結論&註・参考文献・まんが資料
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− | 山岸涼子や萩尾望都は、母の問題を描いたまんが家だが、1990年代以降のまんが家たちによっても母と娘は描かれ、継母という設定で、母と娘の間に距離を置きつつ信頼関係が築かれたり、読者がやがて母親になることを想定した少女まんがでは、自分が母親になることをふまえ、母親サイドに感情移入する作品も描かれる。<br>母と娘の問題を描くというより新しい関係を構築する方向で母と娘が描かれている作品も見られる。<br>また、90年代以降、母親の周辺として父親の存在も、ポジティブに描かれるようになる。<br>有賀・篠目は、『親子関係のゆくえ』のなかで、1970年代を母性強調、母性抑圧の時代、続く1980年代を専業母、母性神話への懐疑と抵抗の時代、1990年代を父親の再発見の時代と述べているが、少女まんがにもまた社会の変化を反映し、時代に沿ったテーマの変化がみられる。<br> | + | ==結 論== |
− | 母と娘の問題は、やがて娘が母となり、母親の老いの問題など、母と娘の問題は青年期を過ぎてもその都度表れるが、本論のテーマは少女まんがで描かれた母と娘であり、読者の対象年齢が小学生から20代前半対象であることから、その年齢内の問題に留まるが、娘のそれぞれの時期に対応してそれぞれの答えが、少女まんがというメディアを通して描かれてきた。<br>これらの関係やその答えは、個々の読者の母と娘の問題と同じというわけにはいかないだろう。<br>しかし、まんがというメディアは、人の内面や人間関係を解かりやすく表現しうるメディアであり、表現の自由性と自在性によって多くの物語が社会に発表され、受け入れられ、共有される。<br>母娘関係を考える上でもまんがは親子の関係の問題や答えを提示することで、さまざまな問題を読者に考えさせ、より良い親子関係へのヒントを与えてくれるメデイアであるといえるだろう。<br> | + | 子供は全て、その生の始まりにおいて母を必要としなければならない状態で生まれ、その存在を母に頼って初めの数年間を過ごし、やがて、心理的に母から分離した上で個を確立してゆく。<br> |
+ | この最初の段階の母と娘の問題を描いたのは山岸涼子であり、そこでは、母に対抗する自分の意思を持つ事と、主に父親によって体現される第三者の存在が、母からの個の確立の条件として形を変えて描かれていた。<br> | ||
+ | その後、娘は、家族のうちに留まることなく父親の領域である社会へ向かうが、娘の立場から男性社会での母の生き方を批判的に描いたのが萩尾望都だった。<br>彼女の作品では自己疎外状況にある母が描かれ、娘は母の生き方を否定する。<br> | ||
+ | しかし母の生き方の否定の延長として、母の存在や、自分が母になる事が保留される作品も作られる。<br> | ||
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+ | 山岸涼子や萩尾望都は、母の問題を描いたまんが家だが、1990年代以降のまんが家たちによっても母と娘は描かれ、継母という設定で、母と娘の間に距離を置きつつ信頼関係が築かれたり、読者がやがて母親になることを想定した少女まんがでは、自分が母親になることをふまえ、母親サイドに感情移入する作品も描かれる。<br>母と娘の問題を描くというより新しい関係を構築する方向で母と娘が描かれている作品も見られる。<br> | ||
+ | また、90年代以降、母親の周辺として父親の存在も、ポジティブに描かれるようになる。<br> | ||
+ | 有賀・篠目は、『親子関係のゆくえ』のなかで、1970年代を母性強調、母性抑圧の時代、続く1980年代を専業母、母性神話への懐疑と抵抗の時代、1990年代を父親の再発見の時代と述べているが、少女まんがにもまた社会の変化を反映し、時代に沿ったテーマの変化がみられる。<br> | ||
+ | 母と娘の問題は、やがて娘が母となり、母親の老いの問題など、母と娘の問題は青年期を過ぎてもその都度表れるが、本論のテーマは少女まんがで描かれた母と娘であり、読者の対象年齢が小学生から20代前半対象であることから、その年齢内の問題に留まるが、娘のそれぞれの時期に対応してそれぞれの答えが、少女まんがというメディアを通して描かれてきた。<br> | ||
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『妖精王』 白泉社 1978<br> | 『妖精王』 白泉社 1978<br> | ||
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2024年11月18日 (月) 23:57時点における最新版
結 論
子供は全て、その生の始まりにおいて母を必要としなければならない状態で生まれ、その存在を母に頼って初めの数年間を過ごし、やがて、心理的に母から分離した上で個を確立してゆく。
この最初の段階の母と娘の問題を描いたのは山岸涼子であり、そこでは、母に対抗する自分の意思を持つ事と、主に父親によって体現される第三者の存在が、母からの個の確立の条件として形を変えて描かれていた。
その後、娘は、家族のうちに留まることなく父親の領域である社会へ向かうが、娘の立場から男性社会での母の生き方を批判的に描いたのが萩尾望都だった。
彼女の作品では自己疎外状況にある母が描かれ、娘は母の生き方を否定する。
しかし母の生き方の否定の延長として、母の存在や、自分が母になる事が保留される作品も作られる。
それでも1980年代の後半、自分の母親に対しての見方を変えることで母になること、母であることを受け入れる作品も出て来る。
山岸涼子や萩尾望都は、母の問題を描いたまんが家だが、1990年代以降のまんが家たちによっても母と娘は描かれ、継母という設定で、母と娘の間に距離を置きつつ信頼関係が築かれたり、読者がやがて母親になることを想定した少女まんがでは、自分が母親になることをふまえ、母親サイドに感情移入する作品も描かれる。
母と娘の問題を描くというより新しい関係を構築する方向で母と娘が描かれている作品も見られる。
また、90年代以降、母親の周辺として父親の存在も、ポジティブに描かれるようになる。
有賀・篠目は、『親子関係のゆくえ』のなかで、1970年代を母性強調、母性抑圧の時代、続く1980年代を専業母、母性神話への懐疑と抵抗の時代、1990年代を父親の再発見の時代と述べているが、少女まんがにもまた社会の変化を反映し、時代に沿ったテーマの変化がみられる。
母と娘の問題は、やがて娘が母となり、母親の老いの問題など、母と娘の問題は青年期を過ぎてもその都度表れるが、本論のテーマは少女まんがで描かれた母と娘であり、読者の対象年齢が小学生から20代前半対象であることから、その年齢内の問題に留まるが、娘のそれぞれの時期に対応してそれぞれの答えが、少女まんがというメディアを通して描かれてきた。
これらの関係やその答えは、個々の読者の母と娘の問題と同じというわけにはいかないだろう。
しかし、まんがというメディアは、人の内面や人間関係を解かりやすく表現しうるメディアであり、表現の自由性と自在性によって多くの物語が社会に発表され、受け入れられ、共有される。
母娘関係を考える上でもまんがは親子の関係の問題や答えを提示することで、さまざまな問題を読者に考えさせ、より良い親子関係へのヒントを与えてくれるメデイアであるといえるだろう。
註
(註1)アダルトチルドレンとは、初めはアルコール依存症の親の元で育ったため、なんらかの問題を抱えた子供たちの事を意味していたが、今では親によって傷つけられた子供たち全てを指すようになった。
(註2)擬音は、実際の音を言葉に移したもので、擬態語は、様子を音で表したもの。
(註3)『ゴールデンライラック』では、娘のよき理解者である母親像が描かれ、『毛糸玉にじゃれないで』では裁縫、家事をこなす母に対して、「お母さんみたいな女性になりたい」と娘が思うシーンがある。
参考文献
アエラムック『コミック学の見方』、朝日新聞社、 1997
有賀美和子・篠田清美、『親子関係のゆくえ』、勁草書房、 2004
上野千鶴子、『近代家族の成立と終焉』、岩波書店、 1994
大塚英志、『おたくの精神史』、講談社現代新書、 2004
『教養としてのまんが』
落合恵美子、『21世紀家族へ』、有斐閣 1999
呉 智英、『現代マンガの全体像』、情報センター出版局 1986
斉藤学、『家族という名の孤独』、講談社、1995
『封印された叫び』、講談社、1999
夏目房之介『マンガはなぜ面白いのか』、日本放送出版協会、 1997
平林美津子『表彰としての母性』、ミネルヴァ書房、 2006
フィリップ・アリエス、『〈子供〉の誕生 アンシャンレジーム期の子供と家族生活』
杉山光信 杉山恵美子 訳 みすず書房、 1980
二上洋一『少女まんがの系譜』、ペンギン書房、 2005
藤本由加里『私の居場所はどこにあるの』、1999
山田昌弘『近代家族のゆくえ』、新曜社、 1994
荷宮和子『アダルトチルドレンと少女漫画』、1997
水間碧『隠喩としての少年愛』、創元社 2005
まんが資料
一条ゆかり『デザイナー』 集英社 2004
小沢真理 『ニコニコ日記』 集英社 2001
小花美穂 『こどものおもちゃ』 集英社 1996
くぼた尚子 『明るい家庭のつくり方』角川書店 1992
高屋奈月 『フルーツバスケット』 白泉社 1999
紡木たく 『ホットロード』 集英社 1987
萩尾望都 『トーマの心臓』 小学館文庫 1974
『11月のギムナジウム』 小学館文庫 1974
『メッシュ』 小学館 1982
『Marginal』 小学館文庫 1999
『残酷な神が支配する』 小学館文庫 2003
『イグアナの娘』 小学館 1992
山岸涼子 『赤い髪の少年』 朝日ソノラマ 1975
『セイレーン』 白泉社 1977
『妖精王』 白泉社 1978
第一章 子育てに関する家族史
第二章 まんがについて
第三章 母と、娘の個の確立ー山岸涼子の作品を中心に
第四章 母の生き方と娘ー萩尾望都の作品から
第五章 1980年代後半からの母性肯定とその後
結論&註・参考文献・まんが資料