情動的な相談に理性的に答えようとして失敗
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それは「愛」をテーマにしたもので、未消化なものがあると感じます(同書・209ページ)。<br>別に「怒りと感情表現」というエッセイもあり、こちらは納得できるわけですから、感情や情動について書いたもの全部がダメだとは思わないのですが、私にとって「愛」な難敵のようです。 <br> | それは「愛」をテーマにしたもので、未消化なものがあると感じます(同書・209ページ)。<br>別に「怒りと感情表現」というエッセイもあり、こちらは納得できるわけですから、感情や情動について書いたもの全部がダメだとは思わないのですが、私にとって「愛」な難敵のようです。 <br> | ||
男性は、または日本人男性は、あるいはアスペルガー気質である松田武己は愛を語るとか、その前に愛を感じる感覚がどこか目詰まりでもしているのかもしれません。<br> | 男性は、または日本人男性は、あるいはアスペルガー気質である松田武己は愛を語るとか、その前に愛を感じる感覚がどこか目詰まりでもしているのかもしれません。<br> | ||
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私がそのエッセイで書いたことは「愛」に代わって「誠実さ」でした。<br> | 私がそのエッセイで書いたことは「愛」に代わって「誠実さ」でした。<br> | ||
この不十分なエッセイで私は愛というのを誠実さで表現しようとしているのです。<br> | この不十分なエッセイで私は愛というのを誠実さで表現しようとしているのです。<br> | ||
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そして「誠実さ」というのは、「権利・義務」を愛の表現とした近代精神にもつながると思います。<br> | そして「誠実さ」というのは、「権利・義務」を愛の表現とした近代精神にもつながると思います。<br> | ||
権利・義務が国民全体への愛の表現ならば、誠実さはより近しい人の間での愛の表現になるのではないかと。<br> | 権利・義務が国民全体への愛の表現ならば、誠実さはより近しい人の間での愛の表現になるのではないかと。<br> | ||
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なかなか困った事態です。<br> | なかなか困った事態です。<br> | ||
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おそらく私以上に何かを知っているので、自分の力で何とか開いていくと思うのですがどうでしょうか。<br> | おそらく私以上に何かを知っているので、自分の力で何とか開いていくと思うのですがどうでしょうか。<br> | ||
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情動的な相談に理性的に答えようとして失敗
(会報「ひきこもり居場所だより」2023年7月号)
相談を受けるなかで、私は夫婦の「離婚」も考えてみるべきではないかと答えたことがあります。
多くの相談を受けてきたけれども離婚を避ける方向で考えたことはありますが、それを促す方向で話を進めたのは初めてでした。
だが私にはその方向に必ずしも自信はもっていません。
そう口にしたのは相談者(妻側)の口ぶりにスタンスや判断があいまいで、このままでは事態は何ら変わらず時間だけが進んでいくと感じたからです。
相談する側は迷っているし、即断できないことは多いものです。
だから相談になるわけですが、それも同じような話しが繰り返され重なると「話を聞いてもらいたいだけ」と思えてきます。
「聞くだけでもOK」も間違っていないでしょう。
グチの聞き役に徹するのも一つの役割と思うことはあります。
ところがそれが相談する側に伝わると、「ちゃんと聞いていない」と怒られることもあります。
今回紹介する話もそういう成り行きを感じて、ギアチェンジのように「離婚したいのか?」と向けてみたのです。
反応は意外なものでした。
いや反応は複雑で一言でこれと言い表すことはできないのですが、そのなかに意外なものが1つあったというべきです。
「松田さんは冷静で、理性的に見て考えるが、そうとばかりには考えられない」といいます。
何なのか? 情動的・感情的なことらしい。
その部分を考えた返事がないと言いたかったらしいです。
もちろん離婚後の生活をどうするのかなど現実的なことも話の過程では出ていたわけです。
しかし、印象に残っているのは気持ちを客観的に判断されて答えるばかりに思えたらしい。
私には、理性的に対する情動的なことの空白という対比が、頭に残りました。
ここで似たような気持ちになったことを1つ思い出しました。
2021年に『ひきこもり国語辞典』を発行するとき、担当編集者の提案で私のエッセイを書き加えることになりました。
辞書に挙げる言葉とは別のもので、居場所、福祉サービス、結婚などをテーマに合計10本のエッセイを書きました。
自分が見聞きしたオリジナルな体験を折りまぜて書いたものです。
2年経った今読み返しても、おおかたは自分なりに納得できるのですが、1つだけ「ダメだな」と思うものがあります。
それは「愛」をテーマにしたもので、未消化なものがあると感じます(同書・209ページ)。
別に「怒りと感情表現」というエッセイもあり、こちらは納得できるわけですから、感情や情動について書いたもの全部がダメだとは思わないのですが、私にとって「愛」な難敵のようです。
男性は、または日本人男性は、あるいはアスペルガー気質である松田武己は愛を語るとか、その前に愛を感じる感覚がどこか目詰まりでもしているのかもしれません。
「愛」のところのエッセイは、ある人が答えてくれた「深い思い」として展開しようとしたのですが、自分の中にオリジナルな「深い思い」を探そうとして、これというものが見つかりません。
私がそのエッセイで書いたことは「愛」に代わって「誠実さ」でした。
この不十分なエッセイで私は愛というのを誠実さで表現しようとしているのです。
それで「誠実さ」に考え、それを(主に男性に表れやすい)愛の表現にしようと思い至ったわけです。
しかし十分に表現はできなかったのです。
これを連想したのは遠い記憶によります。
権利・義務という制度化された近代精神は、18世紀ドイツの哲学者カントが、人間愛の1つの表現としていたのを思い出しました。
カントではなくイェーリングが『権利のための闘争』(1872年)で述べていたかもしれません。
誰の言葉であったのかははっきりしませんが、どちらであっても権利・義務という近代制度は愛の表現というわけです。
そして「誠実さ」というのは、「権利・義務」を愛の表現とした近代精神にもつながると思います。
権利・義務が国民全体への愛の表現ならば、誠実さはより近しい人の間での愛の表現になるのではないかと。
その立場からみれば私の理性的な判断は愛の表現方法とみてもらえるはずですが、日常用語としてはそうは伝わりません。
なかなか困った事態です。
相談において私が離婚を口にした話に戻しましょう。
相談してきた人は離婚なんてハナから考えていなかったのかもしれません。
私が事態を冷静に見て、答えていることへの違和感があったかもしれません。
私が答えるなかには夫婦の中にある情愛的なことへの理解や言葉がなかったのでしょう。
一方的な夫側の言い分と思えるもののなかに、誠実さを見ようとするのは理解を超えていたのでしょうか。
この人はこれらをどう心の中で処理すればいいのかわからないのに、そこに私は何の答えもしていない。
確認をとったわけではありませんがそんな感じがします。
ここが理解できないこと、相談しても的確な話が戻ってこない…その結果、この相談者は不決断で、あいまいな状態になっていると思えてきました。
相談した人に私はうまく応える自信はないです。
おそらく私以上に何かを知っているので、自分の力で何とか開いていくと思うのですがどうでしょうか。