自己決定
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2021年11月22日 (月) 20:42時点における最新版
自己決定
ゆたぼんは「補いあう」ことができるか
■60才で引退
僕は今月で55才と2ヶ月になり、60才まであと4年と10ヶ月となった。
僕は65才まで待てないので、60才で引退しようと思っている。
引退して、本当なら四国の実家で一人で暮らす78才の母(5年後には83才だが)とともに暮らし、生活費は母の遺族年金をメインに、僕の支払い前倒しのため8万円程度ににしかならないであろう年金を加えて生活していきたいと本気で思っている。
が、僕には家族もいるし少ないながら法人のスタッフもいるため、60才時にそんなに簡単には次の生活には移行できないとは思う。
だから現実的な落としどころとして、週数日仕事、週数日家族、週数日母、みたいな一週間になるのかなあと想像している。
けれども、母の遺族年金に頼りつつ母を介護する、というのは、僕にとっては当たり前の未来である。
母と僕、心細い者同士、それなりに資産をシェアしながら補い合えばいい。それは、家族にもスタッフにも思う。
■「補い合う人たち」
当事者は語れない。
哲学者G.C.スピヴァク 著『サバルタンは語ることができるか』を参照しつつ当欄で語り続けていることだ(たとえば汚辱Squalorと沈黙~傷つきの新時代)。
この「語れない当事者」という問題と、上に書いた「補い合う人たち」という問題は近い。
僕の場合は、権力性を帯びた「男性ジェンダー」であるためわかりにくいが(正確に書くと高齢母+脳出血体験者の僕)、僕は体力も落ち以前よりだいぶ弱ってきたのは事実だ。
母もまだ元気ではあるが、80才に近づいている。
僕と母の実感としては、我々は体力的に確かに弱ってきている。
当事者は弱い。当然、僕よりも弱い。そして問題のコアに近ければ近いほど、自らの問題について語ることが困難になる。
だから誰かが代弁したり代表することで(前者は支援者、後者は「経験者」)問題は露わになってくる。
不登校・ひきこもり問題や虐待のアフターケアについては、僕も「代弁者」の一員であることを自覚している。
だから当欄ではそれに則って書いている。
ただし、ある程度「弱い者同士が支え合う」、という現象は、ひきこもりや虐待といったハードな問題に限定せずとも日常的に生じることだと思う。
その一例が、僕の場合である。
■「自己責任」
世の中は「自己責任」という安易な概念が主流を占めるようだ。
何か事件があれば、すぐに自己責任論が生じる。
これは、「自己」という曖昧なものを、現代の日本人が無邪気に信じていることから来ていると思う。
本当に世知辛いというか、余裕のない世の中になった。
これは、「弱い側」にもいつのまにか侵入している概念である。
たとえば、不登校YouTuberゆたぼんは新時代の主役か、それともただのロボットかで話題の「ゆたぼん」の父は(ゆたぼんの「言葉」はまだ父の言葉だと僕は思う)、どうやら素朴な自己決定主義者のようだ。
哲学者のデリダは、『法の力』のなかで、純粋な自己決定はないと説く。
デリダに頼らずとも、我々の日常を少し顧みると、我々はなにかを決める時、誰かの影響を少なからず受ける。
その誰かとは、リアルな家族や友人かもしれないし、ネットでの著名人かもしれない。
それらの影響を受けつつ、よくわからないレベルで我々は「決めて」いく。
現実の「決定」場面はそのような神秘的なものである。
だが我々は、何かが決まる時は、ある一人の誰かが(たとえばゆたぼんが)熟考して決めていると勘違いしてしまう。
たぶんそう考えるほうがわかりやすいからだろう。
■我々の「決定」は、誰かとのコミュニケーションのなかでよくわからないまま決まっていっている
現実は、一「決定」場面においても、我々の「決定」は、誰かとのコミュニケーションのなかでいつのまにかよくわからないまま決まっていっている。
何かを一人で決めるそんな強い自己などなく、なんとなく不登校後の進路は決まり、なんとなく老後の同居スタイルが決まっていく。
誰かと誰かのコミュニケーションのなかで、いつのまにか惰性の中でダラダラとものごとは決まる。
だから、学校に行きたくなくなってそれに親が賛成し本人も受け入れたら不登校となるのはある意味自然だし、
逆に、また誰かに会いたくなったけれどもそれは学校では無理なので鬱々とひきこもってしまい親は仕方なく「待つ」というのもひとつのコミュニケーションだ。
そして、なんとなくどこか「居場所」に出かけ、そこのスタッフがおもしろくてその居場所に通い、気づけば大学に進学していた、というのもありなのだ。
すべては、「自己」がよく事態を把握しないまま進行する。本人と誰かが「補いあって」いる。
本人は無邪気に自己決定を信じているのかもしれないが、現実には誰かとのコミュニケーションのなかで何かが進行していき、そこそこの現実が目の前に現れる。
その場合の「自己」は、弱くてもいい。そして、自己同士が互いに支え合う、フォローし合うのが人間社会なのだと思う。
哲学者ドゥルーズは、かなりの上から目線でそんな人間社会のあり方を「群れ」と表現した。
つまりは、自己や自我以前の群れ的コミュニケーションのなかですべては決定する。自己責任論は事実とは異なる。
田中俊英 一般社団法人officeドーナツトーク代表
〔2019年5/11(土) 田中俊英 一般社団法人officeドーナツトーク代表〕