体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(2)
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+ | 定時制の授業は難しくなかったし、いじめを受けるようなこともなかった。<br> | ||
+ | 小、中学生時代とは違い友達も出来て楽しかった思い出もある。<br> | ||
+ | 学年一クラス。三十人定員で、例年は「定員割れ」が当たり前だったらしいが、この年から「留年組み」を含めると定員をオーバーする生徒が在籍していた。<br> | ||
+ | しかしほとんどは現役で同じ年。<br> | ||
+ | 「訳アリ」の人も多かったのかもしれないが、そんな話はしなかった。<br> | ||
+ | 昼間は専門学校に通っている人やアルバイトをしている人が多かったが、私はなにもしていなかった。<br> | ||
+ | 働きに出たい気持ちはあったが、当時まだ十五歳で昼間の数時間だけ働ける職場はあまりなかった。<br> | ||
+ | 中学時代、試験では常に学年で「ワースト10」だった私がこの学校ではなにも勉強しなくても常に「ベスト5」に入るほど低レベルな学校だった。<br> | ||
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+ | 高校一年の時は無難に過ごせた。<br> | ||
+ | しかし二年に進級した頃から中学時代のように、対人緊張が強くなってしまった。<br> | ||
+ | この学校でも陰湿な「いじめ」が存在した。<br> | ||
+ | 私は当事者でも加害者でもなく「傍観者」であったが、「いじめ」に遭って退学していく生徒がいると「次は俺がいじめの対象になるかも…」という不安があった。<br> | ||
+ | 表向きは楽しく過ごしていても、内面はいつも緊張していて他人の顔色ばかり気にしていた。<br> | ||
+ | 「こんな事をしたら嫌われる、怒られる、仲間外れにされる、いじめられる…」心の奥で常にそんな緊張状態があった。<br> | ||
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+ | 定時制で昼間にスーパーでバイトをしている人も多かったので「働き易いのでは?!」と思い新規開店の店に応募した。<br> | ||
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+ | しかし対人不安、神経症を引きずったままバイトに出たのでここも毎日緊張状態ですごく疲れた。<br> | ||
+ | 接客業だったので今考えれば挙動不審の店員だったと思う。<br> | ||
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+ | 専門校は動物が好きだったのでトリマーの学校へ行きたいと思っていた。<br> | ||
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+ | 両親に相談したが、私が登校拒否、高校も中退していたことから「絶対に辞めない自信があるなら行っても良い」…と言われた。<br> | ||
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+ | 親には登校拒否、高校中退で散々迷惑、心配を掛けたし、「これ以上迷惑は掛けられない」 …と思い、学校という存在自体にも嫌悪感があったので進学は諦めた。<br> | ||
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+ | やはり高校卒業の資格は欲しかったし、通信制は授業料が数万円と安く、自分のバイト代でやっていけたのであまり深く考えず、気軽に始めてみた。<br> | ||
+ | ある親戚の人からは「ハッハッハッ今度は通信制だってさ! ついでに通信空手でも習ったらどうだ?」…とバカにされた。<br> | ||
+ | 簡単な面接で入学出来たが、通信制は勉強の進め方がよく分からなかった。<br> | ||
+ | 申し込みが済むとすぐに一年分の教材が届けられ、そこからすぐに授業開始だったらしいのだが、私はいつから授業が始まるのか分からず封も開けずにいた。<br> | ||
+ | 毎月一回スクーリングがあるのだが、最初のスクーリングに出てビックリ! もう一か月分のレポート提出期限が過ぎていた。<br> | ||
+ | 慌てて勉強して最初の頃のレポートは追いついたが、仕事をしながら独学の勉強は難しく、訳が分からないうちに一年が終わってしまった。<br> | ||
− | + | しかしこの通信制には親も期待はしておらず、自分でも「何年掛かってもいずれ勉強したくなった時にまた始められればいいかな…」程度に思っている。<br> | |
+ | 専門学校への進学を諦めた後、これから自分がやりたいこと、なりたい職業が分からなくて漠然としていた。<br> | ||
+ | 「学歴がなければ技術や資格が必要」 …ということは親からも言われ、自分でもそう思っていた。<br> | ||
+ | そこで自動車整備工場に就職した。しかし元々不器用で技術や工作の授業が苦手だった私にはとても向いている職業ではなかった。<br> | ||
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+ | この時、十七歳でまだ車の免許を取りに行くという目標もあり、すぐに次のバイトを始める。<br> | ||
+ | 配送所での仕分け作業。午後の六時間程度の仕事で18歳になってからは午前中は教習所、午後から仕事という生活だった。<br> | ||
+ | この仕事は単純労働だったが、ミスが許されない、かなり神経質な職場だった。<br> | ||
+ | 私は相変わらず対人不安、神経症で職場の人達とほとんどど会話をすることはなかった。<br> | ||
+ | どんなに体調が悪くても人に頼みごとが出来ず「休む」と言えなくてかなり無理をした。<br> | ||
+ | 休む時は辞める時だった。<br> | ||
+ | またこの職場にはやや知的障害の人が働いていたのだが、いい年をした大人連中がよってたかってその人をこき使い、いじめていた。<br> | ||
+ | 「子供社会は大人社会の縮図」と言われるが、当時子供と大人の間の年齢だった私にその光景はショックだった。<br> | ||
+ | とりあえず、このバイトをしながら車の免許は取れた。教習所ではほとんど苦労はなかった。<br> | ||
+ | 車の教習は他人と競うことなく自分のペースで出来るから良かったのかもしれない。<br> | ||
+ | しかし免許が取れた後、バイトがものすごく忙しくなった。<br> | ||
+ | 教習所に行く予定がなくなると会社に都合よく使われた。<br> | ||
+ | 朝八時に出勤して終わりが夜十一時を過ぎるような毎日で、神経質な仕事の上、人間関係にも気を遣っていたので心身共に限界に達した。<br> | ||
+ | 自分のこれからを考えて、不安、焦燥感もあり気が狂いそうになっていた。<br> | ||
+ | そしてまた登校拒否、高校を中退した時と同じように頭痛、腹痛、だるさの体調不良に襲われる。<br> | ||
+ | 体調が悪くなる前、母親には職場の不満、進路について相談していた。<br> | ||
+ | しかし母は「会社なんかどこに行っても一緒。おまえは暗いねぇ」…とまともに相手をしてもらえなかった。<br> | ||
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+ | 食事やボーリングに出掛けて楽しかったのだが、徐々に「車を買った…」「ボーナスが幾らだった…」等の話しを聞かされるようになり、引け目を感じるようになってしまい、会うのが嫌になってしまった。<br> | ||
+ | 今考えれば友人は普通の会話をしていた訳で、自分の勝手な都合で縁を切ってしまい申し訳なかったし、今となっては残念に思う。<br> | ||
+ | 家の中では音楽を聴いている時間が多かった。<br> | ||
+ | 当時ボウイの大ファンでよく聴いた。<br> | ||
+ | 私の人並みの青春はボウイが好きだったことぐらいだ。<br> | ||
+ | 犬や猫、ペットと過ごすのも癒しの時間だった。<br> | ||
+ | 犬や猫は餌が欲しくてなつくだけなのだろうが、寂しくて自分を必要としてくれる存在がとても愛しく感じられた。<br> | ||
+ | 母親もパートに出ていて留守が多かったので、あまり口うるさい事は言われず、家の中での居心地は悪くなかったと思う。<br> | ||
+ | 高校を中退した時点で親はある程度私のことを諦めたのかもしれないが、今考えれば当時私はまだ二十歳前で(当時自分が若いという意識は全くなかったが…)世の中的にも景気が良かったので、本人がその気になればいつでも仕事に出られると楽観していたのかもしれない。<br> | ||
+ | しかし「登校拒否時代」とは違い、この頃からは親よりも自分自身の方が強い危機感を持つようになっていた。<br> | ||
+ | 暇を感じることはなかった。<br> | ||
− | + | ===父のツテで建設会社で働く=== | |
+ | 後で聞いた話だが引きこもりの人は暇を感じる余裕がないそうだ。<br> | ||
+ | この頃父親が三十年近く勤めた信用金庫から不動産業に転職していた。<br> | ||
+ | 実際この転職は失敗で家の経済状況は苦しくなっていたのだが、父が勤める会社の建設部門で「働かないか…」という話しがあった。<br> | ||
+ | 父が働いている会社なので簡単に辞めることは出来ないし抵抗もあった。<br> | ||
+ | かなり悩んだが無職でいることに罪悪感があったし、父が「俺の事は気にしなくて良いし、駄目な時は仕方ない」…と言ってくれたので世話になることにした。<br> | ||
+ | この当時、バブル景気に沸いた時代で建設業は3K(キツイ、汚い、危険)と言われどこも人手不足だった。<br> | ||
+ | 実際この仕事はかなりハードだった。<br> | ||
+ | しばらく仕事から遠ざかっていたので(約一年)余計肉体的にキツかった。<br> | ||
+ | 私は相変わらず職場では対人関係に緊張し、会話もほとんどしなかった。<br> | ||
+ | 「まわりの人から変な奴と思われているんじゃないか?」「いつまでも仕事が覚えられなくてバカだと思われていないか…」<br> | ||
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+ | 父は気を遣い昼休みには食事に誘ってくれたりした。<br> | ||
+ | 私と一緒に働いていた同年代の奴にも食事をおごる等気を遣っていた。<br> | ||
+ | でもそいつはズルくて調子の良い奴で、職場では人気があったが私にはムカツク奴だった。<br> | ||
+ | 大変な仕事は全部私にやらせて、自分はサボっているような奴だった。<br> | ||
+ | しかし私の方が後から入社したため、文句も言えなかった。<br> | ||
+ | 私が親と一緒の会社で働いていることもバカにしたような態度で見ていて、「いつも父ちゃんと一緒でいいねぇ」「いつまでも親に面倒みてもらえる人はいいよなぁ」 …などと散々バカにされ、嫌な思い、悔しい思いをさせられていたのだ。<br> | ||
+ | 父親なりの配慮だったのだろうが、そんな奴にまで気を遣われるのは嫌だった。<br> | ||
+ | しかしそうゆうことを当時父親に話せなかった。<br> | ||
+ | 先にも書いたように、父親は仕事人間でほとんど家にいなかったので子供の頃から話しをする機会がなく、ずっとよそよそしい関係だった。<br> | ||
+ | 思ったことを気兼ねなく話せる間柄ではなかった。<br> | ||
+ | 仕事が肉体的、精神的に辛いことも相談出来ずに追いつめられていった。<br> | ||
+ | そしてまた体調不良、倦怠感で仕事へ行けなくなる。<br> | ||
+ | 母親からは「おまえいくつになると思っているの? 少しは我慢して頑張りなさい!」…と言われた。<br> | ||
+ | 私は「もう辛くて耐えられない…」と泣き崩れた。二十歳にもなって泣いている自分が情けなかった。<br> | ||
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+ | 学校もダメ、仕事もダメ。いじめが原因で学校に行けないと思っていた。<br> | ||
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+ | 「でも結局はいじめられた原因も、学校に行けなかった原因も全て自分に問題があったんだ…」「全て自分が悪かったんだ…。」と自分を責めた。<br> | ||
+ | 生きている資格もないと思い本当に死にたくなった。<br> | ||
+ | しかし死ぬことも出来ないまま、また長い引きこもりトンネルに入っていく…。<br> | ||
+ | (つづく)<br> | ||
− | + | ⇒[[体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(1)]]<br> | |
+ | ⇒体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(2)<br> | ||
+ | ⇒[[体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(3)]]<br> | ||
+ | ⇒[[体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(4)]]<br> | ||
+ | ⇒[[体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(5)]]<br> | ||
+ | ⇒[[体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(6)]]<br> | ||
+ | ⇒[[体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(7)]]<br> | ||
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2018年2月8日 (木) 12:35時点における最新版
目次 |
引きこもり模索日記(2)
著者:森田はるか(男性・東京都)
定時制高校に入る
定時制の授業は難しくなかったし、いじめを受けるようなこともなかった。
小、中学生時代とは違い友達も出来て楽しかった思い出もある。
学年一クラス。三十人定員で、例年は「定員割れ」が当たり前だったらしいが、この年から「留年組み」を含めると定員をオーバーする生徒が在籍していた。
しかしほとんどは現役で同じ年。
「訳アリ」の人も多かったのかもしれないが、そんな話はしなかった。
昼間は専門学校に通っている人やアルバイトをしている人が多かったが、私はなにもしていなかった。
働きに出たい気持ちはあったが、当時まだ十五歳で昼間の数時間だけ働ける職場はあまりなかった。
中学時代、試験では常に学年で「ワースト10」だった私がこの学校ではなにも勉強しなくても常に「ベスト5」に入るほど低レベルな学校だった。
高校一年の時は無難に過ごせた。
しかし二年に進級した頃から中学時代のように、対人緊張が強くなってしまった。
この学校でも陰湿な「いじめ」が存在した。
私は当事者でも加害者でもなく「傍観者」であったが、「いじめ」に遭って退学していく生徒がいると「次は俺がいじめの対象になるかも…」という不安があった。
表向きは楽しく過ごしていても、内面はいつも緊張していて他人の顔色ばかり気にしていた。
「こんな事をしたら嫌われる、怒られる、仲間外れにされる、いじめられる…」心の奥で常にそんな緊張状態があった。
「暗い奴」とはよく言われた。>br>
高校も体調が悪くなり、休みがちになってから辞めることになったが、その当時の自分ではなにが嫌で退学してしまったのか分からなかった。
ただ漠然と学校が嫌だと思っていた。
親や教師に「なにが嫌なのか?問題なのか?」と聞かれても、その当時の自分には気持ちをうまく説明出来なかった。
ただ疲れていた。
でも今考えれば、その当時の自分は毎日緊張の連続で精神的にギリギリだったし、神経症、うつ病、対人恐怖になっていたのだと思う。
退学の後、バイトと通信を始める
高校は二年の途中で辞めた。中退直後は不安もあったが希望もあった。
元々なんでも型にハメ、集団行動を強要する学校が嫌だったし、いろいろなことから解放されたかった。
しかしそれは浅はかで甘い考えだった。
私が進んだ道は引きこもり地獄への道だった…。
高校中退後は近所のスーパーですぐにアルバイトを始めた。
定時制で昼間にスーパーでバイトをしている人も多かったので「働き易いのでは?!」と思い新規開店の店に応募した。
学校も行かず、仕事もせずの人間は堕落した人間だと思っていたし、登校拒否をしていた時「ホームレスにでもなりたければ学校なんか行かなくてもいい」 …と親、病院、学校の先生から言われていたので無職でいることは許されないと思っていた。
しかし対人不安、神経症を引きずったままバイトに出たのでここも毎日緊張状態ですごく疲れた。
接客業だったので今考えれば挙動不審の店員だったと思う。
でもバイトをしながら進路についても考えていたので、この時期ならまだ充分やり直しが効いたと思う。
「同学年の奴、高校に行っている奴に負けたくない!」…という強い気持ちもあった。
進路については専門学校、大検予備校へ行きたい希望があった。
専門校は動物が好きだったのでトリマーの学校へ行きたいと思っていた。
しかしいずれも相当のお金が掛かる…。
両親に相談したが、私が登校拒否、高校も中退していたことから「絶対に辞めない自信があるなら行っても良い」…と言われた。
もちろんそんな自信はない。
勉強そのものに不安もあったが、それ以上に人間関係が不安だった。
親には登校拒否、高校中退で散々迷惑、心配を掛けたし、「これ以上迷惑は掛けられない」 …と思い、学校という存在自体にも嫌悪感があったので進学は諦めた。
その後とりあえず通信制の高校に入学した。
やはり高校卒業の資格は欲しかったし、通信制は授業料が数万円と安く、自分のバイト代でやっていけたのであまり深く考えず、気軽に始めてみた。
ある親戚の人からは「ハッハッハッ今度は通信制だってさ! ついでに通信空手でも習ったらどうだ?」…とバカにされた。
簡単な面接で入学出来たが、通信制は勉強の進め方がよく分からなかった。
申し込みが済むとすぐに一年分の教材が届けられ、そこからすぐに授業開始だったらしいのだが、私はいつから授業が始まるのか分からず封も開けずにいた。
毎月一回スクーリングがあるのだが、最初のスクーリングに出てビックリ! もう一か月分のレポート提出期限が過ぎていた。
慌てて勉強して最初の頃のレポートは追いついたが、仕事をしながら独学の勉強は難しく、訳が分からないうちに一年が終わってしまった。
しかしこの通信制には親も期待はしておらず、自分でも「何年掛かってもいずれ勉強したくなった時にまた始められればいいかな…」程度に思っている。
専門学校への進学を諦めた後、これから自分がやりたいこと、なりたい職業が分からなくて漠然としていた。
「学歴がなければ技術や資格が必要」 …ということは親からも言われ、自分でもそう思っていた。
そこで自動車整備工場に就職した。しかし元々不器用で技術や工作の授業が苦手だった私にはとても向いている職業ではなかった。
「分からない事があったらなんでも聞けよ!」 …と言われて、ほんとになんでも聞きに行くと「そんなことも分からねーのかよ!」 …と言われる。
そうなると気が弱い私はその後なにも聞けなくなってしまい失敗の連続…。
自分では一生懸命にやっているつもりでも上の 人から見れば物足りない事も多かったのだろう。
厳しいことを言われて傷付いたし、仕事も覚えられそうになかったので嫌な思いだけして3か月程で辞めた。
バイトをやめ引きこもり生活に
この時、十七歳でまだ車の免許を取りに行くという目標もあり、すぐに次のバイトを始める。
配送所での仕分け作業。午後の六時間程度の仕事で18歳になってからは午前中は教習所、午後から仕事という生活だった。
この仕事は単純労働だったが、ミスが許されない、かなり神経質な職場だった。
私は相変わらず対人不安、神経症で職場の人達とほとんどど会話をすることはなかった。
どんなに体調が悪くても人に頼みごとが出来ず「休む」と言えなくてかなり無理をした。
休む時は辞める時だった。
またこの職場にはやや知的障害の人が働いていたのだが、いい年をした大人連中がよってたかってその人をこき使い、いじめていた。
「子供社会は大人社会の縮図」と言われるが、当時子供と大人の間の年齢だった私にその光景はショックだった。
とりあえず、このバイトをしながら車の免許は取れた。教習所ではほとんど苦労はなかった。
車の教習は他人と競うことなく自分のペースで出来るから良かったのかもしれない。
しかし免許が取れた後、バイトがものすごく忙しくなった。
教習所に行く予定がなくなると会社に都合よく使われた。
朝八時に出勤して終わりが夜十一時を過ぎるような毎日で、神経質な仕事の上、人間関係にも気を遣っていたので心身共に限界に達した。
自分のこれからを考えて、不安、焦燥感もあり気が狂いそうになっていた。
そしてまた登校拒否、高校を中退した時と同じように頭痛、腹痛、だるさの体調不良に襲われる。
体調が悪くなる前、母親には職場の不満、進路について相談していた。
しかし母は「会社なんかどこに行っても一緒。おまえは暗いねぇ」…とまともに相手をしてもらえなかった。
長期欠勤のままこのバイトは退職。
この後引きこもり生活に入る。
当初は体調が悪かったこともあり「療養期間」程度に考えていた。
食欲もなくほとんど一日寝ていた。
当時は「引きこもり」などという言葉もない。
「自分は精神的におかしい」 …と感じていたので精神科の病院に行きたいと思い、母親に相談した。
しかし精神科の敷居は高い。自分にも母親にも差別、偏見の意識があったと思う。
「そんな所行く必要ない」 …と言われ、そのままになってしまった。
しばらくして体調は良くなったが、仕事に出る自信はなかつた。
無職で家にいるのは心苦しく、家の掃除やペットの世話、親が出掛ける時は車での送迎など家の手伝いをするようにした。
この当時は高校時代の友人がときどき家を訪ねてきてくれていた。
食事やボーリングに出掛けて楽しかったのだが、徐々に「車を買った…」「ボーナスが幾らだった…」等の話しを聞かされるようになり、引け目を感じるようになってしまい、会うのが嫌になってしまった。
今考えれば友人は普通の会話をしていた訳で、自分の勝手な都合で縁を切ってしまい申し訳なかったし、今となっては残念に思う。
家の中では音楽を聴いている時間が多かった。
当時ボウイの大ファンでよく聴いた。
私の人並みの青春はボウイが好きだったことぐらいだ。
犬や猫、ペットと過ごすのも癒しの時間だった。
犬や猫は餌が欲しくてなつくだけなのだろうが、寂しくて自分を必要としてくれる存在がとても愛しく感じられた。
母親もパートに出ていて留守が多かったので、あまり口うるさい事は言われず、家の中での居心地は悪くなかったと思う。
高校を中退した時点で親はある程度私のことを諦めたのかもしれないが、今考えれば当時私はまだ二十歳前で(当時自分が若いという意識は全くなかったが…)世の中的にも景気が良かったので、本人がその気になればいつでも仕事に出られると楽観していたのかもしれない。
しかし「登校拒否時代」とは違い、この頃からは親よりも自分自身の方が強い危機感を持つようになっていた。
暇を感じることはなかった。
父のツテで建設会社で働く
後で聞いた話だが引きこもりの人は暇を感じる余裕がないそうだ。
この頃父親が三十年近く勤めた信用金庫から不動産業に転職していた。
実際この転職は失敗で家の経済状況は苦しくなっていたのだが、父が勤める会社の建設部門で「働かないか…」という話しがあった。
父が働いている会社なので簡単に辞めることは出来ないし抵抗もあった。
かなり悩んだが無職でいることに罪悪感があったし、父が「俺の事は気にしなくて良いし、駄目な時は仕方ない」…と言ってくれたので世話になることにした。
この当時、バブル景気に沸いた時代で建設業は3K(キツイ、汚い、危険)と言われどこも人手不足だった。
実際この仕事はかなりハードだった。
しばらく仕事から遠ざかっていたので(約一年)余計肉体的にキツかった。
私は相変わらず職場では対人関係に緊張し、会話もほとんどしなかった。
「まわりの人から変な奴と思われているんじゃないか?」「いつまでも仕事が覚えられなくてバカだと思われていないか…」
そんなことばかり毎日一人で考えていた。
父は気を遣い昼休みには食事に誘ってくれたりした。
私と一緒に働いていた同年代の奴にも食事をおごる等気を遣っていた。
でもそいつはズルくて調子の良い奴で、職場では人気があったが私にはムカツク奴だった。
大変な仕事は全部私にやらせて、自分はサボっているような奴だった。
しかし私の方が後から入社したため、文句も言えなかった。
私が親と一緒の会社で働いていることもバカにしたような態度で見ていて、「いつも父ちゃんと一緒でいいねぇ」「いつまでも親に面倒みてもらえる人はいいよなぁ」 …などと散々バカにされ、嫌な思い、悔しい思いをさせられていたのだ。
父親なりの配慮だったのだろうが、そんな奴にまで気を遣われるのは嫌だった。
しかしそうゆうことを当時父親に話せなかった。
先にも書いたように、父親は仕事人間でほとんど家にいなかったので子供の頃から話しをする機会がなく、ずっとよそよそしい関係だった。
思ったことを気兼ねなく話せる間柄ではなかった。
仕事が肉体的、精神的に辛いことも相談出来ずに追いつめられていった。
そしてまた体調不良、倦怠感で仕事へ行けなくなる。
母親からは「おまえいくつになると思っているの? 少しは我慢して頑張りなさい!」…と言われた。
私は「もう辛くて耐えられない…」と泣き崩れた。二十歳にもなって泣いている自分が情けなかった。
なにをやっても駄目な自分が嫌で嫌で仕方なかった。
学校もダメ、仕事もダメ。いじめが原因で学校に行けないと思っていた。
いじめる奴等が悪いと思っていた。
「でも結局はいじめられた原因も、学校に行けなかった原因も全て自分に問題があったんだ…」「全て自分が悪かったんだ…。」と自分を責めた。
生きている資格もないと思い本当に死にたくなった。
しかし死ぬことも出来ないまま、また長い引きこもりトンネルに入っていく…。
(つづく)
⇒体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(1)
⇒体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(2)
⇒体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(3)
⇒体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(4)
⇒体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(5)
⇒体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(6)
⇒体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(7)