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2012年1月18日 (水) 00:04時点における版
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情緒的な友人関係を得ず、公平な人間関係にすすむ(後編)
〔『ひきコミ』第51号=2007年12月号に掲載〕
(6)人が大事にしているものを壊したくない、と思う原点
自閉的で友達関係が少なく、一人で何かをやっている、という人をみたとき、私は自分自身の経験から言うことができます。
そこには内容の充実した小宇宙があり、それを究めることはとても多くの労力と工夫(知恵)を傾けなくてはできない。
それを外部から無造作にぶち壊すことはいいことではない・・・と。
こう書いて思い出したことが1つあります。
私は小学校入学前に、木の切端を集め、たぶん釘や針金を使って一列に並べた、手づくりの列車を作ったことがあります。
自分ではとても気にいっていたのですが、ある日、家に帰ってみると見当たらなくなっていました。
父か母に聞 いたら、「小さな子がみてとても欲しがったからあげたよ」といったのです。
相当にショックで、もう一度つくり直そうとしましたが、3つか4つの木片を集めたところで意欲が消失していました。
親には子どものつまらない作品にみえたのでしょう。
持っていった子どももたぶん1日2日で見向きもしなくなったことでしょう。
あれは当人にとってだけに特別に価値のある作品なんです。
それを無視してはいけない。
これが自閉傾向と関係あるかどうかはわかりませんが、心の記憶としてときどき思いだし、「人が大事にしていること」を壊してはいけないと自戒する材料にしています。
(7)地図と友達、地図が友達
友達関係のなかで、さっぱり意味をつかめなかったのは中学校時代ではないかと思います。
しかし私はその時代を孤立や仲間外しやいじめはなく過ごすことができました。
それは現代とは時代背景が違うということもありますが、もう一つの別の面もあります。
そこにふれます。
地図好きの小学校時代であることはすでに述べました。
小学校で地理を学ぶのは5年生です。
このとき、たぶん社会科はいつも生徒50人余のクラス=学年で一番だったと思います。
テストはたいだい満点だったからです。
当時の担任のY先生が「タケミ君は社会科が得意だけれども、そのうち他の科目もできるようになるよ」というようなことをよく言っていました。
教頭になっていたN先生からも「きみは社会科が得意なんだってな」ということを言われました。
いま思うとこれはY先生の作戦だったような気がします。
社会科だけでなくほかの学科も結局は勉強するようになったからです。
6年生になったときは担任は代わりましたが、あるとき同じく地図好きのKくんと一緒に模造紙をはり合わせた大きな世界地図を書くことになりました。
居残りで完成し、それは教室に張り出されることになりました。
弟が小学6年生のとき、教室内で写真を撮っているのがあり、そこにも私の作成した地図が写っていたので、たぶん数年は教室に張られていたものと思います。
こうして私は学業成績で学年のトップクラスになったのです。
小学校3~4年ごろまでは普通だったはずです。
母は地図をやめさせようとしましたが、5~6年生を担任した2人の先生は、それを肯定的に認め、他の教科に広げようと図ったのです。
私はそれと知らずに乗せられていたように思います。
(8)中学校時代の私のポジション
中学校では野球部に入りました。
兄2人が野球部で、私が中学校に入学したときすぐ上の兄は中学校を卒業していたのでいません。
私は野球部ではまじめな部員でした。
練習熱心であったということです。
ここでの人間関係は、学年別が基本で2年生、3年生は当然先輩ですが、1年生は球ひろい、体力づくりと、あとは適当に打撃や守備練習の時間を与えられる形でした。
情緒的な人間関係を求められることはないし、それぞれが与えられたテーマに集中していけばよかったからです。
先輩たちからは、ともかくまじめに練習しているというだけで肯定的に評価されていました。
いま思うと、これが実は対人関係にとってはよかったと思います。
実り多くはない(または強い連帯感は得ていない)けれども、得るべきものは得ていたというほどの意味です。
一方、中学校では2クラスになりました。
1クラス26~27名、当時としては小規模クラスです。
学級委員長(当時は級長といっていたようですが)に選ばれました。
しかし何かをしたわけではありません。
たぶん何もしなかった気がします。
1年生のとき担任の先生が出張か何かで休みになりました。
その日何かの教科担任から学級担任にクレームにいったらしく、私は突然その担任からゲンコツ一発を見舞われました。
「級長だからしっかりしろ」というようなことだったと思います。
しかしいったい何のゲンコツだったのか、さっぱりわかりません。
その後も学級委員長として何かを意図的にしたことはありません。
よくわからないけれども、そういうポジションにおかれやすかったという気がするだけです。
(9)「タケミ君は公平なんですよ」
中学校の友達・級友の関係のエピソードでは、なんのことだかよくわからないことが多かったと思っています。
学年でボス的な生徒がいました。
運動会(体育祭)のときだったと思います。
私がソフトボールを投げたところ、だれかをねらったのではなく軽く投げたわけですが、そのボス役の胸部に命中してしまいました。
私はまずいと思い、謝るために彼のところに急いで近づいていきました。
そうしたら彼がなぜか笑いながら「直撃したよ~」と話しながら握手をしてきたのです。
どう謝ろうかと思っていたところで、結局、謝まりの言葉もうまくいわないうちに握手で終わってしまったのです。
こうなった理由は本当はよくわかりません。
ただ彼は私に対抗心をもちながらも一目置いているようなところがあり、その私が失敗をして謝りに向かってきたから、気分がよくなったのか・・・と思ってみたりしました。
女子が転校してきました。
ちょうど伊勢湾台風がニュースになった後のことで、その子は「伊勢湾台風」とよばれ、とくに男子から下に見られるような雰囲気がありました。
おそらくその子の振る舞いになにかそんな要素があったのでしょう。
私はそのとき学級委員長だったはずで、たぶん担任か教科の先生に頼まれてその子に話をすることになりました。
それが何の用事であったのかは全く思い出せないのですが、教室でその子を呼んで話しました。
私がその子と話したことがどれだけ影響しているのかわかりませんが、その後、その子へのいじめ的なことがなくなっていきました。
私はその子から「タケミ君は公平なんですよ」といわれたことがあります。
この理由も私にはよくわかりません。
たぶんイジメの対象になっている女子生徒に私がそんなことをちっとも気にせずに話しかけたことが、男子生徒のなかに何か響いていった、というものがあるのでしょう、か?
Hさんというやや虚弱な感じの女の子がいました。
いつも教室の一番前に座っています。
そのとき私は教室の前で、これも学級委員長として何かを話し、その後でそのHさんの横を通り抜けて教室の後方に向かおうとしました。
そのときは昼食の時間で、私はHさんの弁当をひっかけて、机の下に落としてしまったのです。
本当にすまなくて、謝まりながらその弁当を拾い集めました。
それからしばらくした後、ある元気そうな女の子から「タケミくんはだれにたいしても公平、だから認められている」というようなことを言われました。
Hさんはもしかしたら、女子の中でイジメにあっていたのかもしれません。
学級の中での人間関係としてこれらをみるなら、私は何もしていないのです。
むしろ失敗があります。
しかし「公平」といわれるのです。
私にはそのとき、人に対して公平にするという気持ちがあったかどうかはよくわかりません。
私は友情とか情緒的な人との結びつきは求めるような気持ちはなく、かといって人の有位に立つという気持ちもなかったと思います。
ボス役に対しても転校生とか虚弱な子へのごく当たり前の姿勢が、他の生徒には公平に映っていたのではないかと思うしかないのです。
(10)私の体験の中に、自閉的な人の対人関係のつくり方のヒントがある?
中学校の3年間(その同級生はほぼ小学校6年間と同じ)、私はこれらの人たちには特別の親友はいません。
家が近所の人は学年が違いますがあそび仲間であっても、親友とはなりません。
中学1年、2年、3年と1学期は学級委員長に選ばれ、3年生は3学期のときもまた学級委員長、それに野球部のキャプテンで生徒会長に祭り上げられました。
しかし私は、それぞれのところで、長という名のつく何かをしたような記憶はないのです。
生徒会長なんていうのはほとんど名誉職みたいなものにすぎません。
この他、体育祭とか学芸会とかいろいろなときに何かの委員に就いた(就かされた)気がします。
しかし私にはそれら全部において、特別に何かをした記 憶はないのです。
与えられたことをまじめにやった。
野球部員としてやったようにです。
それだけのことです。
中学校時代は、私にはいま考えてもなぜそんなことになり、「公平」といわれるようになったかさっぱりわかりません。
出来事以外に、私にはそのときにはわかっていない周囲の事態があったように思います。
しかし私はそれを知らない、気づかないが故にマイペースを通してしまった、それが公平といわれる結果を招いたのかもしれません。
ここからいったい何が導き出されるのでしょうか。
いや特別に導き出せるものはないのかもしれません。
私が中学生時代のいつのころからか「公平」を自覚するようになったのは、これらの経験があったからです。
しかしそれは特定の人との情緒的な結びつき、友情ともいえる友達関係ができなかったことの反対面としてみることもできるのではないかとも思います。
もしかしたらそれこそ私の人間関係への「対処」のしかたをつくっていったのかもしれません。
それは自分がどこか自閉的であったとわかった最近になって考えるようになったことです。
ならばそこに、自閉的な人の対人関係のつくり方のヒントがあるのかもしれません。
〔松田武己・ミニ自伝〕
(1)2007年10月ー情緒的な友人関係を得ず、公平な人間関係にすすむ(前編)
(2)2007年11月ー情緒的な友人関係を得ず、公平な人間関係にすすむ(後編)
(3)2007年12月ーよくわからないから、公平な基準を持ち込もうとした?