Center:101-「無神論者の祈り」は方法論の追求
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私は研究者ではないので現場のフィールドワーク的な条件のなかで追求していきます」。 <br> | 私は研究者ではないので現場のフィールドワーク的な条件のなかで追求していきます」。 <br> | ||
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私にとっての方法論の追及とは、ほとんどこの言葉のなかに含まれています。<br> | 私にとっての方法論の追及とは、ほとんどこの言葉のなかに含まれています。<br> | ||
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共時性という言葉をある規則性のなかでゆがみなく使われる、その根拠を探すことと言い換えることもできまです。<br> | 共時性という言葉をある規則性のなかでゆがみなく使われる、その根拠を探すことと言い換えることもできまです。<br> | ||
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2018年12月31日 (月) 19:44時点における最新版
「無神論者の祈り」は方法論の追求
〔2011年3月25日〕
3月20日の「センター便り」に「C.G.ユングに関する本を読み始め」を書きました。
「ユングについては、たぶん共時性(シンクロニシティ)が私の関心の中心になると思います。
私の理解では、フロイトの開いた無意識へのアプローチの仕方に、因果的関連の窮屈さから了解的関連を理論的に加えたのがヤスパースなのでしょう。
共時的とはさらにその外側に“偶然の一致”のように見えて、何らかの関連を見出そうとするものに思えます。
必然性とまではいえないけれども、単なる偶然性とか、意味不明とはいえないものがある。
その探求でしょうか。
全体のイメージとしては、人間にとっての原始性Primitiveなもの、動物的なものや太古性のなかに意味をさぐっていく。
たぶんJ.ルソーの「自然に還れ」はそれに関係するのかも。
人間にとっての女性の役割や感情・感覚がもつ役割を見ていくことになりそうです。
私は研究者ではないので現場のフィールドワーク的な条件のなかで追求していきます」。
私にとっての方法論の追及とは、ほとんどこの言葉のなかに含まれています。
日本の精神文化の、特に美意識に関するものは、どのような条件で生まれてきたのか、それはどのような現われ方なのか。
結局のところそれらは言葉で表現するしかないのですがどのように表現できるのか、言語表現できないものをどう扱うのか……その追求がこのページの目的です。
ですから私が「共時性」を使うとすれば、ものごとのわかり方(認識のしかた)のためです。
言葉にしている部分が相互に関連し、全体として矛盾のないことが条件です。
それは論理の構成として整っていること(論理学)により果たされるでしょう。
認識の仕方と論理の構成を整えるのは弁証法、動的な弁証法になるはずです。
弁証法により認識論と論理学を組み立てる作業が、この仕事の思弁的な面です。
少なくともユング以降の人が語る「共時性(シンクロニシティ)」という言葉を、場当たり的や思いつきでなく使えるものにしていきたい。
それがこのページの目的の一つにあります。
共時性という言葉をある規則性のなかでゆがみなく使われる、その根拠を探すことと言い換えることもできまです。