、華々しいものよりも地味で目立たないことです。 <br> | ||
+ | 劇的な変化に賭けるよりも小さな変化を見逃さないことに象徴されます。 <br> | ||
+ | そういう日常活動が不十分といわれればその通りですが、それでもこの日常活動は続きます。 <br> | ||
+ | そこには否定感はないし、輝かしいものも必要ありません。 <br> | ||
+ | 自分にはそれで釣り合いは取れています。 <br> | ||
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2011年5月7日 (土) 08:52時点における版
自殺と自殺未遂の関係
〔2010年07月10日〕
自殺と自殺未遂に関係したことを書きましょう。
日常的なことではなく緊急のときになります。
(1)通所している(したことのある)引きこもり経験者が複数人自殺しました。
実際に亡くなった人からの予告はありません。
本人がそれを決心した時点で、私が手の届かないところにいました。
そういう場合には私は無力です。ただ事後報告を聞くだけです。
~さんが亡くなったと聞いたときの衝撃を上手く言い表すことはできないものです。
非力を感じ、脱力しますが、それが私の現実です。
自殺というのをある人が尊厳死というべきではないかといわれたことがあります。
それを聞いたときの気持ちや後になって考えたことは次回にします。
(2)「薬を大量に飲みました」「マンションから跳び降りる衝動感があります」
「いまから死にます」という、せっぱ詰まった連絡を受けたことも何度かあります。
本人からのものが多いですが、周囲の関係者からのものもあります。
事態はそれでも少しずつ違い、対処のしかたもまた少しずつ違います。
救急車を呼んだもの(居住地の救急車手配)、その上で現地まで出向いたもの、
電話を切らずに話しつづけ夜明けを待ったもの(たぶん4時間以上の電話)、
遠方のため所轄の警察署に連絡を取り自宅を訪ねてもらったもの、
家族と連絡が取れる場合は家族に通報したもの(連絡の取れない人がほとんどです)を思い出します。
深夜にかかる時間が多いと思います。
連絡を受けた人のなかには亡くなった人はいません。
もしかしたら助けを求めていたのかもしれません。その人に連絡先があったことがよかったというものでしょう。
実際に自殺した人との差をどう考えるのかはわかりません。
(3)私に遺書を書いて送ってきた人もいます。
必ずしも緊急とはいえず、遺書の内容に私への抗議が含まれていたので直接連絡をとるのはまずいと判断し、
所轄の保健所にその遺書全文とともに対処をお願いしました。
保健所からの連絡・アドバイスにより警察署と該当自治体の福祉課(自殺予防事業)にも、同様の対処をお願いしました。
それぞれ連絡があり、警察署生活安全課から安否確認をするというのが唯一の具体的な対処です。
公共機関においても直接に介入するのは相当に難しいことがわかりました。
このなかには本人が希望しない方法、予想外や意表を衝く方法もあったはずです。
よかったと思う人もいたと信じています。
一般に、生命が関係し重大な犯罪に関係するときは、本人の意向を確かめないまま何らかの介入をするのは公共の福利の点からも私の信念からも是認できると考えています。
もっとも犯罪に関係する介入事例はこれまではありません。
生きること、生きようとする意欲が出ること、希望をもつことは、本人の持つ要素が第一です。
それと反対のこと、生きたくないと思うこと、死にたいと思うこともまた同様に本人の持つ要素が第一です。
同じ原理で生きる・死ぬを考えるとこうなります。
このあたりのことを「生きるのも死ぬのも本人の自由」という主旨にまとめたのかもしれません。
いや「生きるのも死ぬのも本人の自由」に近い言葉があったのかもしれません。肯定も否定もしないとはそういうことです。
受けとめ方は私の思いや気持ちとはかなり違います。聞いている人の思いや気持ちも作用すると思うしかありません。
死のうとする瞬間、さらには死のうとしていたのが転換して生きようと変わる瞬間だけが対応ではありません。
日常があってこそ緊急の瞬間への対応が生まれます。
死にたいと思う人に接するのは辛いことですが緊急事態になると、全力を求められる気がします。
しかし万能ではありません。
日常生活における私の活動に則していえば、支援のなかで生きたくなるようなこと、
未来に希望が持てるようになることを持ち込みたいと思います。
それはいろいろな機会に述べてきたことであって、華々しいものよりも地味で目立たないことです。
劇的な変化に賭けるよりも小さな変化を見逃さないことに象徴されます。
そういう日常活動が不十分といわれればその通りですが、それでもこの日常活動は続きます。
そこには否定感はないし、輝かしいものも必要ありません。
自分にはそれで釣り合いは取れています。