不登校情報センターの居場所の経過
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そこはひきこもり経験者、準経験者とその家族、関心をもつ人たちが集まるミニ社会が形成されていました。<br>思いつくことを発表し、よびかけ、試していける場になったと思います。<br>参加者はその日にどんな取り組みがあるのか、曜日や天候によりまちまちですが、元旦を含めて一年中毎日だれかが顔を出す状態になりました。<br>朝から私が外出して、「治外法権」の日もありますが、平穏無事の日は続いてきたのです。<br> | そこはひきこもり経験者、準経験者とその家族、関心をもつ人たちが集まるミニ社会が形成されていました。<br>思いつくことを発表し、よびかけ、試していける場になったと思います。<br>参加者はその日にどんな取り組みがあるのか、曜日や天候によりまちまちですが、元旦を含めて一年中毎日だれかが顔を出す状態になりました。<br>朝から私が外出して、「治外法権」の日もありますが、平穏無事の日は続いてきたのです。<br> | ||
私は心理学や精神医学を系統的に学んだことはありません。<br>ここに紹介した居場所の生活のなかで、現実のひきこもり経験者の言動を見聞きして、学んできたのです。<br>当然個人差がありますから、ある出来事に対する反応もいろいろです。<br>私の理解は偏っていると言われてもやむを得ないわけですが、現場体験を通していることは確かです。<br>それが唯一の根拠となるものです。<br>あえて言えば、私のひきこもりは「現象学的」な観察によるもので、対応方法をあえて言えば教育編集者の時代に学んだ教育的方法になるはずです。<br> | 私は心理学や精神医学を系統的に学んだことはありません。<br>ここに紹介した居場所の生活のなかで、現実のひきこもり経験者の言動を見聞きして、学んできたのです。<br>当然個人差がありますから、ある出来事に対する反応もいろいろです。<br>私の理解は偏っていると言われてもやむを得ないわけですが、現場体験を通していることは確かです。<br>それが唯一の根拠となるものです。<br>あえて言えば、私のひきこもりは「現象学的」な観察によるもので、対応方法をあえて言えば教育編集者の時代に学んだ教育的方法になるはずです。<br> | ||
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2022年10月14日 (金) 10:43時点における版
不登校情報センターの居場所の経過
(2001年6月~05年8月)
主に新小岩時代の居場所を話しますが、それ以前の5年ほどの前史から始めます。
1995年9月に、『登校拒否関係団体全国リスト』(あゆみ出版)という情報本を発行するとき、担当編集者に「編集者名をどうしますか」と問われ、不登校情報センターという名前にしました。
当事者が集まり始めた時期
この名前を見た数人の主に十代から問い合わせがあり、彼らを互いに会わせたい思いから会合を開くことにしました。
横浜駅近くの神奈川ボランティアセンターを会場にしたのは、神奈川在住者多かったからです。
1996年8月6日、「通信生・大検生の会」はこのとき生まれました。
この会はその後も都内あちこちの会場を借りて開いていました。
しかし別に親からの相談もかなり頻繁にあり相談場所をよく探す状況でした。
1998年8月、知人の不登校支援をしている人から、開設の資金も少し出すので事務所を固定してはどうかと提案を受けました。
こうして豊島区大塚に事務所を開きました。
不登校やひきこもり経験者がよく来るようになり、毎週水曜日を定例日に決めました。このころには「通信生・大検生の会」には、中退やひきこもり経験者などが混ざる状態です。
これらの当事者に自己紹介を書いてもらい、それを冊子にまとめて配布します。
当時リクルート社で「じゃマール」という個人情報誌が発行されており、それにこの会を載せたら、問い合わせも増えました(1年後に50名以上)。
問い合わせは多く、会合には参加しない人もかなりいます。
ところが一度も会合に参加していない人と文通を始める人がいました。
それを参考に文通交流誌となる「ひきコミ」準備号を発行したのが2000年7月です。
池袋で会合を開いたとき、その準備号を配布しました。その集まりの場にいた取材記者により日本経済新聞などに載せられました。
準備号は大増刷になりました。それはかなりの赤字(出費)です。
これを聞いた、私の出版社時代の先輩が、「これを月刊で発行する」と安請け合いをして、その年の12月に個人情報誌『ひきこみ』が創刊されました(2002年11月の第18号まで市販で発行)。
大塚の事務所8畳のスペースに毎回30人以上が押しよせる状態になりました。
履物が多くて玄関ドアは閉められません。
室内の机はベランダに一時移してスペースを確保します。
室内トイレのドアのすぐ前にも人が座るという混み具合です。
朝日新聞に「引きこもりに居場所づくりを」の投稿したところ「論壇」に掲載されました。
これを見た第一高等学院(大検予備校)の知人から葛飾区の新小岩校を閉鎖するので「この校舎を使わないか?」との提案をうけました。「使用料なし」の条件です。
5月13日、そこを会場に講演と相談会「引きこもりから社会参加へ」を開きました。訪問サポート活動をしているトカネットの活動報告があり(トカネットの藤原さんとはすでに協同で活動を進めていました)、参加した親同士は2グループに分けて相談と意見交流をしました。これが後の親の会に続きます。大塚事務所に来ていた20人ほどが参加し、この人たちを中心に事務所の移転作業が行ないました。
6月4日、事務所移転です。
大塚事務所からは知人に頼んで荷物を積み込み、集まった当事者からなる作業手伝いメンバーは電車で新小岩へ移動です。
事務所移転はぎゅうぎゅう詰めのスペースから、広すぎて使いこなせない場への移動でした。
私は事務室を確保し、通所者は毎日来るようになりました。1~2階に4つの教室と広いスペース、事務所と印刷作業室などがあります。
4階の広いスペースは集会時にだけ使いました。
パソコン数台、机や椅子も多数が置かれ使えました。電話・FAXも使えます。
これらの使用料、光熱費は負担しますが、室料は無料です。
第一高等学院旧校舎の時代
不登校情報センターの居場所の本題はここから始まります。
居場所としての紹介は、この第一高等学院旧校舎にいた、2001年6月から2005年8月までの4年余とします。
この間の主な出来事を先に挙げておきます。いろいろな事態の背景がわかるからです。
2001年10月5日~9日の5日間(3連休とその前後1日)「学校案内書フェア&進路相談会」を開きました。
多くの新聞で報じられたこともあり、一般参加者は500人近くになりました。この形の取り組みはその後2回開きました。
親の会は月例会に定着し、2001年11月に「IINA会」という名称になりました。
2002年1月末に、通所者内の一部で対立が発生し、「3月末まで集まり中止」にしました。
集まりは中止でしたが、「個別の用事」があるのを理由にいろいろな人の出入りは続きました。
2002年3月30日、1階の大きなスペースを「あゆみ書店」としました。店番は希望者がいて毎日1人が担当しました。
この少し後に「喫茶いいな」ができました。
これは親の会の人も協力していて、書店店番と、喫茶担当が兼任であったり、別であったりしました。
2002年11月「あゆみ仕事クラブ」が発足しました。
2002年12月、リコー社よりデジタル印刷機の寄贈を受けました。印刷物作成の費用負担が大幅に減少しました。
2003年5月、「あゆみ仕事クラブ」の取り組みとして、生活情報誌「ぱど」(月2回)のポスティングを始めました。
これはその後4地区、合計5000部を配布することになります。
2003年8月20日、NHKの企画番組に当事者数人とともに出演し、集会にも多数参加しました(100人近い参加者の5分の1以上をしめました)。
2003年9月、月刊地域新聞「江戸川タイムス」5000部のポスティングを担当(~2004年途中に江戸川タイムスが廃止されるまで)。
2003年10月、所内で「ハローウィン」仮装教室が開かれました(2002年であったか?)。カウンセラーの1人が提案。
2004年3月、不登校情報センターの公式HPの制作に着手(⇒2004年11月21日に正式に確立)。
2005年6月12日、不登校情報センターをNPO法人にする設立総会。
2005年8月、事務所移転(近くのメゾネット型のマンションに移転)。
このメゾネット型マンションは8年間いたわけですが、居場所の様子を説明するには、この第一高等学院校舎の4年間を話すのがいいと思います。
ここまでを新小岩第一期とします。
新小岩第一期の居場所の状態は、特定の統一のプログラムのない、ひきこもり経験者の社会的交流の場と表わすのに間違いはないと思います。
通所者は出入り自由です。年齢・男女、経験・関心の違い、とくに対人経験の差が大きいこと、そして気質・性格が異なり同一プログラム(学校でいえば教育課程)は不適当だからです。
これは大塚時代もそうであったし、新小岩第一期を終えた後もまたそう言えます。
私の考え方は、参加する一人ひとりの自由な発想を促進するスタンスです。
参加する各人とは当事者が中心ですが、支援者など関心を持つ人もいます。
各自の発想による提案を受け実行されたその取り組みを列挙してみます。
カウンセラー・カウンセラー指向の人
新小岩時代は合計10人余りが関わりました。多い時期は5人ぐらいがいました。
▲一室を常設のカウンセリングの場、相談室にした人。居場所にはひきこもり経験者がいる状態であり、その人たちも顔見知りとして相談になった人も少なからずいます。
常設的ではなく個別の臨時の相談になることも多くありました。こちらの方が実際には多かったと思います。私もこの人はと思う人を「~さんに相談しては」と勧めた人が何人もいます。
▲当事者によびかけて心理学の学習会を開く。心理劇(サイコドラマ)を実演し、センター内を2人一組になり、一人が目隠し状態になりもう一人がそれを案内する役になって移動する―そういう場面もありました。
▲親の会に参加する人によびかけて、定期的な学習会を続けるカウンセラーもいました。
▲一時期、来所しているカウンセラーに呼びかけて共同の学習会を開いたこともあります。そのころの中心テーマは「境界性パーソナリティ障害」でした。
カウンセリング以外の協力者
▲保険業務の説明会を開いた人がいます。詳しくはわかりませんが、その人の関わる保険業の案内を兼ねていたものと思います。
▲メークアップ教室を開いた人もいます。男性にも参加した人がいます。
▲食事を用意し、夕刻に食事会を継続した人もいます(大人食堂です?)。それに期待して参加した人も多くいました。
食事はコミュニケーションが自然にできる場なのです。
▲学習塾に準じる場として学習指導をした人もいます(教室Shine)。それを機会にこのスペースに関わるようになった十代の当事者もいました。
▲新聞編集部もでき、1回だけですが、情報センター内の事情が新聞として発行されました。
▲通信社の記者がよく来ていました。1年近くしたあとで『ひきこもり、セキラララ』(諸星ノア.草思社.2003年10月)という参加していた当事者の本が発行されました。
▲とくに、訪問サポート・トカネットの藤原宏美さんとは協同で取り組んでいました。
その訪問サポートをする側の学生たちが多く出入りしていました。この人たちと当事者との関わりは全体としては好影響であったと思います。
▲堀口佐知子さんはイギリス留学から帰国したばかりの若い研究者でした。この居場所に、当事者と似たスタイルで加わり、実地で観察調査をしていました。
共同執筆した本の1節にこの居場所の状況が紹介されました(2022年、彼女は立正大学客員研究員)。
▲親の会に参加していたお母さんが、会の終了後、趣味(?)の太極拳教室を開いていました。私も一度参加したことがありますし、当事者にも参加した人がいます。
▲私も『こころの医療』?(西脇巽.あゆみ出版)という本をテキストにして、数人参加の学習会をつづけました。
また編集教室を開き1名参加したのですが、これは続きませんでした。
私だけではなく他にも何かを試みて続かなかって例はいろいろあると思います。
▲私が取材を受けた新聞や雑誌の記者には、近くにいる当事者を呼んで話をきかせてもらったのは、かなりよかったと思います。
ひきこもり当事者が始めたこと
▲「あゆみ書店」を開設したのは、いろいろな本があること、『ひきコミ』を定時発行していること、首都圏中心に通信制高校やサポート校、フリースクールの案内(これらは無料配布)を陳列するスペースづくりのためでした。
このスペースを誰かが担当する必要があるという提案があり、「あゆみ書店」を思いついたのです。
担当者は交代でしたが、参加する動機づけになったと思います。
▲あゆみ書店ができた後、ある人が発案して喫茶コーナーを始めました(喫茶いいな)。
親の会に参加していた母親が勧めたものと思います。
ケーキづくりが趣味のようで、これが好評でした。もちろん、売上高は問題ではなく、赤字であったと思いますが、1つの試みであったと思います。
▲インラインスケートをする人が数人になり、近くの新小岩公園に出かけて実行していました。
記憶ははっきりしないのですがすでにスケート部みたいなのがあったはずで、それとは別にインラインスケート部ができた(?)と思います。
イラストやマンガを描く人
このような当事者の動きのなかで、サークルのような形にはならなかったはずですが(?)、イラストやマンガを描く人が何人かいました。
多くは個人で、自宅で絵を描いていたのですが、一部には『ひきコミ』に絵を載せる人もいましたし、居場所の教室に一枚絵を貼り出す人もいました。
所内の展示は自由にしていたわけで、イラストに交じって短文(格言?)のようなものを書いたり、催し物案内を張り出す人もいました。
短文はそのあと私が意図的に集めて『ひきこもり国語辞典』の基になりました。
イラストを描くなかに太田勝巳くんがいました。彼の描いた犬のようなそうでないような一枚が貼られているのを見て彼と話したら、そういうはがき大の絵を大量に(1万枚!といいます)描いているというのです。
ちょうどある小児科クリニックにスペースがあり「利用しないか」と誘われていたこともあって、太田くんの作品展示会を企画しました。
しかし、2005年11月?日、太田くんは突然自死しました。
それでもこの展示会(遺作展になりましたが)は開くことにして、2006年2月25・26日に、中央区佃の小坂小児科クリニックで個人作品展「青の時空」を開きました。
この話は第一高等学院の時期を終えた後です。
イラストやマンガなどの絵を描く人は多く、太田作品展を第1回として、その後数回、創作展「片隅にいる私たちの想造展」を開きました(2011年の第5回が最後になります)。
太田勝巳くんの1万点という作品「レイン」は、段ボール箱に入ったまま、私の所に保存されています。
いつか陽の目が当たるところに出したいと願っています。
体験記を書いたり、詩文の創作をする人
体験記・エッセイを書く人、詩文の創作をする人もいます。それらは『ひきコミ』に数回分けて載せました。
新小岩第一期以降にはこれらを手作り小冊子にしました。太田勝巳『不条理ものまんが集』もそうですし、中崎シホ『狂詩集』は詩集、二条淳也『中年ひきこもり』、お惚け者『世間は虚仮なのよ』はエッセイ集、葉月桜子『異物』は小説、期波盤宝『しあわせ村によく来たね』はナンセンス詩文集…などがあります。
寄贈を受けた簡易印刷機が役に立ちました。
自作の詩文集を作ったmakikoさんは『TEARS…小さなカケラ』と名付けました。
話し合いのグループから作業グループへ
当事者の話し合いのグループで、定例化またはよく開かれていたのは「人生模索の会」(これは大塚時代にスタートしていた)と、「30歳前後の人の会」でした。
確かに不登校情報センターの居場所は「人生模索の会」と広まっていた時期もあります。それが2002年1月の“内紛”の時期に全体的なものから一定グループのようなものに移行していきました。
もう1つの「30歳前後の人の会」のメンバーがやってきて「不登校情報センターを働ける場にしてください」と申し出があったのは、2002年秋だと記憶しています。
10人余が私の元に来て話したものです。私は「小遣い程度の収入がある状態をめざして取り組もう」と答えて始まったのが「あゆみ仕事企画」でした。
初めは内職があったのですが、時間はかかるは、単価が安すぎる、ということでこれは1、2度でやめました。
あゆみ書店の店番もそれに入れたはずですが、これに変化はありません。あゆみ書店で集めた、学校案内書をDMとして配布しようといくつかの学校・スクールによびかけました。
手元には、相談者や「ひきコミ」の読者リストなど、当時は1万人を超える名簿がありました。それを住所別にまとめ、それを元にDM発送にしたのです。
これを「DM発送作業」とよび、年に2~3回行いました。発送部数によりますがこれは3~4日かかり、10人余が参加しました。
1か月単位で作業費を支払うことにしたのですが、最高額で10万円弱、少ない人は数百円でした(参加時間単位で計算)。
DM発送がいちばん作業らしい作業でした。
情報誌『ぱど』のポスティング(月2回)を始めたのは2003年5月です。2005年7月まで続きました。
最初は1地区(1500部)でしたが、最後は4地区(4500部)まで広がっていました。
これは配布部数により参加者に作業費を支払います。
地域情報誌、『江戸川タイムス』のポスティング(2003年9月、月1回5000部)も加わりましたが、これは1年ほどで廃刊になりました。
ポスティングへの参加者が徐々に減るなかで、事務所移転のあと徐々にやめました。
サイト制作の始まりから公式HPの作成に
あゆみ仕事クラブとは別によるサイト制作を考える人がいました。
不登校情報センターのサイト設定は1998年にある協力者の申し出があり、初めてのサイトの形ができました。
不登校情報センターで発行している出版物7~8点を紹介するページがホームページでした。
第一高等学院旧校舎に移った後、自由に使える状態のパソコンで通所している人が書き込み自由の形の掲示板をつくり、自分の意見を書き込んでいました。
最初はHくん、次にMくん、Tくんが前任者をひきつぐ形ではなくそのつど新しいページにしました。
ですからこれらは「非公式ホームページ」だったわけです。
2003年になってある不登校支援団体から、不登校情報センターのサイトを、これらの団体を紹介するものにしてほしいという要望を受けました。
それでパソコン愛好者、技術的に可能な人に集まってもらいました。
私には何の技術的な知識はありません。構造図を紙に書いて、数人に制作を考えてほしいと依頼しました。
その当時数点の情報本を発行していましたので、そこに紹介している団体を生かしてサイトをつくる作業です。
その一応の完成は2004年11月21日です。これは2006年12月に読売プレデンシャル福祉文化賞を受賞しました。
それ以降、このサイト制作は現在も続いています。
宿泊用の別室
居場所の状況を示すもう1つは別室とよぶ場所であり、この時期を表わします。
当時はときどき活動時間が夜遅くなることもあり、この居場所に泊まっていたわけです。
活動の活発化とともに頻繁に泊まる機会が増え、翌年夏近く(?)アパートを借りました。
やがて通所者のなかに夜遅くなるので、このアパートに宿泊を希望する人が生まれました。
そのなかには女性もいて、そのときは私が居場所に泊まり、アパートに宿泊希望の女性が泊まる形になったのですが、それもいろいろな状況です。
女性2人のときは私も一緒にアパートに泊まる。男女1名のときは私もいる…という具合です。多いときは5~6人が合宿のようになりました。
自宅で何かあったらしく、その逃げ場としてここに泊まった人もいます。
遠方から1人で東京に出て来た人がいて、その人が1週間ほど泊まることになったのですが、そのときはその人が居場所に宿泊することにしました。
子どもから暴力的に自宅を追い出された親も居場所に10日ほど宿泊しました。
このようなアパートという別様式の形で、ひきこもり経験者の生活状況を知ることにもなりました。
私はこのような様子の居場所に通ってくるひきこもり当事者たちの、昼間の正規の生活ぶりだけではなく、生活のなかで表われるいろいろな場面や表情を見る機会を得たともいえます。
昼間の正規の生活以外の姿を知る機会としては、主に自宅への訪問活動もありました。
ここでは家の様子や家族との関係も見ることになりました。
また、医療機関(主に精神科)への同行、定時制高校や専修学校への同行もありました。
相談室で対面して相談を受けるのとは違う、朝から夜までのいろいろな場面、生活のいろいろな場面で、彼ら彼女らの姿を見ることができたのです。
対応を積み重ねただけで支援とは言いづらい
ひきこもり支援として、対人関係づくり、有用な技術取得の研修、資格取得、就業支援などが行われて、それぞれ苦労しながらすすめられています。
それらは所定のプログラムに沿う方法が効果的と考えられますが、不登校情報センターの状況はそれがいいとは思えなかったわけです。
他の支援活動と比べてみると、不登校情報センターの居場所がはたして「支援」という名前に相当するのかどうかは危ぶまれます。
それもあって私は「支援」という言葉を使いたくない気持ちが強いです。
以上のようにまとめてみるとそれらを予測して取り組んできたように見えますがそうではありません。
その場その場への対応として積み重ねてきたものです。
支援団体といわれる施設と比べると、不登校情報センターの居場所の状態は、無秩序です(決して乱れてはいません)。
当事者は基本的に平穏愛好者ですから、強圧的なことがなければ穏やかな人たちです。
関心があること、呼びかけられてこれと思うものに加わってきたのです。
そこはひきこもり経験者、準経験者とその家族、関心をもつ人たちが集まるミニ社会が形成されていました。
思いつくことを発表し、よびかけ、試していける場になったと思います。
参加者はその日にどんな取り組みがあるのか、曜日や天候によりまちまちですが、元旦を含めて一年中毎日だれかが顔を出す状態になりました。
朝から私が外出して、「治外法権」の日もありますが、平穏無事の日は続いてきたのです。
私は心理学や精神医学を系統的に学んだことはありません。
ここに紹介した居場所の生活のなかで、現実のひきこもり経験者の言動を見聞きして、学んできたのです。
当然個人差がありますから、ある出来事に対する反応もいろいろです。
私の理解は偏っていると言われてもやむを得ないわけですが、現場体験を通していることは確かです。
それが唯一の根拠となるものです。
あえて言えば、私のひきこもりは「現象学的」な観察によるもので、対応方法をあえて言えば教育編集者の時代に学んだ教育的方法になるはずです。