靴下騒動…そんなことよりも体性感覚というとらえ方を知る
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2017年12月23日 (土) 21:02時点における最新版
靴下騒動…そんなことよりも体性感覚というとらえ方を知る
〔2014年7月26日〕
靴下騒動というのがあります。
大げさなものではありません。
私が外出するときにはいていく靴下が見つからずにうろうろする事態です。
昔から室内に入ると靴下を脱いでいます。
会館のような場所で開かれる会合であってもあまり動かないと靴下を脱ぎ素足になります。
そのほうが何かいいからです。
外出から戻ると何となく靴下を脱いでしまいます。
また外出になると靴下を履くわけですが、さっき脱いだ靴下が見つからない、そしてあちこちを探す。
これが靴下騒動です。
中学生の頃まではめったに靴を履くことはありませんでした。
野球部にいたのでそのときはスパイクシューズですが、登下校は素足に下駄履きです。
冬でもそうでした。
靴下を履くのは靴を履くようになった高校時代からです。
もう一つ。
私は夏でも長袖シャツを着ています。
上腕を直接に出したときに感じる肌触りのざらざらする感じ、寒さを感じて鳥肌的なぴりぴりする感じが苦手です。
こちらは私だけの感覚でとどまっており、騒動になるようなことはありません。
足は素足がよく、腕はシャツでカバーされた状態がよい。
なんだか相反することであります。
上手く説明できませんが、これは皮膚感覚(触覚)に関することで共通しています。
感覚に関して、これまでは五感+アルファとして考えてきました。
数年前に自分のアスペルガー気質・体質の一面として、この感覚のわずかな特異性をとらえた説明を探そうとしました。
しかし、それらしき説明に接したことはありません。
そういう説明はあきらめました。
その一方で感覚に関するより体系的な説明を得ました。
五感+アルファに代わって次のように説明されています。
(1)特殊感覚=視覚、聴覚、味覚、臭覚、平衡感覚=脳神経連絡の諸感覚。
(2)体性感覚=触覚、圧覚、冷覚、痛覚、運動感覚=脊髄連絡の諸感覚。
(3)内臓感覚=臓器感覚、内臓痛覚=内蔵連絡の諸感覚
中村雄二郎『臨床の知とは何か』(岩波新書、1992年、103ページ)
この分類によると、皮膚感覚としてきたことは体性感覚というのがよさそうです。
体性感覚は次のように説明されています。
「この知見から言えることは、昔からただ〈触覚〉といわれてきたものは、単に皮膚の接触感覚にとどまらない〈体性感覚〉に属するものであり、それは同じく体性感覚に属する筋肉感覚や運動感覚と結びついて働く、ということである。
いいかえれば、狭義の触覚も、体性感覚の一つとしてその基礎の上に、筋肉感覚や運動感覚と結びついて初めて、具体的な触覚として働くのである。
そして、昔から共通感覚とは別に、よく触覚が五感を総合すると言われてきたが、それは狭い意味の触覚ではなく、触覚に代表される体性感覚のことだったのである。
さらに、諸感覚が共通感覚によって統合されるとき、実は、体性感覚が統合のベースになっていたのである」(103~104ページ)。