Center:120-ヨーガにおける「宇宙意識」の暗示
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瞑想を「より別の観点から見れば、わたしたちの意識が、宇宙と同調し、わたしたちが瞑想によって宇宙意識をもつということにもなる」(27ページ)。 | 瞑想を「より別の観点から見れば、わたしたちの意識が、宇宙と同調し、わたしたちが瞑想によって宇宙意識をもつということにもなる」(27ページ)。 | ||
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例えば、宇宙意識という用語ではなく、天命、自然の動き、生命力、大地の声、神の存在…といろいろに言い表わすことができるでしょう。<br> | 例えば、宇宙意識という用語ではなく、天命、自然の動き、生命力、大地の声、神の存在…といろいろに言い表わすことができるでしょう。<br> | ||
間違いと判定する具体的な材料はないけれども、正しいと証明することはできずに、勝手に表現されてしまう。<br> | 間違いと判定する具体的な材料はないけれども、正しいと証明することはできずに、勝手に表現されてしまう。<br> | ||
次に読んでいる『アーユルヴェーダの知恵』における「純粋な意識」もここに入るだろう。<br> | 次に読んでいる『アーユルヴェーダの知恵』における「純粋な意識」もここに入るだろう。<br> | ||
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しかし、ある存在があり、時代的、文化的に形成された集団のなかで、独自に意識された表現を蓄積したもの(例えば宗教、秘術、芸術表現など)といえるかもしれません。<br> | しかし、ある存在があり、時代的、文化的に形成された集団のなかで、独自に意識された表現を蓄積したもの(例えば宗教、秘術、芸術表現など)といえるかもしれません。<br> | ||
それに接近する方法は、思弁的な分野では瞑想によるものが多いのでしょうが、もっと違った形のものを当てはめていくことができるだろう。<br> | それに接近する方法は、思弁的な分野では瞑想によるものが多いのでしょうが、もっと違った形のものを当てはめていくことができるだろう。<br> | ||
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科学はまだその解明にまで手を伸ばしてはいません。<br> | 科学はまだその解明にまで手を伸ばしてはいません。<br> | ||
その存在と表現は非科学的というよりは科学が手の届かないところにあり、その接近を待っているもののように思えます。<br> | その存在と表現は非科学的というよりは科学が手の届かないところにあり、その接近を待っているもののように思えます。<br> | ||
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近代科学は、その存在を自ら証明できたものに存在を認めてはきましたが、人間の知恵や手段が到達していないもののうち、自らその存在証明をしないものについては、否定する・無視するか、逃げ腰になるか、今後の課題にするしかなかったようです。<br> | 近代科学は、その存在を自ら証明できたものに存在を認めてはきましたが、人間の知恵や手段が到達していないもののうち、自らその存在証明をしないものについては、否定する・無視するか、逃げ腰になるか、今後の課題にするしかなかったようです。<br> | ||
この本全体は、これらの点を残したままのハウツー本になっています。<br> | この本全体は、これらの点を残したままのハウツー本になっています。<br> | ||
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「座禅においては、無我の境地という(27ページ)ことがいわれている。すなわち、わたしたちは、自意識を貫くことによって、究極的には自意識のない無我の状態、すなわち自意識の主体である“我(われ)”を意識しない精神状態に到達するのである。これは、先に述べたヨーガの宇宙意識とはやや異なった境地ではあるが、しかし、同様に心理的および身体的我(われ)から自由になるという意味では、どういつの状態ということができる」(28ページ)。<br> | 「座禅においては、無我の境地という(27ページ)ことがいわれている。すなわち、わたしたちは、自意識を貫くことによって、究極的には自意識のない無我の状態、すなわち自意識の主体である“我(われ)”を意識しない精神状態に到達するのである。これは、先に述べたヨーガの宇宙意識とはやや異なった境地ではあるが、しかし、同様に心理的および身体的我(われ)から自由になるという意味では、どういつの状態ということができる」(28ページ)。<br> |
2011年4月27日 (水) 22:07時点における版
ヨーガにおける「宇宙意識」の暗示
〔2011年4月7日に記載〕
『瞑想の科学―新しい精神世界への飛翔』(石川中、講談社ブルーバックス、1981年)。著者は医師。
この本は瞑想・ヨーガとそれに関連する精神療法を解説したもののようです。
「例えばヨーガやでは、調息、調身、調心というように、呼吸をととのえ姿勢をととのえれば、心が整うという一種の自己制御の方法である、また、別の側面からこれをより科学的に捉えていくと、瞑想は脳波のアルファ波を増強し、いわゆるアルファ状態という精神生理学的な状態をつくることである。…一方、瞑想には、いまここに存在している自己の肉体から自由になるという働きもある」(26ページ)。
瞑想を「より別の観点から見れば、わたしたちの意識が、宇宙と同調し、わたしたちが瞑想によって宇宙意識をもつということにもなる」(27ページ)。
例えば、宇宙意識という用語ではなく、天命、自然の動き、生命力、大地の声、神の存在…といろいろに言い表わすことができるでしょう。
間違いと判定する具体的な材料はないけれども、正しいと証明することはできずに、勝手に表現されてしまう。
次に読んでいる『アーユルヴェーダの知恵』における「純粋な意識」もここに入るだろう。
しかし、ある存在があり、時代的、文化的に形成された集団のなかで、独自に意識された表現を蓄積したもの(例えば宗教、秘術、芸術表現など)といえるかもしれません。
それに接近する方法は、思弁的な分野では瞑想によるものが多いのでしょうが、もっと違った形のものを当てはめていくことができるだろう。
科学はまだその解明にまで手を伸ばしてはいません。
その存在と表現は非科学的というよりは科学が手の届かないところにあり、その接近を待っているもののように思えます。
これらの勝手に表現されているものの多くは荒唐無稽ですが、そのなかから英知となるものを見つけ出す必要が歴史的に要請されているのでしょう。
近代科学は、その存在を自ら証明できたものに存在を認めてはきましたが、人間の知恵や手段が到達していないもののうち、自らその存在証明をしないものについては、否定する・無視するか、逃げ腰になるか、今後の課題にするしかなかったようです。
この本全体は、これらの点を残したままのハウツー本になっています。
「座禅においては、無我の境地という(27ページ)ことがいわれている。すなわち、わたしたちは、自意識を貫くことによって、究極的には自意識のない無我の状態、すなわち自意識の主体である“我(われ)”を意識しない精神状態に到達するのである。これは、先に述べたヨーガの宇宙意識とはやや異なった境地ではあるが、しかし、同様に心理的および身体的我(われ)から自由になるという意味では、どういつの状態ということができる」(28ページ)。
このなかの「無我の境地」も上の項目と同類になります。